積読こそが完全な読書術である
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目次
情報の濁流に飲み込まれている
読書とは何だったろうか
蔵書家が死ぬとき、遺産としての書物
第二章 積読こそが読書である
完読という叶わない夢
深く読み込むことと浅く読むこと
「自前」の考えをつくる方法
第三章 読書術は積読術でもある
一冊の本はそれだけでひとつの積読である
読めなくていいし、読まなくてもいい
本を読まない技術
積読のさらなるさまざまな顔
第四章 ファスト思考に抗うための積読
デジタル時代のリテラシー
積読で自己肯定する
本やコンテンツが溢れて情報の濁流の時代に住む我々
この50年間で、書物の刊行数は加速度的に増加してきた
書物だけでなく、インターネットコンテンツの増加量は凄まじいことになっている
書物は、読まれるためのものでもあり、同時に「保存され保管される」ものとして作られたもの
だから積読をしておくことは、書物の役割からして不自然ではない
本を読むことには、リスクが存在する
時間の浪費
誤った知識を学ぶこと
不快な思いをすること
自分なりの積読環境を作る
完ぺきに読書することはできない
読み手が本からどういうことを感じたのか、学んだのかは読み手の自由である
だから、感想を語る時は自信満々に語って良いのだ、とバイヤールは提案する
理解できないところ、読み飛ばしたところ、誤解したところ、読んだけれど忘れたところなど、いくらでも未読に繋がる要素は見つかる
本と本の関係に注意を払うことを提案
Scrapbox的なネットワークの構築を、本に対して行う
点検読書とシントピカル読書は、筆者が提案するビオトープ的積読環境構築にも重要
点検読書で目次や本の概要をざっと知っておくと、積読の質が上がる
情報の濁流から逃れるために、とにかく自分で何かテーマを決める
ショーペンハウアーの時代で既に、情報の濁流が叫ばれていた
だから、悪書の批判をして、良書だけ・古典を読めと主張していた
現代はショーペンハウアーの時代よりも更に情報の濁流化が激しい
p120
しかし、どんなに胡散臭くとも、ショーペンハウアーがどんなに軽蔑しても、他人の言葉を摂取せずに何かを語るということはできません。完全な読書が存在しないのと同様に、完全に読まない、ということもまた不可能なのです。程度の違いはあれど、人は不完全な読書を前提にするしかないのです。そして、肝心なのはこの不完全な読書の「程度」をどうするか、ということになります。読書を「どの程度、不完全にするか」
著者の山口は、読書ノートの作成を情報の「いけす」を作ることだと書いている
全ての読書は積読である
存在を知った時点で積読が始まる
一通り読んで、閉じて、本棚にしまう or 図書館に返した後も積読は続いている
再読されて、Scrapboxにメモされることを待っている状態