しばらくSNSへの直接投稿を控えてた
しばらくSNSへの直接投稿を控えてた。何か言いたいことあってもScrapboxにメモして、あとでその内容を各SNSにリンクを投稿するという運用にしてみた。結果いろいろ発見があった。
まず一番の発見はMastodon以外のSNSはアルゴリズムによってフィードをソートしてるので外部リンクの評価はとにかく低く、誰のフィードにも表示されなくなってるのだろう。反応が日に日になくなっていったことだった。
「いいねしてくれた人の投稿を優先して表示する」とか「いいねをたくさんもらってる人の投稿を優先して表示する」ってルールなので、ほぼほぼこちらもSNSを閲覧せずいいねもせずにいると、いくらリンクを貼ってもほぼほぼ反応はなくなる。
このことからまたわかるのはほとんどの人はフォローでタイムラインなどみておらず、基本的にはレコメンドのタイムラインを見ているってことだ。
多くの人は「リンク先に飛ぶ」なんてこともほとんどしていない。Scrapboxはいいねやスキなどの報酬系強化機能は一切ないが、ページが読み込まれた回数だけは捕捉できるのだが、まあほんとみんな基本「情報はSNSの中だけで完結させる」スタイルなのだなと。実際自分もリンク先の記事に飛んだことがあったが、広告が多いし、釣り記事も多いし、有料記事ばかりになったので、ほぼほぼ飛ぶ意味はないなと思っていた。(元記事よりもSNSで流れてくる要約のほうが質が高い参照)
こんな風にわかりにくくしても、ファンというか「森さんはおもしろい」と思ってる人は黙って見ており、「だいたいこの人はこれを読んでくれそう」と思った通りにはなってる。それ以外の人たちはだいたいが要するに流れで反応してるだけで、いいねも拡散もほぼ誤タップなんだなと。
SNSを離れてみると、どんどんそこでの話がどーーでもよくなってきたし、そこて述べられる意見の極端な面や粗雑な点がやたら気になるようになってきた。「みんな無茶苦茶言うとるな……」「一方的やな」「それ言うたらこんな反論されて困るんやけど」ってことをまるで一切疑問も感じずに断定するような極端な主張ばかりがウケてる。
意見としてウケがいいのは、つまりいいねやリポストが稼げるのは、具体的な時事ネタについて、主に「人権的観点」「反差別的観点」からの「安全め」の投稿で。自分としては百人一首の解説とかすごくおもしろいと思ってるんだけど、まずこの手の投稿は見られない(本当にほとんど読まれていない)。誰かを倫理的に非難批判する内容ばかり注目されるのに、何が美しいか、何がおもろいのか。そんなことには興味もない人たちがある種のSNSでは非常に多く、独善的に屯してんだなと思うようになった。
SNSでのいいねや拡散が得られないことは、最初はやはり多少気になったが、少しすると「なぜそんなものを喜んでるのか」「意味ないじゃん」って気持ちになった。ゲームをしている間はそのゲーム内でのランクや、獲得アイテム、実績解除や獲得経験値、レベルが気になるがやらなくなれば「だから何なんだ」である。それとまったく同じで、Mastodon含めSNSは人間の報酬系をハックしてるだけなんだなと痛感した。すごく偉そうにあれこれ言ってるんだけど、その実、ただの報酬系中毒。報酬系やフォロー関係にある他のアカウントから「切られない」ことにものすごく影響受けて、自分のオピニオンがみんな明らかに変質してるのだけど、そんなことにも気づいてない人たちが偉そうに民主主義とか語っても……。
一生懸命、しかもすごくいい内容書いたのにほとんど誰にも読まれてなかったりして最初はそんなことも若干気にはなったがすぐにどうでもよくなった。自分がよく書けた、いいこと書いたと思った投稿は、あとから「森さんあの投稿おもしろかった」と直接言ってもらえたりするので。そういうことを言ってきてくれる人というのはぼくから見ても非常におもしろい人で、理解力も高く「よくわかってる」と思う人で。要はおもろいこと書いてもおもんない人にはそれがおもろいとはわかんないので反応ないし、おもしろい人はおもしろいことがわかるので反応してくれるし、めちゃくちゃまともな反応の総体が得られるようになったので、これのほうがいいじゃん、と思うようになった。何もわかってない人から、ほぼ惰性で「いいね」とかもらってもまるで意味ないし、というかそうなったら「失敗だった」くらいに思うようになった。
反応をもらえたり読んでもらえるような工夫、コツもしばらくするとわかってきた。当たり前だけど、単にリンクをのせるよりも、説明とともにのせるとアクセスはしてもらえる。「これがどうおもしろいか」「どう読むのがマストなのか」。たぶんだけどより高圧的というか権威的に書いたほうがみんなアクセスはすると思う。
でも、マジでそんなことがどうでもよくなったというか、「わざわざアクセスしにくくしたりわかりにくくする必要はないけれど、めいっぱいわかりやすく説明してるのにそれでも理解しなかったり、おもしろさに気付けない人にまで無理に届ける意味はないなと。そういう人は「ほれここ!」と指でさしてもう指のほうを見るだろうから。リンクはそこにあって、フォローすれば更新にも気づく。そこまでしてそれでも見ない人には何を見せても無駄だろうなと。(伝わらないように伝える参照)
あとみんなXのことを悪く言うけれど、一番コンテンツがまともなのはXだと思った。あれはインターネットの都会なのよ。そこここにホストの看板が飾ってて「女性の客引きによる詐欺に注意しましょう」という音声放送が流れる前を「もっと稼ぎたい!お金大好き!」高額バイト募集」のアドトラックが走ってる状態。これだけ見るとなんて終わってるんだと思うが、老舗の大型書店もあればヴィーガンレストランもある。そういうことなんだと思う。それに比べるとMastodonは田舎の地方都市。かろうじてイオンモールはあるがって感じ。
インターネットとオフラインの大きな違いは、都会から田舎へ一瞬で行けてしまうところ。リアルで都市部から田舎へ行こうとしたらどうしても移動時間がかかってしまうが、インターネットなら「田舎行き」のボタンがあるのでそれをタップするだけ。でも誰もほとんど移動しない。どうしてるかっていうと、タップしてから移動するまでに数秒間の遅延をもうけるだけ。それだけでみんな「ここ」にいてくれる。何より目の前で毎日「祭り」が行われている。ちょうど今、燃やされるべき生贄が燃やされていたり、燃やされるべきなのに生贄が燃やされてないことに憤って燃やそう叫んでる人たちがいる。そっちに目を奪われるので誰も他所には行かないってだけ。
あと、SNSは蓄積性や再利用可能性が全然ない、しにくいとも痛感。すごくいい投稿、ひっかかる投稿があったのでシェアしたりいいねしたり、ブックマークしたりして、自分もそこで思ったことをコメントしたとして。それはいいねされたりするんだけど、まったく覚えてなかったり、あとで検索で非常に見つけにくかったり。しかも、最近ではX、Mastodon、ThreadsなどSNS自体が「分散」してるのでどこに何書いたか忘れる。そこで逆にした。気になる投稿があったら、ぜんぶScrapboxにまとめる。それに対する自分のリアクションもそこに書いておく。そのリンクを(見せたいなら)各種SNSに投稿する。こうするとScrapboxに自分の過去の知見もたまっていくし、それらがキーワードによって相互にリンクされるから、特定のキーワードに関する素材がたまっていく。そうするとそのトピックに対する自分の思考の矛盾点が見えるし、構造化されるようになる。Scrapboxと同じ会社が提供しているGyazoってサービスもとにかくOCRがたいへん優秀で。すべて画像としていったんアップしてしまえば引用もしやすい。
ちょっとおもしろいなと思ったのは、SNSから距離を取れば取るほど自分の考えが右傾化していったということ。「右」って言葉を使えばそれだけで顔を顰めるのが昨今の教養のない「左」の方たちだと思うが、そういう「左」の方たちの明らかに不正解なあれこれが気になってきたので、そこからは距離をどんどん置くようになってしまったってことかな。SNSしないとしてる人たちの極端が極端に感じられる、つまりこれが「自分たち」が外から見えていた姿でもある。本当に世界を変えたいなら、そういう人たちから自分たちがどう見えていたのか、視点の移動も必要だと思うけど、どこまでいっても(しょうもない)「自分」しかない人にはそんなこと無理だろうね。私は天皇制に反対だから保守とも言えないが、保守に一定の合理性を認める知的素養すらない「左」が愚かすぎるとわかるくらいには右な左である。
『ハンナ・アーレント(映画)』を見たんだけど、そこでアーレントはユダヤ人指導部のホロコーストへの関与にも触れたことから、ユダヤ人コミュニティからボロクソに批判され、友人の多くから絶縁されるんだよね。今のSNSなんかもそうでしょ。事実としてこうだということを言ってもそれが少しでも「仲間」に不利に「見えた」なら、お前はヘイター、差別者だっていう。映画でアーレントもユダヤ人から「ナチ」とか「ドイツ人」と呼ばれてた。コミュニティに埋没して「思考」するとは、そのコミュニティのドグマを否定できないってことなんだけど、他方で独りで「思考」すると、師匠のハイデガーのようになる危険性がある(ナチへの関与)。どこでバランスを取るかってすごく難しい。