公開オンラインフォーラムでの「熟議」への懸念
terang.iconの、(ほぼ)地の文
Gutmann&Thompsonの熟議モデルでいわれるところの、(実際の言説自体ではない)公共的な理由提示のプロセスや、参加者の選好や考え変更可能性の確保(さらにはその変更があったとき集計されるデータへどのように反映されるのか)がどのようになっているのか、という点を個人的に興味深くウォッチしているterang.icon 総じてこのフォーラムは、競争的なシュンペーターモデル民主主義の延長で、deliberative democracy 的ではないけども、「熟議」という語だけ持ち込んでいる感じなのかなあ? /villagepump/blu3mo.iconさんによるChatGPT出力
terang.iconが上で書いたことの的をそれなり射ている
① Gutmann & Thompsonの熟議モデルに関連した指摘とは?
指摘の趣旨:
Gutmann & Thompsonの熟議民主主義モデルは、単に意見を述べるだけでなく、参加者が「公共的に受け入れ可能な理由」を提示し、互いの選好や意見を変更できることを重視しています。
この指摘では、「いどばた」というシステムが、単に多数の意見を集めたり、SNSなどを活用した表面的な交流をするだけでなく、実際に参加者が「理由を通じて」互いの意見を変更できるプロセスを持っているのか、またその意見変更がシステム上のデータに正しく反映される仕組みを備えているのかを疑問視しています。
分かりやすい例:
例えば「新しい道路を建設するべきか」という議論において、多数決を単純に取るだけでなく、反対派と賛成派が理由を述べ合い、その理由に説得された人が途中で意見を変えることができるようなプロセスがあるかどうか。
また、誰かが理由を通じて意見を変更した場合、その変化をシステムが適切に記録し、政策に反映できるようになっているか、ということです。
② ハーバーマス的公共圏論とYoungやSandersの言語偏重批判とは?
指摘の趣旨:
ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスは「公共圏」を理想的なコミュニケーションの場として考え、人々が理性的な対話を通じて社会の意思決定に関与することを重視しました。
一方で、Iris Young や Lynn Sandersなどの熟議民主主義批判者は、言葉での議論(言語能力・表現力)が苦手な人や社会的に弱い立場にある人が、熟議の場では排除されたり、発言が軽視されたりするリスクを指摘しています。
「いどばた」が、熟議のプロセスで「言語能力の高い人」や「SNSで声の大きい人」だけの意見が過剰に反映されないようにする仕組みを持っているかが気になる、という指摘です。
分かりやすい例:
たとえば、高齢者や障害を持つ人、SNS上で発言するのが苦手な人が、自分の意見を正しく伝えられる仕組みがあるかどうか。
「言語的に強い人がいつも議論を支配する」ことを避け、意見が少ない人や発言しにくい人の声がきちんと拾われる仕組みが用意されているか、という疑問になります。
③ AIによる重要論点の選別が「非決定権力」となる懸念とは?
指摘の趣旨:
政治学でいう「非決定権力」とは、「どの論点を議論するのかを決める力」のことです。表面的には決定権限がなくても、どの問題が重要とされ議論されるかを選ぶ力は非常に大きいです。
この指摘では、AIが自動で重要論点を選定する仕組み(論点整理モジュールなど)が、ある意味で「非決定権力」を持つことになり、恣意的に特定の議題を目立たせたり、逆に重要な問題を埋もれさせたりする可能性があることを懸念しています。
分かりやすい例:
例えばAIが「子育て支援よりも防災対策の方が重要だ」と自動で判断すると、子育てに関する議論がそもそも行われない可能性が出てしまう。
「議論すべきテーマ」を選ぶAIが、特定のテーマに偏ってしまうと、知らないうちに議論がゆがめられるリスクがあります。これは透明性が求められる民主主義の観点からは問題になりえます。
④ シュンペーターの競争的民主主義との関係は?
指摘の趣旨:
シュンペーターは民主主義を「競争的エリート主義」として理解しました。つまり、市民は投票を通じて政治的指導者を選び、その後の実際の政治的決定にはあまり関与しないというモデルです。
この指摘では「いどばた」が、『熟議』という言葉を使ってはいるものの、実際には市民が深く議論に関与するより、政治家が世論を収集・利用し、自分たちの意思決定を正当化するための道具として使っているだけではないかと疑問視しています。
分かりやすい例:
政治家が『いどばた』を通じて意見を集めても、結局は自分に有利な意見だけを取り入れてしまう。そうなると、市民が熟議をしてもその議論結果は軽視され、「政治的競争の道具」になってしまうだけで、市民が実際の決定に深く関われているとは言えない状況になり得ます。
全体を通じての要約・結論:
「いどばた」という新しいデジタル民主主義システムは、市民の意見を集約する仕組みを提供していますが、
本当に熟議的な(理由提示や意見変更を促す)プロセスを提供できているのか?
言語的弱者を排除しない仕組みがあるか?
AIが議題を選ぶことが新しい問題(非決定権力)を生まないか?
政治家が市民の意見を単なる政治競争の材料にするリスクはないのか?
ということに対して、指摘や懸念が示されています。
これらの指摘は、デジタル民主主義の仕組みをより良いものにするために重要な論点として捉えることができます。
チームみらいを思想的に支持できないため、その理由を以下にメモ。terang.icon 参院選2025を前に。
Cosense.iconユーザは支持者が多いような気がするので、自分は不支持だと書き残しておきたくなった。
個別の政策への不満とか、好き嫌いという次元のことではなくて、
政治の本質ともいうべきものを解体しかねない思想に、彼らが基づいていると感じるため。
要点は大きく2つ。
どのように(How / 手段)で満ちている言説
「AIで合意形成する」とか「アジャイルに進める」とか
なぜ(Why / 目的)が不在
「我々はどのような“善い”社会を目指すのか?」というビジョンの欠落
目的による手段の正当化は、一度動き出すと止めることができない。
ある目的が設定されたら、その目的を達成するためのいかなる手段も許容され、その連鎖は殺人的な帰結にまで至りうるということ。 チームみらいは、一見「目的がない」かのように見えるが、その実態はより深刻。
効率化とか合理化といった極めて近代的な価値を、暗黙の目的として内面化しています。 そしてこの暗黙の目的のために、例えばAIやアジャイルなどの手段を絶対視する。 これは熟慮や少数派の痛みなどの非効率ながらも政治の本質的要素を切り捨て、手段が自己運動的に暴走していくプロセスそのもの。前述のthoughtlessnessに他なりません。 執行者は「手段」の専門家である必要はあるかもしれないが、立法者は「目的」の記述者でなければならない。
立法府への立候補者が、自らを「目的の記述者」でなくて「手段の専門家」と規定する事態。
これは例外状態 Ausnahmezustand を平時に常態化させることと同義。 そしてこれは通常、困難なもの。
すなわち、目的を追求するにあたってどのような手段が倫理的に許されるのか、またその手段は別の価値を毀損しないかを検討する熟慮の過程。
しかし「手段の専門家」はこの困難な政治自体を「非効率」という名の「危機」とみなして、これを乗り越えるために技術的な「最適解」を導入しようとします。
この「最適解」を導入するためには、通常の議会での議論や反対意見などの「面倒」なプロセスは中断されるべきだという論理がはたらくことになる。
この事態はもはや政治の終わりといっても過言ではありません。
そしてこの語を出すのはいささか躊躇があるがナチス/ナチズムの構造が見てとれる(詳しくは後述)。 「理性」の名の下に、教会や王政などの旧体制の伝統や権威を、根本から解体して、新しい社会をゼロから設計しようとする試みがフランス革命。
「前例がない」との理由などで伝統を切り捨て、テクノロジーという新たな「理性」に基づいて社会の基盤を再構築しようとする姿勢とそっくり。
フランス革命では、「自由・平等・友愛」といった抽象的原理によって社会の複雑な現実にトップダウンで適用しようとした。結果、多くの混乱と暴力を生んだわけだけども、チームみらいのAIや予測市場といった、ある種理想化された技術的原理を社会に実装しようとするアプローチと酷似する。
バークは、人間が長い歴史の中で培ってきた偏見、先入観、慣習を、人々の集合的な知恵の宝庫として擁護する。現代だけを生きる個々人の「理性」に勝るものとしたということ。 反知性主義との類似
(無知とか反教育と、ここでterang.iconが言いたいわけではない。むしろ知性はあるに決まっている。 see 反知性主義) 体系的な人文知や、複雑な手続きを要する意思決定プロセスによる支配がここでの知性主義。
チームみらいが重視する知性とはエンジニアの実践知。そしてデータが示す民意らしきもの。
一部の人々が独占してきた旧来の知性を、テクノロジーによって万人に開かれた直感的にアクセス可能なものにしようとする思想。「この方が平等である」という考え方が、反知性主義。
多くの術語を、その歴史的・思想的文脈を理解することなく、生成AIに要約させ理解することなく「実践」しようとする行為そのものが反知性主義的な所作。
キリスト教が根付いていない日本において、反知性主義が起こっていることは的外れと言われるかもしれない。けれども、日本における反知性主義は、キリスト教的な「信仰」や「覚醒」の代わりに、「現場感覚」や「データとファクト」といったものを用いた、公共領域における演劇性、建前、理念などとの対置と考えることができると思う。 ナチズムとの類似
決して、差別主義者だとか、独裁者だと言いたいわけではない。そのような結果レイヤーの批判ではなく、思考の様式や統治の技術のレイヤーでのことをここでは指摘したい。
社会と身体の関係
ナチズムでは、社会全体を一つの民族共同体という「身体」だとみなした。
そしてユダヤ人や障害者を、その健康な身体を蝕む「病原菌」や「寄生虫」とみなして排除することを、国家的な「治療」だと正当化した。
チームみらいもまた、社会を一つのシステムという名の「身体」だとみなす。
旧来の政治プロセスや非効率な官僚制度、あるいは反対意見や批判の存在を、システムのパフォーマンスを低下させる「バグ」や「ボトルネック」とみなし、それを技術によって「修正」し、「最適化」することを社会的な「改善」として正当化する。
ここには、多様な価値観の共存や、対立のプロセスそのものがもつ価値は見過ごされる。
直接性への盲信
ナチスは、既存の議会、政党、労働組合などの煩雑な「中間組織」を敵視し、解体した。そして「総統」と「大衆」とが、ラジオや集会を通じて「直接的」に結びつくことで、熱狂的な政治空間をつくり出した。
『いどばたシステム』や広聴AIなどの設計思想には、既存の議会、伝統的メディア、専門家集団といった「中間組織」を、民意を正しく反映することのない「フィルター」や「抵抗勢力」として捉える傾向がみて取れる。
市民と政策決定が、デジタルプラットフォームを通じて「直接的」に結びつくことを理想とする。
このようなことにならないように、「熟議」はこれまで数々の議論と制度化と実践が試みられてきたが、彼らはこれらも踏み躙っているようにみえる(詳しくは後述)。
(伝統的な熟議論者使ってきたような元来の)熟議や、利害調整などといった、面倒で時間のかかるプロセスを担う「中間組織」をショートカットし、民意(とされるもの)を直接的に権力へと接続させようとする点において、手法と思想どちらともが共通しているように感じられる。
アーレントが『全体主義の起源』で指摘したようにアトム化した大衆が、中間組織なしに指導者と直接結びつくことは、全体主義の温床になりうる。 たとえ当人や支持者たちが「善意」に満ちていたのだとしても。
専門家による統治
これは前述の、どのように(How / 手段)重視の思想のこと
ナチスは、イデオロギー的なプロパガンダを徹底する一方で、その統治の実行においては、軍事・建築・経済といった各分野の専門家を重用した。彼らは、自らの行為の倫理的意味を問うことなく、与えられた「目的」を最大の「効率」で達成する技術者として機能した。
チームみらいは、エンジニアが統治の主体となることを公然と掲げる。彼らは、社会の課題を「政治的な価値対立」としてではなく、「技術的に解決可能な問題」として捉え直し、その解決に「最適」なアルゴリズムやシステムを実装しようとする。
両者とも、政治を「価値をめぐる闘争」から、「専門的知見に基づく、効率的な問題解決」へと変質させる点で軌を一にしている。
自らの行為の究極的な意味を問うことなく、与えられた任務を遂行する「専門家」の危険性への警鐘だったはず。
もしかすると、「AIや最新のIT開発手法に詳しい専門家が1人くらい議会にいてもいいではないか」という反論があるかもしれません。
この反論は上記を踏まえると論点を完全に見誤っていることがわかると思う。
我々が代表者へ託すのは、特定の技術的な知見ではなく、人間とこの社会に対する深い洞察に基づいて「我々はどこへ向かうべきか?」を問い続ける誠実さであって、「手段」の専門性を、「目的」を問う能力よりも先行させる発想自体が、政治の役割を根本的に誤解していると言わざるを得ない。
政治そのものを終わらせかねないデメリットは、一議席がもたらす利益をはるかに上回ると思われる
2. 政治思想や理論の破壊的な盗用
個人的には、要点1よりもこちらの方を深刻に捉えています。
政治理論素人の自分でさえこう思うのだから、他の語についても同様なのではないかと感じてしまいます。
これらは単なる誤用を超えて、それぞれの理念を破壊するような行為に等しいとさえ思う。
アーレントにとってのpluralityとは、我々一人ひとりが誰とも交換不可能な独自の存在であるという人間の条件を指していました。これは全体主義が抹殺しようとした個人の代替不可な価値の源泉。 チームみらいの手法は、この文字通りかけがえのない個人の独自性をAIが処理すべき「多様な意見のデータセット」へと矮小化します。
全体主義への抵抗から生まれた言葉を、データへと人間を還元するシステムのために利用するとはなんとも皮肉な……
分人という発想そのものが人を計算可能なものと捉えている。
そもそも分人の考え方は、ドゥルーズが管理社会への批判を述べたものであるが、「なめらか」の思想は平野啓一郎の人生論を社会実装しようとする試みの一つに過ぎない。 権力の形がプロトコルやアルゴリズムに変容したということ。
そもそも滑らかさは政治的な摩擦を排除しようとすること、つまり政治の終わりを志向している。
これまで熟議民主主義論者たちが、その正統性をいかに担保するかに心血を注ぎ、制度化を試みてきた概念が熟議。 しかしこの知的営みは無視され、単なる意見集約システムに「熟議」の名が冠せられる。
おそらく私の当初の上記指摘から「理由」という言葉がフォーラムに加わったようだが、この「理由」という語だけが、その背景や経緯を理解することなく「実践」として付け足されてしまった。
私の指摘の意味が、まったく共有されていないことがわかる。
あるいは私の指摘が仮にきっかけではなかったにせよ、「熟議」の文脈での「理由」の意味がまったく理解されていないことがわかる。
https://gyazo.com/613371b7fb480ee587fc0864f9970546
こういう個人的な「理由」を聞く仕組みを無邪気に取り入れてしまった。
合理的ですね。
こんなことになるんなら何も言わなければよかったと後悔さえする。
私が今こう書いて、じゃあ「個人的な理由ではない理由をAIがインタビューします」じゃあないんだよ。
どうして語の表面だけを捉えるだけで、概念を理解しようとしないんだろう?
これ、もはや困難な対話を回避するためのアリバイ作りでしかなく、「熟議」という概念のもつ価値そのものを破壊する行為ではないか。
vTaiwanもこの点で同様。これはかつてのやり方を「古い熟議」と位置付け、
社会の縮図となる無作為抽出でない自己選択での参加
人と人との全人的な関わり合いの意見変容ではなく、オンラインでの意見分布可視化
共通善の探索ではなく、対立を嫌う見せかけのコンセンサス いざ話し合うのは一般市民ではなくエリート層
とするやり方を「新しい熟議」あるいは「ハイブリッド」と無批判に称揚していいものでしょうか?
台湾の試みを評価するならば、台湾モデルはその国や地域独自のナラティブを伴いながら、市民たち自らが道具(テクノロジー)を作り出した点(さらにデジタル大臣も置いた)。
しかしながらチームみらいは、市民からのボトムアップではなく、法の側から自分たちがルールを作るからさあ踊れ!というトップダウン。台湾型Pluralityムーブメント(アーレントのそれとは別)さえも、意味を転倒させていると言わざるを得ない。
たぶんこれが彼らの思い描く新しい政治なんだろうさ。
豊かで、困難で、時に対立を伴う人間のpluralityが、見事に一つの管理可能なデータのpluralityへと平坦化され、面倒で非合理な「熟議」がAIによる快適な意見自動整理装置へとって変わる世界。なんという効率性!
そして議論や誤用の指摘をすると生成AIの出力だけで済ましてそれっきりにする。
なんていうか、単なる無知とかでなくて、自らを飾る語彙をそこらから漁って次から次へと身に纏う。こういう先人の知的格闘とは向き合わない態度には強い忌避の念をもたざるを得ない…
ケース:星氏の一件は象徴的。
これはプロジェクトの思想的な根幹を問うような、極めて政治的な営為であった。
彼の貢献を技術的な貢献という物差しでしか測ろうとしない態度。これは政治的な価値対立を「技術的に解決可能な問題」へと矮小化する行為。
「なぜ人権というOSが今インストールされねばならないのか?」という彼の提起の緊急性や重要性を検討することなく、ただその「実装」の不備をあげつらっている。
与えられたタスクをこなす手段の専門家として終始振る舞っている。
貢献(Contribution)も破壊的に盗用された。オープンソース文化における「貢献」とはコードだけでなく、バグ報告やドキュメント改善、そして今回のような原理的な問題提起も含むはずだったはず。
これを「技術的実践」だけに限定しようとし、思想的な貢献を「中身がない」と切り捨てた。
これが彼らの掲げる「開かれたプラットフォーム」。
しかし実際には自分たちの思想(デジタル民主主義)を共有する者にしか開かれていない、閉鎖的な空間であることをこの件で暴露している。
今回の提起を「政治」と受け止めることができず、あくまで「開発」の作法としてしか評価できていない。
もし別の場所で反論が書かれるにしても、XTwitter.icon上であの反応はあまりにも軽薄に過ぎると思うし、これこそthoughtlessnessと言う他ない。 「私は中立です」という安野氏の発言を引用しているわけではなく、当初のニュース上の具体的な事実(マニフェストに人権の言及がないこと、アムネスティ調査に無回答など)のパターンから、同氏のスタンスを「人権問題に対して中立的(あるいは消極的)である」と解釈、評価した。このことは政治評論においてごく自然だと思う。
また、「人権侵害に対して『中立的な態度』はありえない」と述べることで、星氏が言う「中立」が「人権侵害を積極的に批判、対抗しない態度」を指していることを明確に示しているから、ここでの定義も曖昧とは言えない。
星氏の主張の核心は、「人権というOSを社会にインストールするか、しないか」という問いであって、これに関しては中立的な第三の道は存在しないという点に集約される。これに対して中立以外の第三の選択も列挙し二分法を避けるべきと要求することは、当初の論点を意図的に解体、無効化しようとする試みに他ならない。
これは議論をより良くするための提案ではなくて、星氏の批判を避けるためのレトリックと思われる。
そろそろこんな反論が聞こえてきそうな気がしてきた。「そんなことは言っていない/どこにも書いてない。勝手にこちら側のことを読み替えないでもらえませんか?」と。
私は構造—それは目に見えない—を指摘している。
にもかかわらずそのように反論したいならば以下の構造を今一度指摘しないといけない。
テキストを唯一のアウトプット(データ)とみなす
思想をブラックボックスとし、その分析を拒絶する
解釈—もちろんそれは多様な解釈—という知的営為を無効化する
その言ったとか書いていないという水掛け論はここでは意味をなさない。
「まあまあ、そういう懸念があるなら、同じ仲間としてこの運動を盛り上げようよ」という言葉が、応答者に頻繁に返されている点も、この問題をひどく強めています。
この手の誘い自体が、まさにpluralityと熟議の双方ともを否定するんだもの。
つまり外部からの批判的な声を、管理可能な内部の声へと取り込み同一のものとしようとする試み。
真の対話、真のアーレント的actionは、互いに独立した者同士の間 in-between で生まれるのであって、あらゆる差異を一つのプロジェクトに解消することで生まれるわけではありません。 この応答は、多元的な理念を掲げなら、実態は、一元的な思想へと全てを回収しようとする、丁寧で親切なようで、しかし最も根源的な暴力だと思う こういう知的あるいは思想的な不誠実さが、彼らへ自分の代表を託すことのできない決定的な理由なんだと思います。
それぞれの思想から、その核心を見ず、技術的プロジェクトを推進したり正当化したりするための、都合のよい変換・単純化・道具的再利用を見過ごすことはできない。
このような「困難さ」「面倒さ」「言葉の厳密性」「知の営み」といった考えが、彼らからすれば「それは古い政治なのだから、これからの新しい政治を始めようではないか」と、こう言いたいのかもしない。
私のこの批判さえ、もしかすると「あなたのその考えも回収させてください」と言いたいのかもしれない。
それでも自分は、(自分自身を含む)人間の不合理さ、弱さ、ままならなさをファシリテーターとして目撃していて、彼らの技術的あるいは経営的なパラダイムに立つことができない。
これも彼らには「分断」に映るのかもしれませんね。私は私でここに現れておきます。