完成度は運動の断面
昨年度の藝大卒制講評で、事前アンケートとして油画学部生と院生に、以下の二問を投げかけた。
Q.1 事前のイメージ、計画、あるいは完成予想といったものは、その作業プロセスのなかで無効化し、更新されていくのが自然です。いま現在、当初の卒制計画から変化したことは何でしょうか?
Q.2 なにかが現れるさいにはなにかが潜在化し、なにかが択ばれるさいにはなにかが淘汰されるものです。いま現在、あなたの作品が表現していないこととは何でしょうか?
Q.1は前ポストで触れたように、作品制作というプロセスで、制作と〈ともに〉自己変容も起きていく制作的事実に根ざしたもの。
Q.2は学生たち自身による自作品への自己検証のヒントだけれど、いずれも〈制作〉という運動体に伴走し、その運動そのものを重視していく視座である。これが欠ければ、その運動の断面でしかない作品の「完成度」だの「善し悪し」だのといった評定しかできなくなる。〈制作〉をしらないとそうなりやすい
1. イメージ、計画、完成予想の無効化、更新
何度も起きてきたmk.icon
自己変容
2. 出現からの潜在化、選択からの淘汰
いま現在、あなたの作品が表現していないこと
描いたものは何の比喩でもないmk.icon
今の作風を順に見ていくと、必ずしも描かれていない共通項(気質につながるもの)が見えてくる 前述の、完成予想の無効化、更新をともなっても、残っているものがある
過程の自己検証も必要なので考慮する
たまにアートにたいして「伝わってこない」とか伝達技術として語ったり評したりする人がいるけれど、そもそもアーツ(技術)というのは事物連鎖や非意識的なものとの接触領域でうまれるもので、その伝え方いぜんに触れ方なのである。これがイメージ構築や世界認識に形成されて、その一部が伝えられる。
だから「伝わってこない」のはたいてい受けとる側の触れ方(技術)がないためで、それに目覚める契機でもある。とはいえ、それをアート側の問題として語ってしまう所以が、「文化的なものは社会的(対人的)であって、そのコミュニケーションツールなのだ」という管見のせいだと気づく必要がある。
表現物をたんに象徴交換とかその再生産といった回路でしか理解できない人々は「それは優れている/いまいちだ」としか感じられず、「その触れ方は素適だ/未体験かもしれない」と身重ねしていくことがむずかしい。