外的認知リソース
人間はさまざまなリソースを用いて、ゆらぎながら知性を生み出していると述べてきた。これまで取り上げたリソースは、経験から得られ、個体の中に蓄積されたもの、つまり頭の中にあるものだけだった。しかし、リソースはそれだけではない。状況、環境、世界もリソースとなる。この節では、世界が提供するリソースをいくつかの研究例を通して論じてみたい。
最も極端な話から始めてみよう。まず、世界は答えを見せてくれる場合がある。お風呂を沸かしているとする。もう火を止めるべきか、水で埋めるべきか、もっと沸かし続けるべきか、判断をしなければならない。この時、沸かし始めの水温、火力、風呂の容積、沸かしている時間から計算して決める人はいない。ふつうは手をお湯に入れて水温を確かめて、前の行為の中の何をすべきかを選択するだろう。つまり、やるべきことを世界が見せてくれる。
サブサンプション・アーキテクチャ
このような観点をダイレクトに取り込んだのが、ブルックスというロボット科学者である。コンピュータと結びついた視覚センサーからの情報を計算して世界の地図を作りつつ、自分の位置関係を推測して動くという形で設計されたロボットは、日常生活空間の中ではほとんど役に立たない。これに業を煮やしたブルックス( 80) は、頭の中の地図なしで、その場その場の物理的刺激によってリアクティブに運動を生成するモジュール(層)をいくつか重ねるという方法を考案した(これはサブサンプション・アーキテクチャと呼ばれている)。この設計方法によって、それまでのロボットでは不可能だった適応的な動きが、実時空間の中でできるロボットが生み出されることになった。これにはいろいろな批判もあるのだが、世界から得られる情報をガイドに、体を動かすことの重要性が広く認識されることになった。
演繹推論における図の効果
演繹推論(PならばQ)も、きちんと理解させようとすると難しいのだが、図にしてみれば一目瞭然である。
Qを表す円を描き、その中にPを表す円を描く( 図7-1)。これが「PならばQ」を示している。これを見れば、Pの中に含まれるもの(★)は必然的にQに含まれていることがわかる(前件肯定式)。そして、Qでないもの、つまりQの円の外側にあるもの(▲)は絶対にPにならないことも、見ただけで考えずにわかってしまう。さらに、逆もまた真(QならばP)ということがなぜ成り立たないことがあるのかも、前件の否定(Pでない)が後件の否定(Qでない)につながらないことも、この 図7-1 一つで全部わかる。
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ミカン問題とジュース問題
この図のaのように、最初は左の皿に大中小三つのミカンが置かれている。これをbのようにしたい。ただし、 ① 一度に一つのミカンしかつかんではならない ② 複数のミカンがある時には、その中で最も大きなミカンのみが移動できる ③ 移動しようとするミカンは、移動先の皿にあるミカンよりも大きくなければならない という三つのルールを守らなければならない。もちろん、皿以外の場所にミカンを置いてはならない。
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この図のaのように最初は左の皿にジュースの入った大中小三つのグラスが重ねられている。これをbのようにしたい。ただし、 ① 一度に一つのグラスしかつかんではならない ② 複数のグラスがある時には、その中で最も大きなグラスのみが移動できる ③ 移動しようとするグラスは移動先の皿にあるグラスよりも大きくなければならない という三つのルールを守らなければならない。もちろん、皿以外の場所にグラスを置いてはならない。
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これらの問題は同じ問題空間を持つ問題、つまり同型問題である。大人ならば頑張ればこれらを二つとも解決できる。ただ、どちらか一方を選んで解いてくださいと言われれば、多くの人はジュースの問題を選ぶだろう。この直感は正しい。実際に実験を行うと、ミカン問題の解決時間はジュース問題の二倍にもなる(83)。
どうしてそのようになるのかを考えてみよう。この二つの問題では、
・何が動かせるか
・どこに動かせるか
という二つの決定を行わなければならない。
ミカン問題ではルールさえなければどのミカンでも移動できるし、それらをどこにでも置くことができる。しかし、ルールがあるので特定のものしか動かせない。たとえば最初の一手目を考えてみると、動かせるのは大きなミカンだけだが、それはルール②があるからそうなのであって、物理的にはどれでも動かせる。また、仮に一手目で大きなミカンを右の皿に動かし、次に中サイズのミカンを動かす場面を考えてみよう。この中サイズのミカンは物理的には真ん中の皿にも、右の皿にも置ける。しかし、ルール③によって右の皿には置けないことがわかる。このようにどこに、何を、の決定の際にいちいちルールを思い出す必要がある。
一方、ジュース問題のほうは、多くの場合においてどれが動かせるか、どこに動かせるかは見ればわかるのである。最初は大きなグラスしか動かせないし、二手目でグラスが右にある場合に中サイズのグラスを右に置こうとしても、それではジュースが溢れてしまうので、できないことがわかる。つまり、どこに何を、の決定を行う際に、ルールを思い出す必要がないのである。別の言い方をすると、世界がパズルのルールを記憶してくれているということになる。
このように、問題のルールのようなものも世界の中に埋め込んで、世界に記憶させてしまうことができる。そうすることにより、記憶を維持するための努力が不要になる。その結果、そこでの認知的なエネルギーを探索や推論などの別の処理に向けることができるようになり、問題解決が促進されるわけである。
テトリスのピースマッチ計算を世界にさせる
世界が見せてくれたり記憶してくれたりするおかげで、私たちの取り組む問題自体も変わってくる。
カーシュとマグリオという研究者たちは、テトリスというゲームを使ってこのことをみごとな形で示している(84)。
はじめピースはゆっくりと落ちてくるが、ゲームの後半になると非常に速く落ちてくるようになる。
そういうことなので、後半では落ちてくるピースを何回回転させて、どこに落とすかを瞬時に判断しなければならない。これに熟達した人は、素人からは信じられないほど手際よくピースを回転、移動させて得点を重ねていく。こうした熟達者は機械のように正確で、無駄な動きをせずにゲームを行っているのだろうか。実はそうではない。彼らは無駄な回転をさせたり、必要のない移動をよく行うらしいのだ。
なぜだろう、何の目的があってそんなことをするのだろうか。それはピースを実際に回転させれば、落ちてくるピースがどの部分にマッチするかは見ればわかってしまうからである。これはだいたい〇・一秒程度でできるらしい。一方、頭の中で仮想的にそのピースを回転させれば、だいたい一秒程度かかるらしい。こんなことをしていれば、ゲームの終盤ではあっという間にピースが上まで積み上がり、ゲームオーバーになってしまう。
つまり、余計に見える回転は、頭の中で回転(メンタル・ローテーションと呼ばれる)させるという負荷の高い課題を、視覚的なマッチング課題に変化させているのである。カーシュらはこのように課題の性質を変化させる行為のことを、認識的行為と呼んでいる。これは、実際に問題を解くことを前進させるのではなく、前進しやすいように行う予備作業と考えることができる。
このように、世界はとてもだいじなリソースとなっている。だから私たちは、頻繁に世界とのやりとりを行いながら思考を進めている。白水( 85) らの研究で用いられた題材を通してこれを考えてみよう。目の前に折り紙が置かれている。課題はこの折り紙の四分の三の三分の二に斜線を引くことである。四分の三の三分の二は3/4×2/3で計算できるわけであり、結果は二分の一となる。だから半分に折って、片側に斜線を引けばよい。しかし、そうする人はほとんどいない。大半の人は実際に折り紙を折り始める。また解き方も面白い。折ってみて、そこからまた考え始めて、また折ったり、最初に戻って別の折り方をしたりを繰り返す。
こうした人間の行動はある意味当たり前のように思えるかもしれないが、外化という、認知にとって非常にだいじなことを見せてくれている。外化とは、私たちの認知プロセスの途中で生み出される処理結果を、外の世界に何らかの形で表すことを指す。
ここでの折り紙の実験で言えば、実際に紙を折ってみるということである。他にも話してみる、図や略図を書いてみる、手や身体を動かしてみるなど、これらはすべて外化である。外化を行うことにより、それ以前とは世界が変わり、異なる情報を知覚することになる。すると外化前とは異なるリソースが活性化し、別の認知プロセスが走り出す。すると別のプロダクトが生み出される。それを外化すると、また同じサイクルが回る。つまり、思考と環境が掛け合い漫才のようなやり取り、インタープレイを行うようになるのである。
認知システムは環境との相互作用を前提としている
私たちの内部の処理システムは助けになる世界を前提として設計されている可能性もある。
特に知覚の場合はその可能性が高い。外界は基本的に安定していて、手品師とか、コンピュータ仕掛けの巧妙な装置がない限り、そんなに突然に変化することなどない。そして、首を少し回す、眼球を少し移動させるというコストほぼゼロの活動によって、外界の最新の情報を参照できる。だとすれば、いろいろなことを頭に入れておく必要はない。頻繁な参照をプログラムに組み込んでおけばよいということになる。
このアイディアはチェンジ・ブラインドネスで見た表象のはかなさ、もろさがなぜなのかを説明してくれる。また、前に紹介したブルックスのロボット設計の原理と一致する。さらに言えば、第4節で取り上げた俵さんの創作過程でも生じていたことではないだろうか。途中のものを一度外に出し、詠んでみることで、音の響き、語呂のよさなどを判断し、またそれが次のアイディアの想起を促すことが繰り返されていたように思える。認知のシステムには世界が織り込みずみなのかもしれない。
関連 #コンテキスト 達人が認知した世界を言葉に織り込む パタンランゲージ 論文
(83), Zhang, J. J., & Norman, D. A. (1994). Representations in distributed cognitive tasks.
(84), Kirsh, D., & Maglio, P. (1994). On distinguishing epistemic from pragmatic action.
(85), Shirouzu, H., Miyake, N., & Masukawa, H. (2002). Cognitively active externalization for situated reflection
出典