3-3-失われた道
2024/3/27
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英本文確定後の訳
コンピューター技術の開発と利用に関する決定は、「公益」のためだけでなく、人々が自身の未来を形作る意思決定プロセスに参加するための手段を与えるという観点からも行われなければならない。
⿻は社会を深く理解することで、量子力学や生態学などの分野が自然科学、物理的なテクノロジー、そして自然との関係にもたらしたほどの劇的な社会的変革の基盤を築くことができるだろうか? リベラルな民主主義国家は、自分たちを多元的社会だと自負することが多い。これは、社会科学から得られる教訓を既に活かしていることを示しているように思われる。 しかし、このような多元主義と民主主義への形式的なコミットメントにもかかわらず、ほぼすべての国が、利用可能な情報システムの限界によって、こうした価値観と真っ向から対立する単一原理的な原子論に基づき、社会制度を均質化・単純化せざるを得なかった。社会科学とその上に構築される政治学に託された大きな望みは、情報技術の潜在能力を活用して、これらの制約を克服し始めることである。 ⿻ のローンチ
スプートニクと高等研究計画局
ソビエト連邦による最初の人工衛星打ち上げから1ヶ月後、ガイザー委員会の報告書が出され、アメリカはミサイル生産においてソ連に遅れをとっていることが主張された。それに続く道徳的パニックは、アイゼンハワー政権にアメリカの戦略的優越性を国民に再保証する緊急行動を迫った。しかし、アイゼンハワーは自身の軍事的背景にもかかわらず、アメリカの「軍産複合体」と呼んだものに深い不信感を抱き、一方で科学者に対しては限りない賞賛を抱いていた。6 そのため彼は、冷戦の熱狂は科学研究と教育を向上させる国家戦略へと向けよう考えた。7 その戦略には多くの柱があったが、その中心となったのは、国防総省内に設置された、準独立の科学者が運営する高等研究計画局(ARPA)の設立であった。この機関は、大学の専門知識を活用し、防衛への応用可能性のある野心的で潜在的に変革的な科学プロジェクトを加速させることを目的としていた。 ARPAは様々な目的を持って発足しましたが、そのうちのいくつかはすぐに他の新設機関、例えばアメリカ航空宇宙局(NASA)に移管されました。しかし、ARPAはすぐに、その2代目長官ジャック・ルイナの下で、野心的で「常識外れの」プロジェクトを政府として最も積極的に支援する立場を見出しました。特にこのリスクテイキングなスタイルを表すような領域の一つが、ジョセフ・カール・ロブネット(JCR)・リックライダーが率いる情報処理技術局でした。 BBNの経営陣を説得し、コンピューティングデバイスに注目させることに成功したリックは、当時勃興していた人工知能分野とは異なる技術的ビジョンを構築し始めました。それは、彼の心理学的な背景を生かして「人間とコンピュータの共生」を提案するもので、 1960年に発表された画期的な論文のタイトルにもなりました。リックは、「そのうち『機械』は、現在私たちが人間の専売特許と考えている機能の大部分において、人間の脳を凌駕するようになるでしょう。...(しかし)人間とコンピュータが協働して大きな進歩を遂げる、かなり長い移行期間があるでしょう...その時代は、人類の歴史の中で最も知的創造的で刺激的な時代になるはずです」 8 という仮説を立てました。 こうしたビジョンは、ARPAにとってまさに最適なタイミングで到来しました。当時ARPAは、急速に集結しつつあった国家科学行政の枠内に、自らの存在価値を確立させるような大胆なミッションを探していました。そこでルイナは、新設された情報処理技術局(IPTO)の局長にリックを抜擢しました。リックはこの機会を活用し、後にコンピュータサイエンスの分野となる多くの構造を構築し、形成していきました。
リックは、現代のコンピューティングの計算的・科学的な基盤を確立するだけでなく、彼が専門としていた「ヒューマンファクター(人間工学)」に特に注目していました。彼は、ネットワークが人類の社会的側面と個人的側面に寄り添う形で、2つの方法で研究目標を具体化するすることを目指んでいました。一方で、彼は、コンピューティングをより多くの人々の生活に近づづけ、人間の思考の働きと統合させることができると信じるプロジェクトに特別の注意と支援を与えました。その代表的な例が、ダグラス・エンゲルバートによってスタンフォード大学に設立された拡張知能研究センターです。9 一方、彼はこれらの拠点間ののコラボレーションのネットワークを、いつものどおり皮肉を込めて「銀河間コンピュータネットワーク」と呼び、コンピュータを介したコラボと協調的なガバナンスのモデルとなることを望んでいました。10 ネットワーク・オブ・ネットワークス
テイラーとリックは当然のように同僚でした。テイラーは博士号を取得しませんでしたが、彼の研究分野も心理音響学であり、IPTOでリックが主導していた時期、ARPAから分離したばかりのNASAでリックのカウンターパートを務めていました。リックが辞職した直後(1965年)、テイラーはIPTOに移り、イヴァン・サザランドの指導の下リックのネットワーク構築支援に携わりました。サザランドはその後学界に戻り、テイラーはIPTOと、彼がより控えめに名付けたARPANETと名付けたネットワークの責任者を務めることになりました。彼はリックのかつての本拠であったBBNに、最初の実るARPANETのバックボーンのプロトタイプ構築を委託しました。エンゲルバートのパーソナルコンピューティングのデモとARPANETの最初の成功した試験によって勢いが増し、リックとテイラーは 1968年の論文「The Computer as a Communication Device」で、パーソナルコンピューティングとソーシャルコンピューティングの将来の可能性について自分たちのビジョンを明確に述べました。それは数十年後に、パーソナルコンピュー、インターネット、さらにはスマートフォンの普及につながるものの多くを予言しています。13 1969年までににテイラーは ARPANETのミッションが成功軌道に乗ったと感じ、ゼロックスPARCに移りました。そこで彼はコンピュー算機科学研究所を率いて、このビジョンの多くを実際にするプロトタイプに発展させました。これが後に、スティーブ・ジョブズがマッキントッシュ開発のためゼ口ックスから有名な「盗作」として知られる近代的パーソナルコンピュー夕の中核となっていき、ARPANETは現在のインターネットへと発展しました。14 要するに、1980年代と 1990年代の技術革命は、1960年代のこの非常に小さなさなイノベーター集団が起原であることは明らかです。間もなく、これらのより広く知られた後の発展について述べますが、それらを可能にした研究プログラムの核となる部分についてもう少し掘り下げてみることに価値があるでしょう。
中央集中型交換局を置き換えるパケット交換
線形テキストを置き換えるハイパーテキスト
政府と企業のトップダウン意思決定の両方を置き換えるオープンな標準設定プロセス
この3つのアイデアはすべて、リックが形成し、ARPANETコミュニティの中核機能へと成長させた初期コミュニティの端々にその萌芽がありました。
ネットワーク、冗長性、共有化という概念はリックの当初のビジョンに浸透していますが、1964年のポール・バランの報告書「分散コミュニケーションについて」は、通信ネットワークがなぜ中央集権的な構造ではなく分散的な構造を目指す必要があるのかを明確に説明したものでした。15 バランは、中央集権型の交換機は通常の状況下では低コストで高い信頼性を実現できる一方で、障害に脆弱であると主張しました。逆に、多数のセンターを持つネットワークは、安価で信頼性の低い部品で構築しても、「障害を回避する」ルーティングを行うことで、壊滅的な攻撃にも耐えられるとしました。これは、あらかじめ指定された計画ではなく、可用性に基づいてネットワークを通るダイナミックな経を取るものです。バランは、ベル研究所の科学者から支持と励を得たものの、彼のアイデアは、高品質な中央集権型の専用機械が深く根付いていた米国の電話独占企業AT&Tに完全に拒否されました。 こうした民間企業の利害関係に対する明白らかな脅威にもかかわらず、パケット交換は、その誕生のきっかけが壊滅的な攻撃の脅威であったという別の組織、ARPAの注目を集めることになりました。1967年の会議で、ARPANET初のプログラムマネージャーであるローレンス・ロバーツは、ドナルド・デイビスのプレゼンテーションを通じてパケット交換のことを知りました。デイビスは、バランと同時期に独立に同じアイデアを開発しており、ロバーツは直ぐ後で知ることになったバランの主張を基に、このコンセプトをチームに提案し売り込むことに成功しました。図Aは、その結果誕生した初期のARPANETの分散型論理構造を示しています。
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Figure 3-3-A. Early logical structure of ARPANET. Source: Wikipedia, public domain.
ネットワーク化された思考へ至る一つの道筋が技術的な回復力によって動機づけられたとしたら、もう一つは創造的表現を動機としていました。社会学者として訓練を受けたテッド・ネルソンは、1959年にキャンパスに招いたサイバネティクスの先駆者マーガレット・ミードの、民主的で多元的なメディアというビジョンに触発され、アーティストへと成長していきました。これらの初期の経験の後、20代前半から「ザナドゥ・プロジェクト」の開発に生涯を捧げました。これは、コンピュータ ネットワークのための革新的かつ人間中心のインターフェースを作成することを目的としたプロジェクトです。ザナドゥにはネルソンが不可欠と考えた非常に多くの要素があったため、2010年代まで完全な形ではリリースされませんでしたが、エンゲルバートと共同開発されたその中核となるアイデアは、ネルソンが名付けた「ハイパーテキスト」でした。 ネルソンは、ハイパーテキストを、原作者によって課せられた線形解釈の専制からコミュニケーションを解放する手段として想像しました。そして、多様ななシークエンスで素材をつなぐ(双方向性の)リンクのネットワークを通して、素材を辿る経路の「多元性(pluralism)」(ネルソンの呼び名)を強化することを目指いました。16 この「自分で物語を作っていく」17 仕組みは、今日のインターネットユーザーにとって、Webブラウジング体験で最も馴染み深いものですが、1980年代の商用製品(ハイパーカードをベースにしたコンピュータゲームなど)にさらに早く登場しています。ネルソンは、このような容易なナビゲーションと再結合によって、かつてないほどのスピードと規模で新しい文化や物語が形成されると想像していました。1990年代初頭にティム・バーナーズ・リーが自身の「World Wide Web」ナビゲーションアプローチの中心にハイパーテキストを据えたことで、インターネットの幅広い普及の時代が幕を開け、このアプローチの威力が広い世界に明らかとなりました。 エンゲルバートとネルソンは生涯にわたる友人であり、多くの同様のビジョンを共有していましたが、それらを実現するために非常に異なる道を選択しました。そしてその両方の選択が(後述するように)重要な真実の種を持っていました。エンゲルバートは先見の明がある一方で、熟練した実務家でもあり、円滑な政治的手腕も備えていました。その結果、パーソナルコンピューティングの先駆者として広く認識されることになります。ネルソンは、何十年にわたってザナドゥの理想だけをひたすらに追い求める純粋な芸術士でした。彼の掲げた17の原則のすべてを完璧に体現しようとしたことで、ネルソンのキャリアは埋没していきました。
逆にエンゲルバートは、リックのネットワークの活動的な参加者として、自身のアプローチをサポート、採用、あるいは少なくとも相互運用するよう他のネットワークノードを説得する必要性を感じ、野心を抑えました。異なるユーザインターフェースやネットワークプロトコルが広く普及するにつれ、完全なるシステムの追求からは退いたのです。それよりむしろエンゲルバート、さらにプロジェクトに関わる彼の協力者達は、彼らが構築しているコミュニケーションネットワークを利用し、所属する大学がしばしば競合しながらも、助けに仲間意識に似たものを発展させ始めました。物理的な分離によってネットワークの厳格な調整が不可能となりましたが、最小限の相互運用を確保し、明確なベストプラクティスを共有する取り組みが、ARPANETコミュニティの主要な特質となったのです。 この協業の文化は、「Request for Comments(RFC)」プロセスの発展として現れました。これはおそらく、地理的・部門的(政府・企業・大学)に分散した多くの協力者による、非公式で主に追加的なコラボレーションの「Wiki」に似た最初期プロセスのひとつでした。後に、これは共通のネットワーク制御プロトコル(NCP)や、最終的に伝送制御プロトコル/インターネットプロトコル(TCP/IP)の策定に寄与しました。これらの発展を率いることになったのは、ビント・サーフ とボブ・カーンです。RFC 675としてTCPが最初に回覧された1974年から1983年にそれらがARPANETの公式プロトコルになるまでの間、彼らはミッションに突き動かされた、包括的で応答性のあるリーダーシップを発揮しました。このアプローチの中核にあったのは「ネットワークのネットワーク」というビジョンであり、それが「インターネット」にその名前を与えました。つまり、多くの多様でローカルなネットワーク(大学、企業、政府機関)が十分に相互に運用することで、長距離にわたってほぼシームレスなコミュニケーションが可能になるというものです。これは、フランスのコンカレントな Minitel のように、政府によってトップダウンで標準化された中央集権的なネットワークとは対照的でした。18 技術的なコミュニケーションプロトコル、コミュニケーションの内容、そして標準のガバナンスという、ネットワーク化におけるこれら3つの側面は、私たちが知る今日のインターネットを生み出すために統合されていったのです。 勝利と悲劇
このプロジェクトから産み出されたことはあまねく知られているので、ここではほとんど繰り返すまでもないでしょう。1970年代の間、テイラーの率いるゼロックスPARCは、1990年代にパーソナルコンピュータとなったものの多くを取り入れた一連の高価で、それゆえ商業的には成功しなかった画期的な「パーソナルワークステーション」を生み出しました。それと同時期にコンピュータ・コンポーネントがより広い人々に利用可能になったことで、AppleやMicrosoftのような企業が、より安価でユーザーフレンドリーではない機器を一般的に提供し始めました。ゼ口ックスは自社の発明の商品化に苦心しましたが、Appleの共同創業者スティーブ・ジョブズに同社のテクノロジーへのアクセスを株と引き換えに許した結果、Macintoshが近代的パーソナルコンピューティングへの道を開き、その後マイロソフトがウィンドウズ・オペレイティング・システムを通じてそれを大規模に発展させることになりました。2000年までに、アメリカ人の大半は自宅にパーソナルコンピュータを持つようになりました。インターネット利用は着実に広がり、図Bに示されています。
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図3-3-B 世界と各地域のインターネット利用率の推移
情報源: Our World in Data19
インターネットと不満
当初から並行して発展してきたように、インターネットはそれらのパーソナルコンピュータを接続するまでになりました。1960年代後半から1970年代前半にかけて、大学、アメリカ以外の政府、国際標準化団体、BBNやゼロックスのような企業などで、最大規模のARPANETと並行して様々なネットワークが成長しました。カーンとサーフのリーダーシップ、そしてARPA(現在は「防衛」に重点が置かれていることを強調するためDARPAに改称)の支援のもと、これらのネットワークは、相互運用するためにTCP/IPプロトコルを活用し始めました。このネットワークが拡大するにつれ、DARPAは自らの先端技術ミッションの限界を考慮し、それを維持するための別の機関を探していました。多くの米政府機関が手を挙げた中、国立科学財団(NSF)が最も幅広い科学的参加者を有しており、そのNSFNETは急速に成長して最大のネットワークとなり、最終的に1990年にARPANETは廃止されることになりました。同時に、NSFNETは他の先進国にあるネットワークとの相互接続を開始しました。
そのひとつに英国があり、研究者のティム・バーナーズ・リーは1989年、パケット交換に完全に統合された「ウェブブラウザ」「ウェブサーバー」、そしてハイパーテキストマークアップ言語(HTML)を提案し、インターネット上のコンテンツをはるかに多くのエンドユーザーが利用できるようになりました。1991年にバーナーズ・リーがワールドワイドウェブ(WWW)を立ち上げてから、インターネット利用者は約400万人(主に北米)から、ミレニアム終わりまでには4億人以上(主に世界中で)へと飛躍的に拡大しました。シリコンバレーでインターネット新興企業がブームとなり、多くの人が家庭に持つコンピュータを介して日常生活の多くがオンライン化されたことで、「コミュニケーションデバイスとしてのコンピュータ」に描かれたネットワーク化されたパーソナルコンピューティングの時代が到来したのです。20
ミレニアムの好景気と不況の陶酔感の中で、テック界はこの業界を覆う亡霊、長い間忘れ去られていたテッド・ネルソンに注目する人はほとんどいませんでした。何十年も理想のネットワーキングおよびコミュニケーションシステムを追い求めてきたネルソンは、出現しつつあるWWWデザインの不安定さ、搾取的な構造、非人道的な特徴について絶えず警告していました。セキュアなアイデンティティシステム(ザナドゥの原理1と3)がなければ、無秩序と国家や企業による土地の収奪が混在することは避けられません。商取引のためのプロトコルが組み込まれていなければ(ザナドゥの原理9と15)、オンライン上の仕事は価値が下がるか、独占企業によって金融システムが支配されることになるでしょう。セキュアな情報共有と管理のためのより良い構造(ザナドゥの原理8と16)がなければ、監視と情報の分断が蔓延することになるでしょう。WWW-インターネットがどれほど成功に見えても、結局悪い形で終わる運命にあるとネルソンは警告していました。
ネルソンはやや奇特に思われましたが、彼の懸念は驚くほど広く共有されていました。それは成功を祝うあらゆる理由があるはずの主流派のインターネット先駆者たちにもです。早くも1980年、TCP/IPが融合する中、リックは古典的な論文「コンピュータと政府」の中で、コンピューティングの未来について「2つのシナリオ」(一方は良い、一方は悪い)を予見していました。一つは、独占的な企業支配によりコンピューティングが支配されその可能性が阻害されるというもの。もう一つは、コンピューティングが民主主義に奉仕しサポートするような、社会全体を動員させる可能性です。21 前者のシナリオでリックはあらゆる種類の社会的害悪を予測し、その1つが情報化時代の到来が民主的な社会の発展に差し引きでマイナスに働く可能性についてでした。これには以下のようなものが含まれます。
政府に対する蔓延する監視と国民の不信感
市民が利用する主要技術に対して政府が後れを取り、規制や法執行能力が麻痺する
創造的な職業の地位低下
独占化と企業による搾取
デジタル虚偽情報の蔓延
ネットワーキンのポテンシャルを損なう情報の分断
政府のデータや統計がますます不正確かつ無関係になっていく
言論や公共の議論のための基本的なプラットフォームが民間企業によって支配される
インターネットの普及が進むにつれ、このような苦情は的外れのように思われるようになっていきました。リックが想像していたほど政府が中心的な役割を果たすことにはなりませんでしたが、2000年までに彼の警告を知っていた数少ないコメンテーターのほとんどは、リックのシナリオ2に向かっていると確信していました。 しかし、新しいミレニアムの最初の10年の終わり頃には、いくつかの地域で懸念が高まっていました。バーチャルリアリティの先駆者ジャロン・ラニアーは、『You are Not a Gadget(君たちはガジェットじゃない)』と『Who Owns The Future?(未来の覇者は誰だ?)』の2冊の著書で警鐘を鳴らし、リックと同じようにインターネットの未来に対するネルソンの見解を強調しました。22 これらの警告は当初、ネルソンの過激な考えを増幅しただけにすぎないと見られていましたが、先に「2-0-情報技術と民主主義:広がる溝」で議論した一連の世界的出来事によって、多くの人々が現在のようなインターネット経済と社会の限界を理解するようになりました。この動向は、リックとネルソンの警告と驚くほどよく似ていました。 インターネットの勝利は、一見したよりもはるかに悲惨なものだったのかもしれません。 我々の「道」を失う
ハイパーテキストとインターネットの創始者たちが明確に説明した落とし穴に、私たちはなぜはまってしまったのでしょうか?インターネットの発展を主導してきた政府や大学が、1970年代以降の情報化時代に合わせて進化できなかったのはなぜでしょう?
この警鐘が、1980年にARPA(現DARPA)の重点がネットワークプロトコルの支援から、より直接的に兵器に関連した研究へと移行していく中で、リックに論文を書かせた原動力でした。この移行は、政治的スペクトラムの正反対のところにある2つの力の結果だとリックは見ていました。一方では、後に「新自由主義」と呼ばれることになる「小さな政府への保守主義」の台頭により、政府は積極的に産業や技術に資金を提供し、それらを形作っていくことから手を引いていました。他方では、ベトナム戦争によって左派の多くは研究の方向性を左右する国防総省の役割に反対し、ARPAが「防衛機能」に直接関係のない研究に資金を提供することを禁止する1970年、1971年、1973年の「マンスフィールド修正案」が可決されました。23 これらが一因となって、DARPAの焦点は、軍事目標を直接支援すると考えられていた暗号化や人工知能などの技術へと向けられることになったのです。
しかし、米国政府の関心が移行していなくても、インターネットはその管轄と支配の外に急速に成長していきました。ますますグローバルなネットワークになっていくにつれ、ネットワーク社会をより広く成功させるために必要な社会技術的課題に対処するために必要な投資を行う明確な公的機関はありませんでした (デューイが予言したように)。リックはこう語っています。
「コンピュータ技術自体の観点からみると、輸出...はコンピュータ研究開発を促進するが、人類の観点からすると、重要なことは...急速な発展ではなく、賢明な発展である...セキュリティ、プライバシー、準備、参加、脆さといった重要な問題を適切に解決する前に、コンピュータ化とプログラム化が個人と社会に利益をもたらすと結論付けることはできない...。米国がこれらの問題を賢明に解決できる能力を全面的に信頼しているわけではないが、私は他のどの国よりもそうする可能性が高いと考えています。したがって、米国がどのような未来を真に望んでいるのかを把握し、それを実現するために必要な技術を開発するよう努めるよりも、コンピュータ・テクノロジーの輸出によって人類のために役立つのかどうかが疑問です。」
公的部門および社会セクターにおける投資の役割が低下したことで、リックやネルソンといった先人たちがインターネットに期待していた重要な機能/層(アイデンティティ、プライバシー/セキュリティ、資産共有、商業など)が欠落したままになったのです。インターネット上で動作するアプリケーションとWWWの両方には驚異的な進歩が見られましたが、プロトコルへの基本的投資の多くは、リックがこの文章を著した頃には終了していました。ネットワーク・オブ・ネットワークスを定義し、革新していく役割の中で公的セクターと社会セクターが果たす役割は、すぐに陰りを迎えることになったのです。
この真空状態に入り込んできたのは、パーソナルコンピュータの成功に沸き、レーガンとサッチャーの激しい祝福によって膨れ上がった、ますます意欲的になった民間企業でした。リックがインターネットの発展を支配し妨げると恐れていたInternational Business Machines (IBM)は、技術変化のペースに追いつくことができませんでした。しかし後継企業の多くが、それを成し遂げる意思と能力を示しました。少数の電気通信企業が、NSF(米国科学財団)から提供されていたインターネットのバックボーンを引き継ぎました。アメリカ・オンラインやプロディジーなどのウェブポータルが、ネットスケープとマイクロソフトがウェブブラウジングを牛耳ろうと競う中、大半のアメリカ人のウェブ体験を支配するようになりました。無視されていたアイデンティティ(認証)の機能は、グーグルとフェイスブックの台頭によって埋められました。デジタル決済手段という空白は、ペイパルとストライプによって補完されました。そもそも銀河系間コンピュータネットワーク構築の動機となったデータ、計算能力、ストレージを共有するためのプロトコルが存在せず、そのような共有を可能にするプライベートインフラストラクチャ(しばしば「クラウドプロバイダー」と呼ばれる)がアプリケーションを構築するためのプラットフォームとなりました(例えばアマゾンウェブサービスやマイクロソフト アジュール )。24
インターネットのバックボーンは、セキュリティ層や一部の暗号化を追加するといった限定的な形で改良され続けましたが、リックとネルソンが不可欠と考えていた基本的な機能は統合されることはありませんでした。ネットワークプロトコルに対する公共の財政支援はほぼ涸渇し、残ったオープンソース開発は主にボランティア活動で成り立つようになりました。やがて世界はインターネット時代の到来という現実を目の当たりにする中、その創始者たちの夢は色褪せていったのです。
蘇る過去の記憶
しかし、色褪せた夢はしつこく、一日中頭の中をぐるぐる回る。リックは1990年に亡くなりましたが、初期のインターネットパイオニアの多くは、その栄光と悲劇を目の当たりにしました。
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図 3-3-C:1999年、日本の慶應大学におけるテッド・ネルソン氏
出典: Wikipedia、CC 4.0 BY-SAライセンスに基づいて使用
テッド・ネルソン(図C参照)やプロジェクト・ザナドゥに携わった他のパイオニアたちは、今日に至るまでインターネットへの不満や改革を訴え続けています。エンゲルバートは2013年に亡くなるまで、「Collective IQ(集団的知能)の向上」というビジョンについて語り、組織化し、執筆活動を続けました。その中には、スタンフォード大学に拠点を置く「Online Deliberation(オンラインでの熟慮)」コミュニティのサポートが含まれています(このコミュニティは、後述するように次世代の⿻リーダーたちを育成しました)。彼はテレンス・ウィノグラード(Google創業者の博士課程指導教官)と活動を共にしていました。これらの活動はどれも初期のような直接的な成功には至りませんでしたが、⿻の夢を復活させ、明確に伝えるという新世代イノベーターたちにとってのインスピレーション、さらに場合によっては孵化装置としての重要な役割を果たしたのです。
光り輝く結節点
導入部で強調したように、テクノロジーの支配的な方向性は、民主主義と衝突するコースに向かっています。しかしこの新世代のリーダーたちは、それとは対照的な分散した、しかしはっきりと認識できる光り輝く結節点を形成してきました。これらを総合的に見てみると、改めてみんなの共通の行動を起こすことで ⿻ がいつかテクノロジー全体を活気づけることができるという希望が見えてきます。恐らく、一般のインターネット利用者にとって最も分かりやすい例は、Wikipediaでしょう。
このオープンかつ非営利のコラボラティブ・プロジェクトは、参照情報や広く共有される事実を伝える世界有数のリソースとなりました。25 イントロダクションの章で強調したとおり、デジタル領域の多くに広がる情報の分断や対立とは対照的に、Wikipediaは普遍的に共有された理解の情報源となっています。これは大規模かつオープンで共同体主導による自己統治(ガバナンス)を活用したことによって達成されています。26 この成功には様々な特異な側面があり、モデルを直接的に拡張しようとする試みは様々な結果をもたらしました。そのようなアプローチをより体系的で広く普及させることに焦点を当てたいと思います。しかし、この成功の規模は非常に際立っているものです。27 最近の分析では、ほとんどのウェブ検索結果がWikipediaの記事を目立つ形で含んでいることが示唆されています。商業的なインターネットがもてはやされはしますが、この1つの公的で熟慮的、参加型で、おおよそ合意によるリソースは、おそらく最も一般的な到達点だと言えるでしょう。
Wikipediaという名前の由来である「Wiki」という概念は、ハワイ語で「速い」を意味する言葉に由来しています。1995年に最初のウィキソフトウェア「WikiWikiWeb」を作成したワード・カニンガムが考案したものです。カニンガムは 、リンクされたデータベースの迅速な作成を可能にすることで、前述のハイパーテキスト・ナビゲーションと包括的な⿻ガバナンスのウェブ原理を拡張することを目指しました。28 Wikiは、専門家だけでなくすべてのユーザーが標準のウェブブラウザを使用して新しいページの編集や作成を行い、それらを相互にリンクさせることを促します。これにより、⿻の精神のもと、動的かつ進化するウェブ空間が作成されます。
ウィキ自体に意義のある用途が見いだされた一方で、さらに幅広い影響を与えたこととして「グループウェア」革命の刺激となったことが挙げられます。多くのインターネットユーザーは、Googleドキュメントのような製品を連想するでしょうが、そもそもその根源はオープンソースのWebSocketプロトコルにあります。29 HackMD(共同編集できるリアルタイム Markdown エディター)は、g0vコミュニティ内で会議の議事録などの資料を共同で編集・公開するために利用されています。30 共同制作された文書はこの精神を象徴していますが、この考え方はオンライン世界自体の基盤にまで広がっています。オープンソースソフトウェア(OSS)は、参加型、ネットワーク化された、国境を越えた自己統治(ガバナンス)という考え方を体現しています。LinuxオペレーティングシステムはOSSを代表するものであり、ほとんどのパブリッククラウドのインフラ基盤を支えています。また多くの人がGitHubのようなプラットフォームを通じてOSSに関わり、図Dに示すように近年は特に先進国で貢献者数が1億人を突破するほど急成長しています。70%以上のスマートフォンを動かすAndroid OSは、主にGoogleによって維持管理されているにも関わらずOSSプロジェクトです。このような「ピア・プロダクション(個人同士による協業)」の成功と影響力により、従来の経済分析の根底にある多くの仮説の再考が迫られています。31
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図 3-3-D 国別GitHub 貢献者数の生産年齢人口に占める割合
データソース: GitHub Innovation Graph32, World Bank (世界銀行)33, Taiwan Ministry of Interior (台湾内政部)34
オープンソースソフトウェア(OSS)は、1970年代に興ったソフトウェア業界の秘密主義的で商業的な方向性に反発して生まれたものです。ARPANET初期の自由でオープンな開発スタイルは、公的資金が撤退した後でも、世界的なボランティア労働力のおかげで維持されました。AT&T社が開発したUnix OSの閉鎖的な性質に反対したリチャード・ストールマンは、「フリーソフトウェア運動」を主導し、「GNU General Public License」を提唱しました。 これは、ユーザーがソースコードを実行、研究、共有、変更することを認めるものでした。この運動は後にOSSとして改称され、Unixをオープンソースの代替品である、Linus Torvalds氏が率いるLinuxに置き換えることを目標として掲げました。
OSSは、インターネットやコンピューティングの様々な分野に広がり、かつては敵対していたマイクロソフトのような企業からも支持を得るようになりました。マイクロソフトは現在、主要なOSSサービス企業であるGitHubのオーナーであり、また本書の著者の一人を雇用しています。これは大規模に実践される⿻であり、グローバルに共有されるリソースの創出的かつ協調的な共同創作でもあります。コミュニティは共通の関心事の周りに形成され、お互いの成果を自由に発展させ、無償の管理者によって貢献の審査を行い、和解できない差異が生じた場合にはプロジェクトを並列版に「フォーク(分岐)」させます。 「Git」というプロトコルは共同での変更履歴の維持をサポートし、GitHubやGitLabといったプラットフォームが何百万もの開発者の参加を容易にしてきました。本書もこうした共同作業の賜物であり、MicrosoftやGitHubによって支援されています。
しかしながらOSSも、ナディア・エグバル(現在はアスパロワ)が著書『Working in Public』で探求しているように、公的資金が撤退したことに起因する慢性的な資金不足といった課題に直面しています。メンテナーが報われず、コミュニティの成長に伴いメンテナーにかかる負担が増大しています。とはいえ、これらの課題は対処可能なものであり、OSSはビジネスモデルの限界があるにも関わらず、 **⿻ が支援することを目的とするオープンなコラボレーションの精神(失われた道)が続いていることを体現しています。したがって、本書においてOSSプロジェクトは頻繁に例として登場します。
コミュニケーション・ネットワーキングへの公共投資からの離脱に対するもう1つの対照的な反応は、先述のラニアーの仕事に例示されます。AIの先駆者であるマービン・ミンスキーの弟子であり批評家でもあった彼は、AIと同じ野心を持つ、しかし人間体験とコミュニケーションを中心とした技術プログラムの開発を目指しました。既存のコミュニケーションの形は、言葉や画像などの耳や目で処理できるシンボルに制約されていると感じていた彼は、触覚や固有感覚(内部感覚)といった感覚によってしか表現できない経験をより深く共有し、共感できるようにしたいと願っていました。 1980年代の彼の研究と起業家精神を通じて、この動きは「バーチャルリアリティ」という分野に発展しました。この分野は、ワイヤードグローブ35から AppleによるVision Pro36のリリースまで、ユーザーインタラクションにおける継続的なイノベーションの源となっています。
しかし、先ほど強調したように、ラニアーは、コンピュータをコミュニケーションデバイスとして捉える文化的なビジョンだけでなく、ネルソンのインターネットとなったものの欠陥と失敗に対する批判も受け継いでいました。特に、支払い、セキュアなデータ共有と出所証明、そしてOSSのための財政支援といったベースレイヤー・プロトコルの欠如を強く主張しました。この擁護活動が、(匿名の)サトシ・ナカモトによる2008年のビットコインプロトコルの発明と相まって、暗号技術とブロックチェーンを活用して出所と価値に関する共通理解を作り出す「web3」コミュニティとその周辺でこれらに関する研究波及させました。37 この分野の多くのプロジェクトはリバタリアニズムや過度の金融化の影響を受けていますが、インターネット本来の希求との永続的なつながり、特に (最大のスマートコントラクトプラットフォームであるイーサリアムを設立した) ビタリック・ブテリンのリーダーシップにより、 GitCoinやdecentralized identityなど、以下で探求するように⿻に重要なインスピレーションとなる数多くのプロジェクトを生み出しています。
こうした課題に取り組む他のパイオニアたちは、出どころや価値よりもコミュニケーションと関係性にフォーカスしました。彼らは自身の活動を「分散型ウェブ (Decentralized Web) 」または「フェディバース (Fediverse)」と呼び、Christine Lemmer Webber のActivity Pubのようなプロトコルを構築しました。これらは非営利でコミュニティベースのメインストリームSNSの代替手段となり、マストドン (Mastodon)からTwitterから独立した非営利団体となったBlueSkyイニシアティブに至るまで、幅広く存在しています。この分野においては、ソーシャルやコミュニティリレーションシップを基盤としたアイデンティティやプライバシーの再構築に関する最も創造的な数多くのアイデアが生み出されてもいます。
そして最後に、おそらく我々自身の ⿻ への道に最も密接に関連しているのが、政府や民主的な市民社会によるデジタル参加を強化することで初期のインターネットの公共精神と理想を復活させようとする運動です。これらの「GovTech」や「Civic Tech」ムーブメントは、OSSの手法を取り入れて政府サービスの提供を改善し、より多様な方法で公衆をプロセスに参加させました。米国におけるリーダーの例には、 GovTechのパイオニアであるCode4Americaの創設者Jennifer Pahlkaや、The GovLab.の創設者Beth Simone Noveckが挙げられます。38
特にNoveckは、初期の⿻開発と未来との強力な橋渡し役を果たしています。彼女は、前述のオンライン熟議ワークショップの推進者であり、この目標を達成するための最も初期のソフトウェアであったUnchatを開発し、vTaiwanなどの活動に影響を与えました。39 後に米国特許商標庁での仕事や米国副最高技術責任者としての貢献を通じて、上述したg0v運動の中核である、透明性と包括性を備えた手法の多くを切り開いてきました。40 Noveckはg0vだけでなく、ケニアの集団危機報告プラットフォームUshahidi(Juliana Rotichと協力者たちによって設立)から、Francesca Briaと協力者たちが設立したDecidimや、g0vと並行してスペインで生まれた「Indignado」運動から生まれたCONSULなど、世界中の野心的な市民向けテクノロジープロジェクトの重要な助言者でした(CONSULの運営母体には著者の1人が参加しています)。しかし、こうした重要な影響にもかかわらず、これらの取り組みが台湾においてg0vが成し遂げたのと同じく、システミックで、国家的で、したがって目につきやすいマクロレベルでの影響力を持てなかったのは、環境におけるさまざまな特徴が理由として考えられます。
もちろん、他の国々も⿻ の様々な要素において優れています。エストニアは おそらくその代表例で、台湾と同様にジョージズムと土地税の豊かな歴史を共有しています。世界で最もデジタル化された民主主義政府として頻繁に引用されており、1990年代後半以降、他のどの国よりも早くからデジタル民主主義を開拓 してきました。41 フィンランドは隣国エストニアの成功をベースとし、デジタルインクルージョンを社会、教育システム、経済により深く浸透させたほか、デジタル化された民主的な参加の要素も取り入れています。 シンガポールは、世界で最も野心的なジョージズム流の政策 を行っており、他のどの管轄地域よりも創造的な⿻の経済メカニズムと基本プロトコルを活用しています。韓国は、デジタルサービスとデジタル社会におけるコンピテンシー教育の両方に多大な投資を行っています。ニュージーランドは、インターネット投票の先駆けとなり、公共サービスの包括性を向上させるために市民社会を 活用してきました。アイスランドは、他のどの管轄区よりも広くデジタルツールを活用して民主的参加を促進してきました。また、ケニア、ブラジル、特にインドは、開発のためのデジタルインフラの構築 をリードしています。これら多くの例については、後ほど詳しく取り上げます。
しかし、どの国においても台湾が持つような、社会と技術を統合するような⿻の範囲や深さをセクターを超えて制度化した例はありません。 したがって、世界的レベルでの⿻ が意味し得ることを想像するための国家レベルでの代表例としてこれらのケースを見るのは難しいといえるでしょう。 国や文化、セクターごとの分断を埋め、世界のデジタル社会における基盤と目標の両方を築くためには⿻は更なる拡張が求められます。台湾の事例とその他諸国の希望を拠り所とし、ここでは⿻ によって生まれるグローバル社会の未来像をより詳細に描いてみたいと思います。
J.C.R. Licklider, "Computers and Government" in Michael L. Dertouzos and Joel Moses eds., The Computer Age: A Twenty-Year View (Cambridge, MA: MIT Press, 1980) ↩
Fred Turner, The Democratic Surround: Multimedia and American Liberalism from World War II to the Psychedelic Sixties (Chicago: University of Chicago Press, 2013). ↩
While we do not have space to pursue Deming's or Mead's stories in anything like the depth we do the development of the internet, in many ways the work of these two pioneers parallels many of the themes we develop and in the industiral and cultural spheres laid the groundwork for ⿻ just as Licklider and his disciples did in computation. UTHSC. “Deming’s 14 Points,” May 26, 2022. https://www.uthsc.edu/its/business-productivity-solutions/lean-uthsc/deming.php. ↩ Dan Davies, The Unaccountability Machine: Why Big Systems Make Terrible Decisions - and How The World Lost its Mind (London: Profile Books, 2024). ↩
M. Mitchell Waldrop, The Dream Machine (New York: Penguin, 2002). ↩
Katie Hafner and Matthew Lyon, Where the Wizards Stay up Late: The Origins of the Internet (New York: Simon & Schuster, 1998). ↩
J.C.R. Licklider and Robert Taylor, "The Computer as a Communication Device" Science and Technology 76, no. 2 (1967): 1-3. ↩
Michael A. Hiltzik, Dealers of Lightning: Xerox PARC and the Dawn of the Computer Age (New York: Harper Business, 2000). ↩
Paul Baran, "On Distributed Communications Networks," IEEE Transactions on Communications Systems 12, no. 1 (1964): 1-9. ↩
"Choose Your Own Adventure," interactive gamebooks based on Edward Packard's concept from 1976, peaked in popularity under Bantam Books in the '80s and '90s, with 250+ million copies sold. It declined in the '90s due to competition from computer games. ↩
Mailland and Driscoll, op. cit. ↩
Licklider and Taylor, op. cit. ↩
Licklider, "Comptuers and Government", op. cit. ↩
Jaron Lanier, You Are Not a Gadget: A Manifesto (New York: Vintage, 2011) and Who Owns the Future? (New York: Simon & Schuster, 2014). ↩
Phil Williams, "Whatever Happened to the Mansfield Amendment?" Survival: Global Politics and Strategy 18, no. 4 (1976): 146-153 and "The Mansfield Amendment of 1971" in The Senate and US Troops in Europe (London, Palgrave Macmillan: 1985): pp. 169-204. ↩
Ben Tarnoff, Internet for the People: The Fight for Our Digital Future (New York: Verso, 2022). ↩
In fact, researchers have studied reading patterns in terms of time spent by users across the globe. Nathan TeBlunthuis, Tilman Bayer, and Olga Vasileva, “Dwelling on Wikipedia,” Proceedings of the 15th International Symposium on Open Collaboration, August 20, 2019, https://doi.org/10.1145/3306446.3340829, (pp. 1-14). ↩ Sohyeon Hwang, and Aaron Shaw. “Rules and Rule-Making in the Five Largest Wikipedias.” Proceedings of the International AAAI Conference on Web and Social Media 16 (May 31, 2022): 347–57, https://doi.org/10.1609/icwsm.v16i1.19297 studied rule-making on Wikipedia using 20 years of trace data. ↩ In an experiment, McMahon and colleagues found that a search engine with Wikipedia links increased relative click-through-rate (a key search metric) by 80% compared to a search engine without Wikipedia links. Connor McMahon, Isaac Johnson, and Brent Hecht, “The Substantial Interdependence of Wikipedia and Google: A Case Study on the Relationship between Peer Production Communities and Information Technologies,” Proceedings of the International AAAI Conference on Web and Social Media 11, no. 1 (May 3, 2017): 142–51, https://doi.org/10.1609/icwsm.v11i1.14883. Motivated by this work, an audit study found that Wikipedia appears in roughly 70 to 80% of all search results pages for "common" and "trending" queries. Nicholas Vincent, and Brent Hecht, “A Deeper Investigation of the Importance of Wikipedia Links to Search Engine Results,” Proceedings of the ACM on Human-Computer Interaction 5, no. CSCW1 (April 13, 2021): 1–15, https://doi.org/10.1145/3449078. ↩ Bo Leuf and Ward Cunningham, The Wiki Way: Quick Collaboration on the Web (Boston: Addison-Wesley, 2001). ↩
The term "groupware" was coined by Peter and Trudy Johnson-Lenz in 1978, with early commercial products appearing in the 1990s, such as Lotus Notes, enabling remote group collaboration. Google Docs, originated from Writely launched in 2005, has widely popularized the concept of collaborative real-time editing. ↩
Scrapbox, a combination of real-time editor with a wiki system, is utilized by the Japanese forum of this book. Visitors of the forum can read the drafts and add questions, explanations, or links to related topics in real time. This interactive environment supports activities like book reading events, where participants can write questions, engage in oral discussions, or take minutes of these discussions. The feature to rename keywords while maintaining the network structure helps the unification of variations in terminology and provides a process to find the good translation. As more people read through, a network of knowledge is nurtured to aid the understanding of subsequent readers. ↩
A wired glove is an input device like a glove. It allows users to interact with digital environments through gestures and movements, translating physical hand actions into digital responses. Jaron Lanier, Dawn of the New Everything: Encounters with Reality and Virtual Reality (New York: Henry Holt and Co., 2017). ↩
The Vision Pro is a head mount display, released by Apple in 2024. This device integrates high-resolution displays with sensors capable of tracking the user's movements, hand actions and the environment to offer an immersive mixed reality experience. ↩
Jennifer Pahlka, Recoding America: Why Government is Failing in the Digital Age and How We Can Do Better (New York: Macmillan, 2023). Beth Simone Noveck, Wiki Government: How Technology Can Make Government Better, Democracy Stronger, and Citizens More Powerful (New York: Brookings Institution Press, 2010). ↩
Gary Anthes, "Estonia: a Model for e-Government" Communications of the ACM 58, no. 6 (2015): 18-20. ↩