『記号論への招待』
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読み進めている感じ、本当はソシュールの転換のところを知りたかったのだが、あまり出てこないmrsekut.icon
でもまあこれはこれで面白いのでぼちぼち読んでいる
1章 ことば再発見
赤ちゃんの状態では世界は一つの概念
そこに「ママ」という記号で世界から切り分けて、母を認識する
この「ママ」は別の女性ではなく、この人である、と認識する
注意すべきはこの過程は「完全に自由」というわけではないということ
世界の既存の概念を、既に存在している人によって押し付けられるので、同じような世界を見ることになる
少なくとも周囲にいる人とは。というか、同じ言語を使う人とは。
自由とは、例えば、赤ちゃんが虹を見て100色あると認識する感じかなmrsekut.icon
2章 伝えるコミュニケーションと読みとるコミュニケーション
物理的な物を人にあげたりもらったりする行為と、言語でのコミュニケーション
推論
コンテクスト依存、解約、受信者中心というコミュニケーション
いったん整理しておこうmrsekut.icon
3章 創る意味と創られる意味
シニフィアンとシニフィエという2つの項の間の相互依存の関係に基づいて成り立っている
シニフィアン、シニフィエのいずれか片方が欠けると、記号も記号機能も成り立たない
p.68
この辺難しい(直感が間違っている)mrsekut.icon
記号とシニフィアンを同一視してはならない
例えば、オウムが「オハヨウ」と言った時、
ここにはシニフィエはないので、人間にとっての「記号」や「記号表現」とは言えない
シニフィアンが、シニフィエを先行する例 p.71
シニフィアンはモノとして識別しやすいから。
e.g. 壁に「x」と書かれていたら、シニフィエはわからないが、シニフィアンを認識できる
同じシニフィエを、異なるシニフィアンで紐付ける時、異なる解釈が生じうる
e.g. 「小人」と「子供」は同じシニフィエを意図していたはずが、見方によっては後者は侮蔑的であると解釈される
コードに基づくコミュニケーションの場合は、対称的になる
シニフィエが、シニフィアンを先行する状況というのはあまりない
2つの対象が視点によって、「同じ」とみなされたり、「異なる」とみなされたりすることがある
同じ対象の話をしていても、用いる記号現象によってエミック/エティックが異なることもある