勉強の哲学
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ラディカルラーニング 深い勉強
環境に癒着した自己を玩具的な言語使用によって自己破壊し、可能性の空間に身を開くこと。
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ユーモアとアイロニーを用いて飛躍と懐疑を扱う。
その無限さ、非言語性を有限化するためには、享楽的こだわりが必要である。
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比較の中断とベターなアジャイルラーニング。
こだわりは欲望年表から導く抽象的アイロニーや比喩による。
✅技術
勉強とは、専門分野への参加である。
引用は保存せよ。
並行せよ。
書くことで考える
アウトライナーの階層性と有限性を活用せよ
自由の不自由性
環境依存と環境=他者関係
Miyabi.iconインタラクションする閉鎖系
自己閉鎖系の環境依存性
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環境による目的の共同化=コード(ノリ)
「勉強とは、立ち止まること、ノリが悪くなることである。」
環境創発としての個性
環境学習を停止して、言語的に考えるとコードから浮遊した観念が得られる。
言語それ自体の現実からの分離。
ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考で言う、可能な論理像
言語的な仮想現実
2つの言語コードによって自明性から引き起こされることが勉強の本質である
コードの間で裂かれた、言語としての文脈的に未分化な、すなわち器官となる前の卵としての状態。
言語の物質性と「わからなさ」が立ち現れる。
意味、言語の変更可能性が生まれる。
言語の不透明性に気づき、言語をわざと操作する意識をもつようになることこそが、どんな 勉強にも共通する、一般に重要なことだと思うのです。もちろん、フランス料理を勉強して繊 細なソースをつくれるようになるとか、社会学を学ぶことでブラック企業の問題を考えられる ようになるといった、特殊な課題が勉強にはある。ですがそれと同時に、あらゆる勉強に共通 の、言語への意識を高めるという「一般勉強法」がある。料理や、あるいは美容などの技術を 学ぶときにも、独特の概念や語り方による新たな言葉の世界に入るわけです。そのときの、言葉への違和感を大切にしてほしいのです。わざとそういう言い方をしているという感覚です
一般勉強法とは、言語を言語として操作する意識の育成である。それは、言語操作によって、 言語が特定の環境のコードと癒着していない、別の可能性を考えられるようになることである
つまり、
深く勉強するとは、言語偏重の人になることである
アイロニーとユーモアをわざと発揮できるような勉強の模索
普通→知性とキモさ→来たるべきバカ
アイロニーとユーモアで自明なコードを破る。
アイロニーとユーモアの突き当たりには、
ナンセンスがある。
アイロニストは会話や世界の自明さ、即ちコードをアイロニーによって飛躍させ、場を壊す。
アイロニーは再現なく。超コード化(メタルールを浮き彫りする。
脱コードへ向かう。
アイロニーは、アイロニストは現実それ自体を目指すが、それは叶わない
従って言語を放棄することになる。
Miyabi.icon禅の非言語性に類似している。 ✅ユーモア
ユーモアはコードの転覆や拡張を起こす。
目的的な指向性を失って迷子になる
「なんの話だっけ??」
話が転々とする人
Miyabi.icon俺
意味の飽和→意味の飽和したナンセンス
縮減的ユーモアの過剰
意味ではなく形態的なスタイル
こだわり
✅最後の勉強をするな
自己実現としての「真理の探究」は夢想でしかない。
有限化しろ。
三つの有限化
環境のコードに従う。
アイロニーは決断によって有限化する
ユーモアは比較を中断する。
絶対的な根拠は無理なので、
絶対間根拠。
根拠のない自信
仮固定して比較を続ける。
Miyabi.icon全く矛盾を求められるが、人生は有限
✅順序
複数の入門書
教科書
基本書
情報の信頼性
信頼性の絶対的ではなく、相対的な 根拠とは、その著者・文献が、「知的な相互信 頼の空間から信頼を受けているかどうか」である
学問は、異なる立場の比較そのものを目的化している。
✅読書
テクストの環境を把握する
二項対立を把握する
だいたいの理解がテクスト内の対象と相互に結びつくかどうか、
✅ノート
引用とっとけ
横断的に分野を
3日坊主で行った来たり
✅書く技術
アイデアを出すために書く
過剰書き、フリーライティング
アウトライン
思考の組み替え可能性
有限化の指向性が働く
Miyabi.iconだからTwitter好きなのねこの人。マゾだね。
紙のノート
手が疲れるという有限化
エアロネイア
アイロニーの語源。ソクラテスの行ったメタ的な問いの技法。対話哲学の原点。ツッコミ。