4-0-権利、オペレーティングシステム、⿻の自由
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日々、ルナはハイテク業界の迷宮をさまよう。
大企業からスタートアップまで、その道は果てしない。
面接は単調なダンスと化し、専門用語ばかりが飛び交い、真の価値は置き去りだ。
彼女が求めるのは意義ある仕事。なのに、チャンスは夢とはかけ離れた方向へ。
打ちのめされたある夜、ソファーに沈みこむ。
ホログラム広告の雑踏に、感覚は麻痺していく。
「民主主義という大河を育め」ナレーションが語りだす。
マニフェストの渦に、彼女の視線は吸い込まれる。
疲れも消え、思考が回り始める。
画面を握りしめ、言葉が心に灯る。
「デジタルコミュニケーションの形を築く者たちへ、
プライバシーを守り、言論の自由、そして平等を。」
彼女は想像する。熱い、でも公正な議論が飛び交うハッカソンを。
物議を醸すけれど、影響力のあるソフトを生む場を。
「最高の関係をデジタルに映し出すイノベーターたちへ、
クリックや交流が分かち合う喜びを生むように。」
彼女が助けた子供たちから心からの感謝を受け取る夢。
お礼と言ってソーダを手渡され、人と人とがつながる。
「デジタル資産の先駆者たち、乾杯しよう。
選択の幅を広げ、経済平等という海岸を目指す彼らに。」
スマホの力を駆使する姿を思い浮かべる。
魔法の薬を買い、夜の冒険へ飛び出す。
「デジタル民主主義を生む創作者たち、万歳。
ガバナンスは旅であり、透明性こそ道しるべ。」
自分の家の古いブドウ畑を近代化する絵が浮かぶ。
国連の技術を取り入れ、進歩を織り込む。
「バーチャルの海を行く倫理の羅針盤へ。
デジタル世界が最も崇高な理念を反映するために。」
ルナは気づく。自分の使命は単なるプラットフォーム作りじゃないと。
社会の柱を築き、人々の規範を育てることだと。
「皆で力を合わせれば、ソフトをコーディングするだけじゃない。
思いやりと幸福の未来を形作るんだ。」
デジタルで関わるたび、高め合えるチャンスがある。
人類をつなぎ、分断を癒す力を秘めて。
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インターネットの創始者であるJ・C・R・リックライダー(Lick)は、これまでインターネットプロトコルに現れている範囲よりもはるかに広い基本プロトコルが、ネットワーク社会の基盤となることを予見していました。しかし、彼の分析は哲学的なものではなく、単なる項目リストのようなものに留まっていました。 この章では、⿻社会の基礎に関する明確なビジョンを述べるために、私たちは「⿻」の定義に関する概念を利用し、これらのプロトコルがどのようなもので構成され、社会的にどのような役割を果たすべきかを概説します。そして、本書の残りの部分では、これらについて、今日の実装の限界、そしてそれらがどのようにしてより完全に達成されるかを体系的に考察していきます。 私たちは、⿻社会が「⿻」の原則に形態と構造の両方で合致したインフラの上に構築されなければならないと主張します。形式的には、権利体系という密接に関連した政治思想と、オペレーティングシステムという技術概念をシームレスに組み合わせる必要があります。実質的には、多様で重なり合う社会集団や、野心的で包括的なコラボレーションを共同で行う人々といった、「⿻」が理解するような形で社会をデジタルに表現することを可能にしなければなりません。
権利は民主主義の基盤
権利は民主主義生活の基盤となる普遍的な特徴です。最も単純に考えると、民主主義 (語源的には「人民の支配」)とは、政府が人民に対して行う一連の行動ではなく、人民による集団的意思決定のシステムを指します。しかし、古代アテネに起源を持ち、啓蒙思想によって形作られ、革命を経て鍛えられた民主主義は、基本的な自由と権利の集合もまた内包するようになりました。これらの「権利」は、時空間を超えて様々な民主主義社会によって異なってきました。しかし大枠でのパターンは識別できるだけでなく、平等、生命、自由、個人の安全、言論、思想、良心、所有、結社など、国連の世界人権宣言(UDHR)といった文書の基礎を形成しています。これらの原則の周辺には重要な議論があるものの、大まかな輪郭においては、著名な人類学者であるニコラス・クリスタキスが強調したような、ほぼ普遍的な人類の行動特性の中核を定義し擁護しています。これには、クリスタキスが「社会的組曲(social suite)」と呼ぶもの、すなわち、個人のアイデンティティの感覚を持ち、家族関係や長期的な友情を形成し、それらがより広範な協力的社会ネットワークやグループの基盤となり、メンバーがそれらに対して「偏向」し、これらのネットワーク内で関係性や能力に基づいて差別化された信頼を持ち、お互いに学び合うという、ほぼ普遍的な人間の傾向が含まれます。 しかし、その正確な構成や普遍性とは関係なく、私たちが最も関心を持っているのは、なぜそれが政府のシステムとしての民主主義に不可欠なのか、そしてなぜこれほど多くの人々や組織が、これらの権利を守らずに民主主義は存在し得ないと信じているのか、ということです。近著『民主主義による正義』の中で、代表的な政治哲学者ダニエル・アレンは、このつながりについて明確に説明しています。政府は、その意思が安全かつ自由に表明されない限り、「人民の意思」に応えることはできません。 個人の良心に従って投票することが危険であれば、その結果が強制者の意思以外の何かを反映していると信じる理由はありません。市民が強制を受けずに社会や政治のための結社を形成できない場合、権力者の決定に異議を唱えるために連携することはできません。 多様な経済的交流を通じて生計を立てることができない場合(例えば、国家や私人に奴隷にされているため)、表明される政治思想は、彼らの内なる声ではなく、主人に従うことが予想されるのです。権利がなければ、選挙は茶番に成り下がります。 各国政府やその下部組織、特に司法制度は、権利が尊重され、その範囲が公平に裁かれることを確実にする上で、重要な役割を果たすことがよくあります。しかし、国家の法制度の範疇だけで権利を考えることは誤解の元です。権利とは、さまざまな文化的背景(国家レベル、国家以下、国家間など)に深く根付いた、強い信念と価値観を表しています。権利は、人間の行動の可能性を広げるだけでなく、正当性をもたらします。例えば、民間の職場やインターネット上のプラットフォームでは、一般的に発言が制限されることがあります。しかし、言論の自由という権利への期待は、従業員や顧客が受け入れることのできる言論制限の種類に厳格な枠組みを設けます。同様に、国連の世界人権宣言(UDHR)のような文書は、一般的に法的拘束力はありません。しかし、南アフリカの最高控訴裁判所による判決をはじめとした、多くの国の法律に影響を与えています。さまざまな規模の機関(裁判所、企業、市民社会グループ等)がこうした共有された文化的期待を尊重させる上で非常に重要であり、単独の機関が権利の「執行者」や「源泉」ではないのです。さらに、多くの宗教は、権利の源泉は神聖なものであり、地上のものより上位にあると唱えています。そのような意味で、国家が重要な権利の擁護者の一つだとしても、権利は国家を超えて、国家の上に存在すると考えられるのです。 また、権利はしばしば、固定された達成可能な現実というよりも、願望や目標です。米国の歴史は、長い間否定されていた平等への建国の理念を実現するためのドラマでもあります。多くの積極的権利(例えば、質の高い教育、適切な住宅など)は、特に発展途上国では、政府の能力や権限を超えたものであり、すぐに実現することはできません。しかしそれでもなお、国民の最も深い願望の証なのです。
アプリケーションの基盤としてのオペレーティングシステム
OSは、その上で動作するアプリケーションの可能性の範囲をおおまかに定義します。パフォーマンス、外観、速度、マシンのメモリ使用量などの基本的な特性があり、特定のOS上で動作するアプリケーションはそれらを共有し、そのプラットフォームで動作するために尊重しなければなりません。例えば、iOSとAndroidはタッチ操作を可能にしていますが、以前のスマートフォン(BlackberryやPalmなど)はスタイラスやキーボードによる入力に依存していました。今日でも、iOSとAndroidのアプリは、見た目、操作感、性能が異なっています。アプリケーションは、これらのプラットフォームのいずれか(場合によっては複数)に合わせてコーディングされ、OSに組み込まれた処理を利用して、自分のアプリケーションができることとできないこと、オーダーメイドしなければならないことと根本的な処理に依存できることを決定します。 https://scrapbox.io/files/660486e3c6050600265ca5c9.png
初めて商用化されたグラフィカルユーザーインターフェース(GUI)搭載のパーソナルコンピュータの一つ。
出典:bGerhard "GeWalt" Walter氏、Wikipedia: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Apple-LISA-Macintosh-XL.jpg。CC0ライセンス
OSは、 アプリケーションによる予期せぬ動作に常に適応する必要があります。新たなアプリケーションを強化したり、ウイルスへの対抗といった目的において、望ましいものと望ましくないものの両方に対応しなければなりません。これらの適応は、軽微で表層的なものかもしれません。例えば、スマートフォンではセキュリティの脅威に対抗するためのOSアップデートを頻繁に受け取ります。あるいは、長い時間の経過の中で、ユーザーが文字の組み合わせで「顔文字」をタイプすることから、OSのタイピング機能にネイティブに統合されるといった変化をしてきたスマートフォンもあります。さらなる抜本的な変化もあり、例えばGoogleは車やテレビに対応したAndroidバージョンを導入しました。 OSはまた、さまざまな方法で自身の完全性を維持します。セキュリティパッチは最も緊急かつ的を絞った手法ですが、それだけではなく、開発者への教育、幅広い開発者サポートのエコシステムの構築、顧客の利用方法や期待値の緩やかな成熟などとも共存しています。OS上に構築されたアプリケーションは、OSの内部開発をサポートするだけでなく、元のOSを強化したり、場合によってはライバルとなり得るようなアップデートや新しいOSの開発も促進します。また、異なるOSは互いに異なり、競争しながらも、多くの共通の機能を持っています。各OSは少なくとも部分的に、クロス開発の互換性、さらに旧バージョン向けに設計されたアプリケーションが引き続き動作させる下位互換性、そして将来の世代に向けたアプリケーションの「将来性」を担保することを試みます。これにより、ユーザーは幅広いアプリケーションにアクセスできるのです。 OSは、ほぼ常に開発中の状態にあります。OSは、不完全であってもサポートを目的にした機能の提供を目標としています。こうした繰り返される試みから、OSは再帰的に学習し、より良いサポートを提供することができるようになります。例えば、初期にリリースされた音声「スマートアシスタント」(AppleのSiriやAmazonのAlexaなど)は、品質が低く滑稽なものでした。しかし、システムを通じてユーザーが参加することで、時間の経過とともに品質が向上し、より高度な音声機能がこれらのオペレーティングシステムで実現できるようになりました。 ⿻基盤
権利体系とOSには多くの共通点があります。どちらも、民主主義社会およびその上で動作するアプリケーションの基盤となり、それぞれの処理において前提となる背景条件があり、システムの整合性確保のために特別な防衛や保護を必要とします。そして、どちらも部分的には願望的で不完全であり、時に内面的な緊張を抱えていることがあります。また、強力な執行メカニズムに支えられていることも多いですが、明確な制度やコードと同様に、広範な文化の一部でもあるのです。
しかし、こうした一般的な類似点に加えて、権利とOSの両方に存在する2つの側面が「デジタル」の観点から特に重要であり、際立っています。これらの側面を見出し、リバタリアン(自由至上主義)やテクノクラート(技術者主導主義)のアプローチと対比させて考えてみましょう。 ダイナミズム
OSが自明的にダイナミックであるように、熟慮してみると、権利体系もまたそうであることがわかります。このダイナミズムが「デジタル」の中核です。権利は民主主義を支え、OSはその上で動作するアプリケーションを支えます。しかし、権利の立案者やOSの設計者は、異なる、時には対立するアクター達が(しばしばテクノロジー的手段によって)実験やイノベーションの余地を利用して、これらの基盤をどのように使い、あるいは時に悪用し、再構築していくか、予期することはできません(あるいは「ぼんやりとしか見えない」のです)。 このように、かつては市民が自由に政治的な立場を形成し、その支持を得ることができることを保証する権利の第一の表現と考えられていた言論の自由に対する私たちの理解は、情報技術の結果として課題に直面しています。この前提は、情報が不足している環境であり、したがって情報の抑制が声を届かないようにする最も効果的な方法の一つであった時代に成り立っていました。現在の環境は異なります。情報は豊富であり、注目を集めることが難しくなっています。そのため、民主主義の基盤を攻撃しようとする敵対者たちにとって、不都合な見解を抑制・検閲しようとするのではなく(ゲイリー・キング、ジェニファー・パン、そしてモリー・ロバーツの研究によって劇的に文書化されています)、情報のコモンズに単に混乱やスパムを氾濫させる方がしばしば容易なのです。こうした攻撃のもとでは、文字通りの検閲を防ぐことだけではなく、多様で適切な、そして本物のコンテンツが注目されるようにすることが課題となります。私たちは、言論の自由に関する保護もそれに応じて進化する必要があるのではないかと考えています。この実現に向けた道筋については、以下で議論します。 しかし、ダイナミズム(力学)はそれ自体が目的なのではなく、また「デジタル」のビジョンにおいて、何らかの究極目標の追求のために全体の構造を包含するためのものでもありません。ダイナミズムはむしろ、複雑さが育ち、繁栄する「カオスの縁(エッジ)」にまで自己組織化を行い、将来的に適応し続ける能力を更新・向上させながら、その未来を見出す適応型のシステムから生まれる特性です。OSと権利は、企業の狭い利益や国家利益といった外的意思に屈することなく、その上で展開するアプリケーションや民主主義をサポートするために進化することができますし、進化していくべきなのです。 権利と関係性
「 ⿻」における権利の理解は、個人だけでなく、システムやグループも対象とします。結社や信仰の自由は、それらに参加する個人と同様に、結社や信仰団体そのものを保護します。米国憲法のような連邦制は、個人の権利だけでなく、州や地方の自治体の権利も定めています。商業上の自由も、個人の選択や二者間の取引という観点で捉えられることが多いですが、通常は少なくともそれと同じぐらい力強く法人としての権利や契約の仕組み、団体交渉権も保護されます。同様に、OSはアプリケーションとユーザーを個別に保護するだけでなく、両者間の相互関係も保護します。したがって、権利体系やOSが個々のユーザーの保護やサービス提供のためにあると考えても、本質的に個人主義的であるわけではありません。同様に、コミュニケーションの手段である「発言」には、必然的に複数者が関与します。OS内でも「公共の場」でも、コミュニケーションネットワークが存続できるかどうかは、多くのアプリケーション、ユーザー、そしてグループが自発的に参加し、同意することに依存しています。 さらに、これらの自由を保護し、擁護する主体は、単に国家やそれに付随する制度であるとは限りません。商法はその典型的な例です。アン=マリー・スローターやカタリーナ・ピストールといった学者たちが強調しているように、法的ルールの国際的なネットワークや貿易協定、そして判例への相互尊重は(良し悪しは別として)、知的財産、独占禁止法、金融機関の自己資本比率といった重要なトピックにとって中心的な役割を果たします。 これらはいずれも、専門家、国際機関、さらにはロビー活動団体による異なるネットワークの管理下にあります。つまり、権利は相互作用する多様なグループが保有するだけでなく、文化、制度、そして主体の同じような交差的なネットワークによって定義されるのです。権利とは、人と社会の輪が交叉する中から生まれ、それらの社会的な相互作用のネットワークを擁護・保護することによって生まれるものなのです。 リバタリアニズム(自由至上主義)とテクノクラシー(技術者主導主義)との対比
民主的な探求とアプリケーション環境の進化をそれぞれサポートする、動的でネットワーク化された適応的基盤としての「⿻」の権利とOSは、リバタリアニズムとテクノクラシーのイデオロギーに体現された一元的な政治的・技術的視点とはっきっぱりと対照的です。リバタリアニズムは、個人の私有財産を第一に強調し、これらの財産関係に変更を迫るいかなる「暴力」をも防ぐことを目的とした、厳格で「不変」の歴史的権利という枠組みに基づいています。この見解のもとでは、権利は、他の権利やそこから生まれた社会的・文化的文脈から抽象化または切り離され、原子化された個人にのみ属するものとされ、技術システムはこれらの権利をあらゆる変化や社会からの干渉から完全に遮断するよう設計されるべき、とされます。一方、テクノクラシーは、「客観的」な「効用性」または「社会的福祉」という関数概念に根ざしており、技術システムはそれに「沿う」よう設計され、それを最大化するものであるとされます。リバタリアンが権利を絶対的、明確確、静的、普遍的なものと見なすのに対し、テクノクラートはそれを定義可能な社会的利益の追求における障害物、あるいは重荷であるとみなします。 ⿻の自由
デジタルなシミュレーションで構成される世界(時に「メタバース」と呼ばれる)にどっぷり浸かった未来に対してどれほど懐疑的であっても、今日多くの人々が人生の大部分をオンラインで過ごしていることを否定する人は少ないでしょう。私たちの人生におけるこの成長しつつある領域において、私たちの行動・発言・取引は、私たちを結び付けるテクノロジー、つまり私たちの社会構造を形作るテクノロジーが提供する可能性によって制約されます。このようにして、私たちをつなぐプロトコルはデジタル時代における私たちの権利を定義し、社会がその上で動作するOSを形成するのです。「3-2-連結社会」の章で説明した「⿻」の伝統は、知的・哲学的に見ると、リベラルな民主主義の基盤になっている単純化された所有権、アイデンティティ、民主主義の枠組みを超え、社会生活の豊かさに即したものへと移行する必要性に焦点を当てています。技術的には、コンピュータ間のコミュニケーションのためのガバナンスの枠組みを提供してきた初期のネットワークプロトコルは、まさにこれを達成しようとして、権利とOSという並行しつつも明確に異なる概念を融合させました。この場合、対人ネットワークのOSは、「デジタル」における権利という概念をサポートするために必要な基本的な機能を参加者に提供することを目的としていました。 https://scrapbox.io/files/66048ddb0755d3002690eab4.png
図4-0-B:人、グループ、関係性、デジタル資産を可視化したハイパーグラフ
技術システムは形式的な数学的関係性に基づいて具体化されているため、この要件を確認する簡単な方法は、「ハイパーグラフ」といった「デジタル」での社会記述に直接対応する典型的な数学的モデルを使用することです(図をご参照ください)。ハイパーグラフは、二者間の関係だけでなく、グループも扱えるようにすることで、より一般的なネットワークやグラフの概念を拡張したもので、「ノード」(例:人、ドットで表現)と「エッジ」(例:グループ、楕円で表現)の集合で構成されます。各エッジ/グループの濃淡は、関係性の強弱(数学的にはその「重み」と「方向」)を表しており、エッジに含まれるデジタル資産(例:データ、計算、デジタル記憶装置)は、これらのグループによる共同作業の基盤となります。もちろん、このようなデジタルモデルは、社会そのものを文字通り表すものではなく、その抽象化です。実際の人間がアクセスするには、一連のデジタルツールが必要であり、それらは図中に入ってくる矢印で表現されています。これらの要素は、「権利」(OSの特性)のメニューを構成しており、続く5つの章では、それぞれの項目について詳しく説明します:4-1-アイデンティティと人格、4-2-協会と⿻ 公衆、4-3-商業と信頼、4-4-財産権と契約、4-5-アクセス。 これらの考えを反映した共有デジタルプロトコルの構築プロジェクトは、初期段階にあります。「3-3-失われた道」の章で強調した通り、これは多くの著名な市民団体にも受け入れられるようになっています。裕福な国でさえ、オンライン体験の基本的な要素として、ネットワーキングに備わっている当然で基本的な機能のほとんどを、一般の人々は利用できません。オンライン上で生命や人格に対する権利を保護する、広く普及した非独占的な識別プロトコルはありません。同様に、自由な結社を可能にするようなコミュニケーションやオンライン・グループの形成方法については、広く普及した非独占的なプロトコルはありません。現実世界の資産に基づいた商業・取引を支える支払いのための広く普及した非独占的プロトコルもなく、デジタル世界における所有権と契約の権利を実現するような、計算、メモリ、データといったデジタル資産を安全に共有するためのプロトコルもありません。これらのサービスのほとんどは、国家政府か私企業によって支配され、独占的な状態になっている場合が多いです。そして、これらの課題への対処方法の背景にあるネットワークに対する基本的な考え方でさえ、交差するコミュニティの重要な役割を無視しているなど、あまりにも限定的です。デジタル世界に権利が意味を持つためには、この状況は変わらなければなりません。 幸いなことに、そのような動きが始まっています。過去10年間で、インターネットの「欠落したレイヤー」を断続的に引き継ぐ様々な発展がありました。この取り組みには、「Web3」と「分散型ウェブ」のエコシステム、ヨーロッパのデータ共有フレームワークである「Gaia-X」、様々なデジタルネイティブ通貨と決済システムの開発、そして最も顕著なのが、この10年間でインドで開発された「インディア・スタック(india stack)」に代表される「デジタル公共基盤」への投資の増加です。 これらの取り組みは、資金不足、国やイデオロギー間の分断があり、多くのケースで野心に欠け、テクノクラシーやリバタリアニズムのイデオロギーに惑わされたり、ネットワークに対する単純すぎる理解が障害となって来ました。しかし、これらは共に、「デジタル」のより体系的な追求が可能であるというコンセプト実証になっています。本書のこのパートでは、こうしたプロジェクトを発展させ、その未来に投資し、「デジタル」な未来への歩みを加速させる方法をお見せします。