ハンナ・アーレント(映画)
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「まさに今」見るべき映画だろう。①当事者の感情を害することがわかっている(もしくは強く予見される)見解でも発表されるべきか。②友人からの承認や尊敬を失ってでも自分が思うことを語る真摯さと、自分にとって正しいと思われる考えに固執して他者の声を聞き入れられない頑固さの間で、人はいかにしてバランスを取るべきか。永井均の「トランスヘイト論文擁護」問題が話題になる現在。SNSの相互承認ゲームによるエコーチェンバーが指摘されている中。イスラエルがパレスチナを侵略し住民を虐殺している今。この作品を見ることには大きな意味があるはずだ。 ご存知の通り、ハンナ・アーレントはドイツ出身、アメリカに亡命したユダヤ人の哲学者で『人間の条件』『全体主義の起源』『革命について』といった著書で知られる。ハイデガーの教え子でもあり既婚者の彼と不倫関係にもあった。そんな彼女は1961年から、ユダヤ人虐殺に関与したアイヒマンの裁判を傍聴する。そしてその傍聴の報告を雑誌『ザ・ニューヨーカー』に発表する。......のだが、「アイヒマンは根源的な悪」ではなく「凡庸な悪」であるとの主張や、ユダヤ人ゲットーの評議会指導者のホロコーストへの関与を主張したため、主にユダヤ人のコミュニティから大量の非難を受け、アーレントはユダヤ人の友人のほとんどを失ったとされる。 本作はアイヒマン裁判時を現在として描写する。途中、要所要所でハイデガーとの「学生時代」のハンナが描かれ、また一箇所、中年となったハンナがハイデガーと再会する回想シーンがある。アイヒマン役の役者はおらず、裁判部分はすべて実際の裁判の動画だ。視聴者は実物のアイヒマンを映像で見て、ハンナの分析がはたして正しいのか、自分で判断しなければならない。
ホロコーストへの関与を問われても、命令だからやった、それだけだ、自分は完全にただの一役人でしかないと主張するとともに、裁判中に「私は焼かれる肉の気分です」と自分の苦境を訴えるアイヒマン。「虐殺は避けられない運命ではなく人間の行動が招いたものだと?」と聞かれると「そのとおりです」「なにしろ戦時中の混乱期でしたから」「皆思いました」「”上に逆らったって状況は変わらない”」「"抵抗したところでどうせ成功しない!"と」「仕方なかったんです」「そういう時代でした」「皆そんな世界観で教育されていたんです」(0:38:03)と言う。
それを聞いてアイヒマンが反ユダヤではないと主張するハンナ。「聞いたでしょ。彼は法律に従っただけ」「興味深くない?」「彼は殺人機関の命令を遂行したわ」「しかも自分の任務について熱心に語ってた」「でもユダヤ人に憎悪はないと主張してるの」「想像を絶する残虐行為とーー彼の平凡さは同列に語れないの」(0:39:12)。
ハンナはアイヒマンの行為を許しはしないがアイヒマンという人間の「理解」に徹底して努める(「理解を試みるのと許しは別です」(1:41:15))。役人としては職務に忠実で極めて優秀。つまりバカではない。しかしアイヒマンには何かが欠落している。ハンナが出した結論は、アイヒマンは「バカではないが思考がない」である。 では「思考」とは何か。それがこの映画の最大のテーマになっている。
若いハンナの回想シーンでハイデガーは言う。 「アーレントさん」「考えるということを学びたいそうだね」「”思考”というのは孤独な作業だ」(48:51)と。孤独でなければ人はすぐに他人からの評価や同意、承認に影響されてしまうだろう。それでは「正しい」主張にではなく、最も声が大きい、最も賛同者が多い主張に従っているだけになりかねない。 思考とは孤独な作業だ。確かに。他方、孤独であるということは、寄りかかり先がどこまでいっても「自分しかいない」ということでもある。その自分が間違っていたらどうなるのだろうか。自分の認識的な限界に自分で気づくことはできるのか? あらかじめ特定の他者を排除しおえて成立しているもの。それが「自分」ではないのか。
実際、思考という孤独な営みでは右に出るものはいないはずの哲学者、思考の巨人であるハイデガーこそ、ナチスに加担をした哲学者なのである。中年になったハンナはハイデガーと再会する。「君の手紙は悲しかった」「あんな中傷を信じるとはな」とハイデガー。それに対してハンナは言う。「学長就任演説にはめまいがしたわ」「”思考”を教わった恩師があんな愚かなことを」「ここに来たのは理解するためよ」(1:16:54)。
「バカではないが思考がない」。それこそがアイヒマンを決定づけるものであり、その結果、アイヒマンはナチスに加担した。そうハンナは考えた。ところが、自分の思考の師匠であるハイデガーもナチスに加担している。ハイデガーは思考をしていなかった、もしくは不十分だったのか。それとも、思考をしていてもナチスに加担するような「あんな愚かなことを」してしまうと言ったほうがいいのだろうか。思考は無力なのだろうか。無力でない思考とは。
ハンナの答えは思考とは「自分と自分自身」(me and myself)との対話だ、というものである。孤独でなければ思考はできない(他者からの承認に影響されてはならない)。他方でそこに「自分」しかいなければ、どこまでいっても自分で自分を肯定するだけになってしまう。対話すること。自分一人で、自分と自分ではない自分とで。そこから生まれるのが思考なのだと。
「”思考の風”がもたらすのは」「知識ではありません」「善悪を区別する能力であり」「美醜を見分ける力です」「私が望むのは」「考えることで人間が強くなることです」「危機的状況にあっても考え抜くことでーー」「破滅に至らぬよう」(1:42:19)。講義が終わるとハンナは学生から大きな拍手をもって迎えられる(呆れて退室する学生もいる)。でも、それを聞いていた友人のハンスは言う。「期待してたんだ」「君に分別が残ってることをね」「だが君は変わってない」「ハンナ」「君は傲慢な人だ」「ユダヤのことを何も分かってない」「だから裁判も哲学論文にしてしまう」「我々を見下す傲慢なドイツ人と同じだ」(1:43:57)。
ハイデガーを非難しナチスへの加担を責めたハンナが、今では「お前はナチスだ」「地獄に堕ちろ」と非難され、ハイデガーに絶縁をつきつけたハンナが今度はユダヤの友人から絶縁をつきつけられる。時代は変わる。 この「裁判も哲学論文にしてしまう」という非難はまさに永井均の「トランスヘイト論文擁護」問題でも永井や谷口が言われていたことだろう。生身の生きている当事者たちがいる。その人たちの実存や生存を無視して、自分たちの論文のネタになればそれでいいのかと。 また、ドイツから亡命してきたユダヤ人であるハンナに対し「傲慢なドイツ人と同じだ」と言うのは、これまた「一当事者として関心がある」と言った永井均をトランスヘイター呼ばわりしているのと相似している。(永井均の性的アイデンティティについて自分はまったく知らないが、結婚していたり、ジェンダーエクスプレッションが男性に見えるからといって他者が性的アイデンティティやセクシャリティを決めつけていいことにはならない。ハートストッパー(Netflixドラマ)でのキット・コナーのアウティング問題参照) アーレントの原稿の読み合わせをするザ・ニューヨーカーの編集者たちだが、原稿の冒頭たった10ページだけで議論が紛糾する。中でも女性の編集者は「これは挑発」だと指摘。公表に反対するが、実際この原稿が公開されることによって、多くの人が怒り、傷つき、悲しみに暮れることになる。
著者もダメージを負う。「”ユダヤ人居住地には指導者がいた”」「”彼らはほぼ例外なくーー”」「”何らかの形でナチに協力していた”」(1:08:18)。こうした主張は、ユダヤ人虐殺の事実を矮小化し、加害者に擁護の隙を与え、炎上商法でセンセーションを巻き起こしたいだけの悪質な中立的所作だと言われかねない。そして実際にアーレントはこの原稿が世に出ることによって多くの友人を失う。事前にそのリスクを指摘するここでの編集者はさすがにプロだが、ではアーレントのこの原稿ですら批判され否定される機会自体を奪われるべきだったのか。
映画ではシオニストのジークフリートがやってきてアーレントに最後通牒をつきつける。「あの本を出版するな」「あなたも同胞だろ」「なのにあんなウソの本を?」「イスラエルでは出版不可能だ」「あなたに良識があれば本は出さないはず」。それに対してハンナは言う。「出版の弾圧?」「それで良識を語るの?」「警告?”脅迫”でしょ」(1:25:00)。 果たしてこれは警告なのか、脅迫なのか。出版の弾圧なのか。マイノリティに関するウソの流布なのか。「これは事実ではなく解釈だ」というザ・ニューヨーカーの編集長に対し「事実よ」と返すハンナ。事実であるか解釈であるかの線引き自体が解釈によって異なるという事実をわれわれはどう考えるべきか。 パレスチナに関する投稿や、情報提供しているインフルエンサーが、FacebookやX(旧:Twitter)ではフォローできなくなっていたりシャドーバンされているという話もあった。どんな表現であれ、いかなるケースでも許されるわけではない。かといって、誤った信念だからと言って、あるいは、当事者を生きづらくする可能性があるからといって、それだけで世に出されること自体止められるべきなのだろうか。パレスチナに関する情報を制限したのも「当事者」を考慮した結果かもしれないのだ。
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以下、その他に気になったこと。
「職務に忠実」という点でハンナはアイヒマンと似ている
どれだけ仕事に熱中していても毎日キスしてからでないと夫の出勤を許さない。それくらい愛する夫が病気で倒れたとの報を受けても大変心配しながらも「学生が待ってる」「ダメ 講義中なの」といって講義を続けるアーレントは、どこか冷たく「職務に忠実」で「職業家としては大変有能」な人に見える。
アメリカやイスラエルに関する描写
大学で講義をするハンナ。「先生は収容されたことがあるのですか?」と学生から質問。拘留キャンプにいた、当時フランスはドイツに占領されていた、ビザで夫とアメリカに逃げてきたと答える。アメリカはどうですか?と学生から聞かれたハンナは「パラダイス」と答える(53:25)。でも、このハンナの発言は今の世界情勢を見ると、ハンナのアメリカ賞賛は危険だ。
絞首刑になるアイヒマン。「当然でしょう」と答えるハンナ。でも、夫のハインリヒは「判決は見せかけの正義だ」と言い「法律なんてすぐ逆手に取られるものさ」「”汝殺すなかれ”が”汝殺せ”になった」(58:52)と批判する。まさに今のイスラエルに対する痛烈な批判になっている。 SNSがない時代からクソリプはあった
読みもしないで的外れな批判する人ばかりの状態にイラつくハンナ。読みもせずに批判する人たち。「とても読めないわ」と言う。
ハンナ「返事を書くの」ハインリヒ「やめとけ。騒ぎが収まらなくなるぞ」。ハンナ「傷つけた以上真剣に答えなきゃ」「この国に来て20年よ。もう移住はイヤ」。ハインリヒ「記事くらいで追放に?」ハンナ「確信持てる?」(1:33:36)。
秘書とのレズビアン的な関係性
ハイデガーに対するハンナのまなざしと重ねてシャルロットのハンナに対する眼差しが描かれてるようにも見える(1:06:54)。「ハイデガーが先生でハンナが生徒でハイデガーに惚れていてハイデガーが自身の思想を披瀝して非難された」のと「ハンナが先生でそれを嬉しそうに見るシャルロットが秘書でハンナが自身の思想を披瀝して非難された」のとが相似形になってる。
ハンナへの罵倒の手紙を読んで泣き出してしまうシャルロットの描写もある。職務に忠実な秘書というよりも、かなりハンナに思い入れがあるように描写されている。
シャルロッテ「そう言えばハインリヒの連絡先を聞かれたわ」。ハンナ「シャルロッテに?」。「とぼけといた」 「彼女は精神分析医よ。お見通しかも」(47:21)という描写がある。ここの会話もシャルロットのそうした愛情をにおわせているようにも見えた。