『記号論への招待』
https://gyazo.com/eb8c1aadeba6a4442bec8af50c85043a
池上嘉彦著
/mrsekut-book-4004202582
読み進めている感じ、本当はソシュールの転換のところを知りたかったのだが、あまり出てこないmrsekut.icon
でもまあこれはこれで面白いのでぼちぼち読んでいる
1章 ことば再発見
記号
言語習得は、世界を整理し、秩序付けるもの
赤ちゃんの状態では世界は一つの概念
そこに「ママ」という記号で世界から切り分けて、母を認識する
この「ママ」は別の女性ではなく、この人である、と認識する
注意すべきはこの過程は「完全に自由」というわけではないということ
世界の既存の概念を、既に存在している人によって押し付けられるので、同じような世界を見ることになる
少なくとも周囲にいる人とは。というか、同じ言語を使う人とは。
自由とは、例えば、赤ちゃんが虹を見て100色あると認識する感じかなmrsekut.icon
言語
2章 伝えるコミュニケーションと読みとるコミュニケーション
物理的な物を人にあげたりもらったりする行為と、言語でのコミュニケーション
コード (記号論)
記号論の3分野
コンテキスト
「シャーロック・ホームズの記号論」
推論
コンテクスト依存、解約、受信者中心というコミュニケーション
仮説推論
いったん整理しておこうmrsekut.icon
コミュニケーション#6084fa481982700000576a0aらへんに書いた
3章 創る意味と創られる意味
記号と記号機能は、
シニフィアンとシニフィエという2つの項の間の相互依存の関係に基づいて成り立っている
シニフィアン、シニフィエのいずれか片方が欠けると、記号も記号機能も成り立たない
p.68
この辺難しい(直感が間違っている)mrsekut.icon
記号とシニフィアンを同一視してはならない
例えば、オウムが「オハヨウ」と言った時、
ここにはシニフィエはないので、人間にとっての「記号」や「記号表現」とは言えない
シニフィアンが、シニフィエを先行する例 p.71
シニフィアンはモノとして識別しやすいから。
e.g. 壁に「x」と書かれていたら、シニフィエはわからないが、シニフィアンを認識できる
美的機能を意図されている場合
同じシニフィエを、異なるシニフィアンで紐付ける時、異なる解釈が生じうる
e.g. 「小人」と「子供」は同じシニフィエを意図していたはずが、見方によっては後者は侮蔑的であると解釈される
コードに基づくコミュニケーションの場合は、対称的になる
シニフィエが、シニフィアンを先行する状況というのはあまりない
分節
エミックとエティック
2つの対象が視点によって、「同じ」とみなされたり、「異なる」とみなされたりすることがある
それは視点の差異であって、どういう視点かでエミックだとかエティックだとかと言う
同じ対象の話をしていても、用いる記号現象によってエミック/エティックが異なることもある
エミック
エティック
https://note.com/celestia1212/n/nb38d7a4ed089
http://syamato.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-97d669.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Emic_and_etic
https://ncode.syosetu.com/n2619bv/
https://www.nihongo-appliedlinguistics.net/wp/archives/8517
二重分節
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