アルゴリズム的統治性は再帰的な主体を棄却する
みたいな話が、東浩紀『訂正可能性の哲学』で出てきて面白かったのでメモ
統計学によって、
主体の情報を集めたビッグデータからわかるテクノロジーは、似ている人を算出し、
嗜好や思想や犯罪を犯す可能性までもを算出する
amazonやGoogleがずっとやってきたことが政治に流入するとき、フーコー的な生権力とは別の権力が生まれる。
生権力は、社会規範からの要請によって、主体にWho am I?的な反省を迫る
ギデンズのいう近代性terang.icon
対して、アルゴリズムによる統治には、反省によってその人の考えや行動が変わっても、それは外れ値として処理される
たとえばwho.iconさんにテロを起こす気が仮にあったのだとしても、規律訓練によって反省して、テロは悪いことだと生権力的に考えを改めた。それは主体を規範から要請されたということ。これが近代の生権力。
一方でアルゴリズムによる統治では、who.iconさんが反省して考えを改めても、変わらずテロを起こす気がある人と判定されて、逮捕されたり、あるいは、ローンを組めなかったりする。
who.iconさんに訂正可能性がない
人生の体験の非反復性(あるいは一回性)の否定、とは言っても、功利主義でもない何か、みたいな話かもしれないterang.icon
『PSYCHO-PASS』のシビュラも想起した。terang.icon
予防の倫理学とはどう接続できるだろう?terang.icon
このようなアルゴリズム的統治性は、
落合陽一『デジタルネイチャー』のような人工知能民主主義や、
シンギュラリティのようは怪しげな宇宙論
も呼び起こす
これらは、終焉したと思われた大きな物語の続きにも見える。特に2010年代において。
鈴木健の分人民主主義による投票テクノロジーも、主体が形成されず、主体化を回避するという点で同じ。
教育基本法第一条による人格の完成と逆行するような考え。
これらはルソーの言う一般意志の延長なのだと、東。
近代デモクラシーの父とも呼ばれるルソーの帰結としてアルゴリズム的統治性を説明するのは面白いterang.icon
そして当然、ファシリテーターがつくる場は、このタイプの統治を拒否する。
東も同様にこの考えに反発する。
ホッブズの自然状態は万人の万人に対する闘争
ゆえにその暴力性を委任(represent/表象/代表)するためにルール(法)が必要で皆が守らなければならないと、社会契約の理路を示した。
対してルソーにとっての自然状態は、牧歌的な原始人的生活で理想的なもの。
しかし、誰か一人が「ここは自分の土地だ」とか「ちょっと必要以上に在庫しておこう」と欲望を喚起したとき、「じゃああの人が自分のものと所有権を主張するのなら自分だって」と連鎖的に争いが始まってしまう。
それは理想から離れてしまうこと。
だからその理想的な状況のためにルール(法)が必要で、皆がそれを守らなければならない、とした。
…と東。
ルソーは原始的生活を理想としたというより思考実験的な話ではなかったっけ。まあ奇人ルソーの心のうちを想定するはなかなか難しいので保留terang.icon
一般意志とは、『社会契約論』では、「社会契約が成立したとき、必然的に生まれる集団の意志。」と書かれている。
特殊意志や全体意志ではない。
特殊意志とは個人の意志のことで、全体意志とは特殊意志の集合。
全体意志は単なる私的な利害の集まりで、一般意志には公共性が宿る(とルソー)
けっこう謎。
ルソーによれば、一般意志は常に正しいらしい
一般意志が死ねと命じるならば個人は従わなければいけなくなる
怖い
一般意志は、アブダクション的に後から遡及される。クリプキ的な暗闇の中での飛躍でもある。
ルソーの時代にはなかったが、現代では発見された2つの当時からの変化。
1. フロイトによる無意識の発見
一般意志とは自分では意識できないような何かの集まりなのでは?という説明は意味が通じやすい
2. 統計の技術
自分では何を欲しているか無自覚でも、統計的に表されると、「ああ、それが自分は求めていたのだな」と言うことは、統計的な操作の後で認識できることがある
ルソーの時代は国勢調査さえまだなかった。
ルソーの言いたかったこと、「死ねと言われれば死なざるをえない」の必然はこのようなところにあるのではないか?
だとすると、アルゴリズム的統治性(ルヴロワ&バーンズ)、つまりは落合陽一やシンギュラリティは、ルソーの描いた一般意志の延長上の民主主義的な理想を追っていることになる。
監視社会やその資本主義(監視資本主義)は、
「民主的ではない」「民主主義の敵」と言われがちだが、
『監視資本主義』の著者ズボフもその立場から議論を進めるが、
対立しているとは、単純には言えない。