2021/04/21-2021/04/30
メールという形式に促される、メールという形式をはぎ取る
普段メールを書くときは、メールソフトを前景させ、相手の直近メールの“返信”をまず立ち上げる。立ち上げてから考える。
推敲したいときは、いったん宛先を自分のみにすることもあるが
そんで、「○○さん(改行)お疲れさまです。」と打ってしまう。その後のほうが、つられるようにして、話さないといけないことが出てきやすい。
まあ、本文の下に、ここまでのやり取りの引用が表示されてくれることもあるが、
脳の中の「語りかけモード」にスイッチが入ってくれることが大きい。
これは、メモ帳アプリや紙のノートに下書きをしていると効率が上がらない
その一方で
クレームのような、怒られる処理をするときには、
一度相手のメール本文をコピーしてアウトライナーに貼り付け、
文章を情報単位に分解して、対応の必要な行を覚えておくだけでいい行と分け、それぞれの課題ごとに、対応や文案を書き足して、枝としてぶら下げる。
……というような行動をすることを前提に、「開いて、コピーして、貼り付ける」だけをする。
感情を、情報や思考からはぎとる。
行動を感情から切り離す
自分の感情を、外界から切り離す
感情を、直接浴びない・浸らないという約束をする。
inboxはみやづとめ
嫁という
ワクチンは買えるか
こどもの
替え歌
×くさす
機能で遊ぶ
×政治について語る
×とりあえずぐちゃぐちゃなものにしてみる
私は男だが、自分の性的な肉体変化は、やっぱり気分悪かったのは覚えている。
別に大人になりたくなかったわけではないけど、単純に求められてないじゃん、毛とか。
ここまで読んで「自分はADHDじゃないけど、別にそんな静寂を生きているわけじゃないぞ」「ものを考えているのは私だけ、みたいな言い方するな」と思った人もいるかもしれませんね。
もちろん、私はADHDの脳みそはそうでない人よりもよくものを考えると言いたいのではありません。障害者が健常者の世界を体験したという話でもありません。薬によってADHDの特性が抑制されたときに、私の脳で何が起きたかについて書いているのです。
その結果、今までよくわからなかった友人たちの言葉が少しわかったような気がした、ということ。たった一つの脳みそしか知らないから、私はいまだに他の人の頭の中で起きていることがまるでわかりません。私たちの脳はみんな、孤独なのです。薬を飲んだ経験は私にとって、まるで他の人の頭の中に入り込んだような新鮮な発見でした。
⇒全体の文字数の中で、外野のツッコミへの防衛っぽい箇所ではあるけど、ここが格好よく思えもするし、メタ的な深みを作る結果にもなってるのはうまいなあ。
肉を食べたいコンテクストと、野菜を食べないといけないというコンテクストの衝突をどうちょうていするかのノウハウはGTDにあるか?
ビュッフェを、どれくらい盛って失敗したか、どれくらい残したのかの写真が残らないと
プロダクトを作るかラボに入るか
元の記事を再利用可能なように変えてしまうと、前の良さがなくなってしまう
アトム化するとは
手が出ていること
すでに分子になっていてはいけない
先日ママ友と話していたら、その人が「私の嫌いな友達がさあ」という言葉で、ある人のちょっとしたグチをこぼし始めました。
最初は普通のこととして聞き流した「嫌いな友達」という言葉、字面で考えると、なんだかすごい違和感。
「嫌いな好物」「綺麗な汚物」くらいの違和感があるのに、なんでこんなにも、しっくりと馴染んでしまうんでしょう。
高い社交性ゆえの複雑な友人関係
でもこれは単に、女性の方が社交性が高い人が多い、ということを示しているのではないでしょうか。
好きかどうかは別にして、とりあえず、仲良しの輪を広げる。その中で、好きな人がいれば特に仲良くする。
しかしながら、なかなか回りくどい名前です。役割的にはカレンダーと似たようなものなんだから、カレンダーと呼んでおけばいいじゃん、という気がしますが、ここではすこし減速しておきましょう。
たしかにそのノートは、ほとんどカレンダーです。というか、カレンダーとして作成されているものを使うのがもっとも簡単な「作り方」ではあるでしょう。しかし本レッスンでは、そのようなアプローチを取りませんでした。なぜか。
⇒まあ、inbox経由しないではじめからカレンダーページをひらけるような脳にならないと、疲れてしょうがない部分はある。
⇒「予定管理ページ」とかかね。
なぜ規制が緩いのか?それは「たかが子ども文化じゃないか」で済まされてきたから。日本はもともと子どもに甘い文化土壌で、そこに敗戦が加わって「おとな」が消えてしまった。これがおたく文化を育んだ。そこを暴くのは二次創作ではなく研究と呼ぶ。
この「灰とダイヤモンド」体験、つまりそれまでダイヤモンドのように輝いていたアイデンティティが一夜にして灰になる空しさを出発点にしているのです。
もう二度とそうしたイリュージョン(錯覚) にだまされ裏切られることはごめんだ。
ささやかでもよいから自分一人の小さな自己愛を大切にして暮らしたい。
「愛さない」がキーワードとなったわけです。配偶者を愛すれば配偶者にいいように扱われ、会社を愛すれば会社に搾取され、国家を愛すれば灰にされて捨てられるというわけです。
⇒これは戦勝国もそうだったのかな。「努力したら勝てた、努力が実った」という体験にならなかったのかな。
占領統治教育のせいということでもなく。
⇒
ある意味、「信じれば裏切られる」というのは当然の事実なんだよな。宝くじみたいなもので、上乗せする「やる気」に対して、見返りとして期待する「夢」が巨大すぎるから、確率としては外れる目が大きくなる。
⇒これはどこかで知っていて、ちゃんと「期待をかける」ことをしないとやる気は出ないことを。だから頭のどこかで、自我がスポ根。スポーツ漫画 この本のなかでもとくに批判の対象となっているのは、ドナルド・トランプの前の大統領であるバラク・オバマであり、また大統領選でトランプと対峙したヒラリー・クリントンである。たしかに、彼や彼女の発言のなかには、サンデルが指摘するような「驕り」が滲み出ていることがある。たとえば、ヒラリーは大統領選でトランプ支持者たちを「みじめな人たち」と呼ばわったことで反感を買った*2。また、オバマもペンシルバニアの人々を「銃や宗教にすがる、田舎町の人たち」と表現したことで批判された*3。
アメリカの知的エリートは人種的マイノリティや性的マイノリティには同情的で寛容であり、彼らの権利を尊重したり彼女らを傷付けないように配慮した言葉を用いたりするが、労働者階級の白人のことはためらいもなくバカにする。フィクションのなかでも、労働者階級の父親は道化としての役割が与えられていることが大半であるし(サンデルは『ザ・シンプソンズ』のホーマー・シンプソンを例に挙げている)、中西部の田舎町などが映画に登場する際には「まともな人間がいてはいけない場所」や「脱出すべき場所」として描かれていることが多い*4。
リンクがある場合、私たちには選択肢がある。それと共に機会費用も発生する。その機会費用も脳は暗黙に計算して、リンク先にジャンプしたり、しなかったりする。
知識をつなぐことはそう容易い作業ではない。そして、「結論と前提を結びつけて論証を作ることは、ある種の知識」と言える。
逆に言えば、その文脈的関係性を説明することが、知識をつなげることを意味する。
バックリンクは、知識をつなげることには貢献しにくい側面がある。リンクがあるだけでは、そのリンク先のページが、このページとどのような文脈的関係性を持っているのかが把握できないから。
特に理由もなくリンクを踏んで回ることは、生産的な行為とは言えない。
"「エモい文章」が世間に求められていた"が真だとして、その理由を問う必要はないだろうか。仮にそれを「彼らが愚民だから」といった答えで返していたのでは、何も動かないだろう。
言い換えれば、「エモい文章」に何かしらの必要性があるのならば、その必要性に切り込まない限り、「すべきでない」と論じたところで実質的な意味を持たないだろう。
そしてもし、その「必要性」がより根深いところに位置しているならば、「エモい文章」はその表出の一つのパターンであり、それを撃退したところで、別の表出が生まれてくるだけである。