自分にとっての「日記」を振り返る
自分にとっての「日記」を振り返る
うちあわせCastでは、“得する、役立つ” ことをしようとする流れのなかで、感情を伴わせない記録がずっともてはやされてきたけど、感情も含めて書くことが実は大事で、だから見直されてきてるんじゃないのか、という大筋だと思う。
一応、これについては
完全に感情だけだと、読み直したときに、かえってなんのことか分からなくなるので、ある程度のキーワードや状況説明は残ってないとダメだよね
絶えず感情の奔流に翻弄されていた人間からすると、文字数ばかり多くなるわりには、検索や抽出がまったくきかなくなりそう
みたいなことは思う。
まあでも、継続的なフリーライティングのことを、現代では便宜上、「日記」と呼ぶんだよってことで私もいいと思う。
めほりのライフハックPodcastでは、
日々、行動で忙しいだけだと、根本のところにある欲望や葛藤は意識の上に出てこないから、
そこは、(比喩的な意味での)白い紙と相対しないといけない
というメッセージがあった。
私の場合、過去に1番「日記日記」言ってた頃に思っていたのは、
認知療法の「5カラム法」のようなやり方で、感情の奔流を、いったん遊水池に流すというイメージだった。DMZ。 当時は毎日一日中、強すぎるアラームが鳴っている感じだった。全てに対して鳴っているような。 今でも要所要所でそれは鳴り、他のことが手に付かなくなる感覚はあるけど、それでもあの頃に比べたら平均すると楽になっているのだと思う。
たぶん、一回目の緊急事態宣言のさなかですら、かなり楽になっていたのではないかと、自分を振り返ると思う。
だから、根本のところで、「日記」という手法や概念に、私は恩義のようなものを感じているのた。たとえ今散発的にしか「書き出し」的なことをやっていなくなったのだとしても。日記への恩義