目的を立てたならば人間はその目的による手段の正当化に至るほかない
このことは、
最後には恐るべき結果が生まれる
殺人的な帰結をもたらす
その目的に向かわなそうに見える手段の行使が
目的への一種のNOを示してくれているのかもしれません
あるいはNOとまでは行かずとも無目的な時間の発意
雇用契約や就業規則との間にコンフリクトは当然生じるとは思います コンサマトリー Consummatory の対義語は、インストゥルメンタル Instrumental 道具的 無目的な場にはどのように人が集まるだろう?
Cosense.iconも、一応何かの目的のために使用しているが
Excelなんかで新機能をあえて使って目の前の課題を解決したがる、(わりと困った)傾向が自分にはある、という自覚が実はあるterang.icon こうして活動は、終始一貫うまく製作の様式に変形されたが、そのことは、政治理論と政治思想の用語法全体が簡単に証明している。実際、今日、手段と目的のカテゴリーを用いず、手段性の観点から考えることなしに政治理論を論じることは、ほとんど不可能となっている。しかし、おそらくそれ以上にもっとはっきりとこの変形を物語っているのは、すべての近代語に見られる普通の格言が、どれもこれも一致して、私たちに「目的を欲する者は手段をも求めねばならぬ」とか「卵を割らずにオムレツを作ることはできない」ということを勧めていることである。目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考えを追求してゆけば、最後にはどんなに恐るべき結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう。しかし、このような踏みならされた思考の筋道を避けるには、それにいくつかの限定条件をつけ加えるだけでは不十分である。たとえば、必ずしもすべての手段が許されるわけではないとか、目的より手段の方が重要であるのはただ一定の状況のもとにおいてであるというようないくつかの限定条件はあまり意味がない。このような限定条件は、自分から進んで認めていない道徳体系を当然のこととして認めてしまうか、自ら用いている言葉とアナロジーそのものによって覆されるか、そのどちらかである。なぜなら、目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない以上、目的はすべての手段を必ずしも正当化しないなどというのは、逆説を語ることになるからである。そして逆説は常にそこに難問があることを示しはするものの、それを解決するものではなく、したがって説得的ではない。政治領域で扱われているのは、目的と手段であると信じられている限り、だれかが、普通認められている目的を追求するのにありとあらゆる手段を用いるとしても、それを禁じることはできないのである。 (同じ箇所)
行為を制作の形態に変換することが、めざましい成果を収めたことは、われわれ現代人にとって自明となった政治理論と実践的政治思想の用語法からして、容易に立証されよう。われわれは、目的 - 手段のカテゴリーを用いることなくしては、政治の問題について語ることすら、ほとんど不可能だからである。おそらくこの実情にいっそうの説得力を与えるのは、どの国の現代語でも、大衆好みのことわざや言い回しとして、「Aと言う者は、 Bとも言わざるをえない」「目的は手段を神聖化する」「ある目的を欲する者は、その手段も欲しなくてはならない」「卵を割らなくてはオムレツは作れない」等々と、異口同音に語られるという事実である。どんな手段も、それが実効的であるかぎり、それを正当化することのできるたった一つの目的に役に立つなら、正しいと見なされる、とするこうした考え方は、殺人的な帰結をもたらすが、おそらくわれわれ以前のいかなる世代も、このことを実感する機会を十分にはもたなかったであろう。こうした陳腐ながら危険な決まり文句の発想から逃れるには、許されざる手段というものもあるのだ、とか、一定の事情にあっては、目的よりも手段のほうが重要だ、とか言うことによって、そういった決まり文句に何かしら制限を課すだけでは、十分ではない。というのも、そうした制限は、そうした制限自体がまさに証明しているように、前提しがたい何らかの道徳の妥当性を前提するか、あるいは、言語ならびに、当の言語が用いている言葉の隠喩的内実にぶつかって挫折するか、のいずれかだからである。じっさい、それに仕える一切の手段を正当化しない目的が存在する、などと主張するのは、パラドクスを語ることでしかない。なぜなら、目的というのは、それが正当化する手段に関係づけられること以外には、定義できないものだからである。それに、パラドクスとは、思考が深刻な難点に陥っていることをいくら暗示するにせよ、解決ではないし、結局のところ誰も納得させはしない。政治的なものにおいてわれわれは目的 - 手段のカテゴリーの意味空間を動いているのだと思い込んでいるかぎり、誰かが、承認された目的を追求するためにあらゆる手段を利用することを阻止するのは、われわれには難しいであろう。 (同じ箇所)
行為の制作の様式への転換がどんなに執拗に行われ、かつ成功してきたかは、政治理論や政治思想で用いられている用語を見れば、容易に確認できる。事実、この分野では、目的と手段のカテゴリー、道具的な思考なしでは、ほとんどやっていけなくなっている。さらに説得力があるのは、近代言語において一般に広まっている格言が、口を揃えて「ある目的を欲するなら、その手段も欲することになる」、「オムレツを作るには卵を割らなければならない」と勧告していることだろう。決められた目的を追求するために有効だから、許容できるから、正当化できるから、という理由でどんな手段でも認めさせるような思考方法がどんなに残虐な結果をもたらすのか、おそらくわれわれはそのことを思い知らされた最初の世代である。しかしながら、すでに踏み固められてしまったこの思考径路から抜け出すには、必ずしもすべての手段が許されるわけではないとか、一定の状況の下でなら手段は目的より重要かもしれない、といった限定をつけるだけでは不十分だ。そのような限定は、これらの言明自身がすでに証明しているように、決して自明のものとは言えない道徳システムを前提としているか、あるいはみずから用いている言葉とアナロジーそのものによって覆されている。目的はすべての手段を必ずしも正当化しないと語ることが、すでに矛盾である。目的を定義することは手段を正当化することだからである。矛盾というものは、そこに難問があることを示すものだが、それを語っても解決することにはならないし、説得力ももたない。政治的領域で扱うのは目的と手段であるとわれわれが考えているかぎり、認められた目的のためにどんな手段でも用いようとする者を止めることができない。