2021/04/11-2021/04/20
#採掘場
買い手がいなければ値段は付かない
オートパイロットの方が生産性が高い問題
「定期的」と変わる言葉
無職転生とか本好きの下剋上とかをアニメで見ていて思ったのが、原作の物量というか長さ、長さというか人生、みたいなものって、うまく機能すればすごい破壊力になるんだなってことだったり。
ひらがなだけを抜き出す短縮
「◯◯(人名)は××ない」「 〜××したい」
『弱キャラ友崎くん』の読書メモ
セイバーってサーベルだったのかよ
『ヒューマン・ネットワーク』に出てくる住み分け問題
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https://news.yahoo.co.jp/articles/b0a94adc7dd2be9b7bb6821e1d169d09525980ce?page=1
不確かな自分自身にもとづく判断ではなく、何らかの絶対的な権威(その背後には神がいる)に服属すれば生・性を浄化できる、救済されると思うようになるだろう。万事が神の絶対的意志に一致しているキリスト教的楽園に似たものとして、超管理社会がある種の宗教性を帯びた理想状態として実現されることになる。
⇒ここのところの実感は(私にとっては)違っていて、“何かに意思を委ねる”ことは、全面的に堕落であり悪である、と認識される。
だから、どんどん清潔化され画一化(二極化を含んだ画一化)される社会、という現状認識を同じくしても(韜晦したり怠けたりするしかない対象もある)、違う映像を私は見る。
AIを誰が教育するのか問題は残っていて、裁定を平等なものに任せたがっていたとしても、将棋の優勢点数表示じゃあるまいし、道徳を点数判定させるに足りるシステムはまず生まれない。(と、私は感じるんだ)
政治主義における保守主義の、「理性主義への懐疑主義」的なものへの近似も感じるかな?
歴史がランダムに反復されることになる。デジタルデータで音楽を聴くようになって以後、我々の時間感覚はそのようなランダムアクセス的なものに変わった。
何かが一回的に通過していくという感覚─言い換えれば「出来事の出来事性」─が、かつてはもっと強烈にあったと僕は思う。かつて、ノスタルジーというのは一回的に通過したものへの追慕のことであった。
⇒ここでの私の現状認識は、「情報量の増大≒選択肢の増大≒選択の分散、ということが問題なんではないかってことで、強制性や不可避性そのものではないんではないかってことを考える。
「みんなであのとき、パプリカを歌ってた」みたいに、他人と共通して分け合える切符が無くなることのほうがトリガーなんではないのかと。
(空想上の4象限マトリックスで言えば、「みんなで示し合わせて、その日その時刻に、データベースの聴き放題のリストの中から、特定の昔のナンバーを聞く」みたいな体験で、擬似的な青春が発生しうるのかどうか。それが手段として可能かどうかはさておき)
だが今日では、「何事かが一回的に失われるということそれ自体が失われた」という、一段階メタレベルが上がったノスタルジーが生じている。これは「二階のノスタルジー」とでも呼ばれるべきものだ。いわば、「失われた時を求めて」を求めて、である。
https://note.com/nokiba/n/nc9e0ecddff57
ドリーの「判断」には考えさせられます。自分も子どもを育てるに当たってそういつもいつも「グッドバイブス」でいることはできないケースがあると知らされるからです。
「たとえ素直さを犠牲にしても、子供たちをこういう風に育てるしかないのだと判断した」というのは議論の余地ありと思うでしょうが、やっぱりそういうことはあるものです。
http://honkure.net/rbook/archives/3624
しかもここに、慣性の力が働く。すでにそのフォーマットで物事の進め方が決まっているとき、その変更は外部性を持つ。つまり、他の要素にも影響を与えてしまう。それまで通りのやり方で仕事をしたい人にとっては、煩わしいことこの上ない。
だからこそ、どう考えても大げさに思える「デジタルトランスフォーメーション」などいったムーブメントが必要なのだ。小さな改修の声は、慣性の力に負けてしまう。だからこそ会社が全体として動いていく必要がある。少なくとも、かじ取り役が賛同していなければ、新しいやり方への変更など不可能だろう。その企業が大きく、また古いほどそうした傾向は強く出てくるに違いない。
⇒いい記事だった。
本の批評の形をとって、本本体と同じ目線で、オールドメディア社会の批判をしている……w
https://rashita.net/blog/?p=30664
幸い、テキストファイルのファイル名を日付にしておけば、単に保存するだけで綺麗に整列してくれます(これはあたり前のことではないのです。OSがあってこそなのです)。
https://note.com/nokiba/n/n4fc89083130c
私たちは、なぜか、「本当のことはわからないけれど、これだけは絶対こうだとしか思えない」と思ってしまうことがあります。
だれだって、こんなに○○なら、絶対にこう思う!
とおもうわけです。こんなに汚かったらダスキンの人だって絶対に呆れるにちがいない!など。
つまり、病気がきちんと治ってなければ医者に行かれない、というのとこれは同じなわけです。
https://cyblog.jp/43437
とはいえ、誰しも自分のことを「馬鹿」だとは認めたくないので、これを覆すために目の前にいる相手を自分よりももっと「馬鹿」に変えることによって、自分の「馬鹿」化を回避しようとする。
自分を変えるより相手を変える方がより多くのエネルギーが要るため、一時的にターボブーストをかける。
このターボブーストこそが「怒る」の実態だと思う。
自分にとっての「日記」を振り返る
https://note.com/rashita/n/n7661f81e332a
私の場合は、「もっとうまく書けるはず」「もっと良い構成があるはず」といった声がよく聞こえてきます。そのたびに、文字を打ち込む手が止まります。思いと行動のベクトルが一致せず、分裂しているからです。
避けたいのは、その状況です。まかりまちがっても、「もっとうまく書けるはず」なんて考えても無駄だからそんな思いは捨てろ、という横暴な態度ではありません。
というアプローチでは、神経質さは害悪として取り扱われ、永遠に引き出しの奥へとしまわれてしまいます。嬉しい結果ではありません。
⇒呪い、コンプレックス
相反する力を手にしながら、もともとの力も消さないこと。二つの声を併存すること。それがMuteが目指すものです。
どれだけ効果的なものであっても、本人が自分の心の声を聴くことを促さず、一方的に新しい声を上書きして問題解決しようとするならば、それは洗脳と代わりありません。それが「解放」を謳っていようとも結果は同じです。
https://corp.netprotections.com/thinkabout/2546/
ここでいう「疑問を投げかける」とは、「懐疑的になる」のではなく、「問う」ことです。もっと簡単にいうと、「考える」ということ。「考える」というのは、自分自身に問いを投げかけ、それに答えようとするプロセスに他なりません。これは「疑う」という言葉が持つイメージとは裏腹に、すごくポジティブな営みだと思っています。
なかでも「自分の言葉で理由を挙げて話す」ということは、特に大切にしています。例えば「カント的にはこうでしょう」とか言われたら、カントを知らない人は「あ、そうなんですか…」としか言えず、むしろ自分の知識不足を恥じて議論に参加しにくくなってしまう。対等でないと、いい対話の場にはならないので、そこは徹底したいと思っています。
つい人の言葉で語ってしまっている人がいたら、「あなたはどう考えるんですか?」と突っ込む。ファシリテーターとして権威主義的なものを排する役目を果たすことを心がけているんです。「カントが言ったからどうした?」って感じですよね。
もちろんカント哲学も、私たちが参照するべき思想の一つではあると思います。だけど、目の前でいま他者が考えて表現していることとか、自分が考えたことも、同じくらい意味を持っていいと思っています。
普段の教室での力関係から離れ、自由に語ってもらうことで、「ぶつかった時も、対話で克服する」という手段の効用を分かってもらえることもあります。実際は、対話中にテーマやコミュニケーション自体がしんどくなって出ていっちゃう子がいたりなど、うまくいかないこともあるんですけどね。
彼らは、「昨日どんなテレビ観た?」といった「知識」を前提とした会話やコミュニケーション能力でジャッジされる社会から、排除され、傷ついてきた人たち。だから普段は、日常会話も難しい。だけど「働くとはなにか」というテーマで哲学対話を行ってみたら、普段では考えられないくらい話してくれたんです。
そのとき初めて、「哲学って、本当に普遍的なんだな」と思いましたね。たとえば「どこで働きたいですか?」とか「いつから働きますか」という質問だと、その人の能力や学歴といった要素が絡んできてしまいますが、「働くってなんだろう?」という問いなら、誰でも話せるんです。
役には立たないでしょうね…。だけど、哲学って、人を「自由」にしてくれると思います。私たちは、身体的・物理的には、不自由な存在です。日本からすぐ出られないし、パッと宇宙にも行けない。刑務所に入ったら、なかなか出てこられない。唯一人間が自由であれるのは、「思考」の領域だと思っています。
考えることで、私たちは自由を感じることができる。いくら身体的に、私が私であることや、自分の名前を持っているってことが制約されていたとしても、私が何を考えるか、何を大切だと思うかは、どこまでも自由です。
http://neutmagazine.com/reina-tashiro-philosophy
哲学の役割は、きっと、自分や他者から逃げようとする人を「おい待て」と追いかけ、世界を直視させることだ。「おい待て」だけじゃなくて「わたしもわからないから一緒に考えよう」と呼びかけ、敵でなくどこまでも仲間になろうとする。この、呼びかけること、そして相手とわかりあおうとすることは、海に手紙を流すようなことかもしれない。けどそれは、“自由になること”だと思う。
そうだ、哲学はひとを自由にするんだ。ラーメンしか知らずに毎日ラーメンをすすっていたOLが蕎麦やうどんやパスタやカツ丼を知れば明日からのランチがもっと自由になるように、他者の思想と出会い理由を共有することは、わたしたちのONLYラーメン人生へのおさらばを意味する。