教養
「知らない」「読んでない」と言えるのが教養人。
でも、そう言えるためには、周囲から「教養人」として既に見られている権威が必要。
教養があるかどうかは、なによりもまず自分を方向づけることができるかどうかにかかっている。教養ある人間はこのことを知っているが、不幸なことに無教養な人間はこれを知らない。教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである。ここでは外部は内部より重要である。というより、本の内部とはその外部のことであり、ある本に関して重要なのはその隣にある本である。読んでいない本について堂々と語る方法p.33-4 ある本についての会話は、ほとんどの場合、見かけに反して、その本だけについてではなく、もっと広い範囲の一まとまりの本について交わされる。それは、ある時点で、ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体である。私はここでそれを<共有図書館>と呼びたいと思うが、ほんとうに大事なのはこれである。この<共有図書館>を把握しているということが、書物について語るときの決め手となるのである。読んでいない本について堂々と語る方法pp.35-6 教養というものは、その内部に、他人の書物にのめり込む危険を孕んでいる。そしてみずから創造者としてふるまうためには、この危険を回避しなければならない。要するに、独自の道を見出せなかったアナトール・フランスは、読書がもたらす弊害の見本を示したのである。ヴァレリーが、彼の作品に一度も言及しなかったばかりか、彼の名前すら挙げなかったのは、ひょっとしたら、そんなことをすれば自分も同じ自己喪失のプロセスに陥るのではないかと恐れたからなのかもしれない。読んでいない本について堂々と語る方法p.55 古典マップや、代表的な本など、今ならそれすら覚えたり調べる必要がない。ネットにいくらでもあふれてるから。
情報が溢れかえる現代、何が古典で何が古典でないかは、実は簡単に調べることができます。インターネットがなかった時代のショーペンハウアーですら、古典とは「誰もが知っている」と書いていました。何が古典なのか、自分で知っているという自信を持てない人は、まずはおいおい更新する前提で、自分なりの「古典マップ」を作ってみるといいでしょう。積読こそが完全な読書術であるp.105