感想を言語化するのが面倒だからSNSで他人の感想漁って自分と感性が近い意見を探す
のだけれど、もう少しこの行為について考えたい
hatori.icon的には行為の是非や善悪(?)については興味がないのであまり触れていない
ただし、その行為を人がどのように解釈するのかという各人各様のバックボーンには興味がある
タイトルの行為についてどのような考え方があるのか、SNSで他人の感想漁って自分と感性が近い意見を探しそうになるが、まずは自分で考えてみたい
実践することは多いはるひ.icon
SNSでやることはあまりないけど
https://gyazo.com/d87327b805eda9607b0b83aac2cadf5fhttps://gyazo.com/4de87fdbdf78f6eaa4c3b9499a0470f2https://gyazo.com/4761ab1ff01dde50b1b3e166613a3a2f
映画の感想を言語化するのが面倒だからSNSで他人の感想漁って自分と感性が近い意見を探すか そのとき思ったことは霧や煙のような不定形の掴みどころのないもの・すぐに消え去ってしまうもので、それを固定化=言語化するためには努力を要する。その手間を省きたい(面倒)ゆえに外部の力を借りる 言語化する前とはいえ、”感想”をもつこと前提で話しているのねはるひ.icon
当たり前みたいに言ってるけど、その時点でレベル高いんでは・・・というつっこみどころがこの画像では割と重要な気がします
+1kana.icon
そもそも感想がある時点ですごいというか、「ふーん」で終わらないのはすごい そもそもこの台詞自体言語化能力が高すぎる
わかるseibe.iconkana.icon
消え去ってしまうものを消え去らせずに、アウトソーシングしてでも言語化された結果を得ようとしているのもレベル高いyosider.icon
「漁る」という表現は、そこ(=SNS)に大量の感想があることを暗示し、それらが玉石混淆であることも意味する? 探す手つきを強調する意図があるかもしれない
雑な/乱暴な手つき
つまり検索する者はある種の特権的な立場にあるということ
「漁る」と聞くとゴミ漁りという感じを連想するyosider.icon 「漁る」を「探す」に変えても意味は通る
単語のチョイスに行為への後ろめたさを見いだすのは穿ちすぎだろうか? すぎだと思うなーはるひ.icon
ふつう漁るっていわない?
自分は言う。ただし作品を描く時には言葉は意図的に使うかも基素.icon
こういう時、ぼーっと検索結果に目をとおしていくものだし、恣意性は感じない
後述の「愚か」という表現からも、内心では何か良くないことだと考えていると推測できる
「感性が近い」とは、あくまで同じような感性というだけで、全く同じというわけではない
(時にはこれは自分か?という感性を持つ人が存在するかもしれないが)
感性が近い意見を探すことで「自分の意見」を手に入れる
これは複数の意見の合成や平均化あるいは先鋭化を伴っているはず
自分にとって「わかる」「ちょっとわかる」「そうかも」「ふーん」「そうかなあ」「違うでしょ」「話にならんわ」等々の、同意するレベルにグラデーションがある意見を取捨選択し、均したり強調したりする
(フランケンシュタインという言葉で、何か良くない/醜い/不吉な/避けるべきモノというニュアンスを付加しているつもり) なるべく他人の思考のコピペは回避した方がよい、という価値観がある
何故そうした方がよいと言えるのか?(この議論は別のページに書いた方がよさそう)
ここで、作り方(レシピ)=取り入れる意見の調整や調節のさじ加減を指す これは何か言い訳がましい考え方のような、そうでもないような...?
感想を聞けるような人物が身近にいるとは限らない
その人が同意できる感想を持っているとは限らない
いたとしても数の問題がある:漁れるほどの感想を現実世界で聞いて回るのは手間がかかる
面と向かって聞くと遠慮しがち
簡単に検索して比較検討できるのはSNSの強み
感想の数が多ければ、自分が同意できる意見に出会う確率が上がるはず
Twitterは十分大きいので作品名で検索したら起こりづらそう基素.icon
感想を検索によって抽出していることが問題かも
上述の漫画でいうと「ジョーカー 感想」という直球のキーワードで検索している 検索キーワードによって結果には偏りが生じるのではないか?
SNSにおいては伏字や言い換え等の「検索に引っ掛かるまい」とする工夫(配慮)が多数みられる 公の場に書くけれど多くの人には見せたくない、という二律背反的な感情によるもの 現状では(仮に非が無いとしても)運が悪ければたやすく炎上してしまう 興味のない人が伝聞情報のみで「物申すマン」と化す場合もある 検索キーワードを変えて何回か調べれば問題ない?
とはいえ自分で思いつく言葉しか探せない
単に近いものを探すだけでなく、他者と共感したいというのもありそうyosider.icon まず人間はどうやって「思考」しているのか?という問題
そもそも人間にとって「思考」とは何を指すのか?万人に当てはまる定義があるのか?という問題
定義がはっきりしないモノ・人により定義が異なるモノについて意味のある議論をするのは難しい
頭の中で喋って=言語化して考えている人と、直観的・感覚的に考えている(思考を非言語的に「感じて」いる?)人がいそう
思考を非言語的に「感じて」いる場合は、それほど頭を使わないかもしれない
これら二つの思考様式は同一人物の中で併存可能なもの?
年齢・経験量による影響があるかも
そうでもない?思考様式が環境によって強制される場合がありそう
本当に頭を使っていないのか?
上記の漫画は何かの出来事(=映画を観る)が生じた後で、その出来事について考えている状況のはず
つまり自分が記憶している事を点検し、検証している状態(俯瞰的に捉えようとしている)
「映画の感想」という完成形がぼやけたパズルがあり、そこにはめ込むピースをSNSから見つけ出してパズルを満足のいく形にするイメージ。その際に頭を使うのでは?
明言されていないけれど頭を使う量が問題なのかも
上の例えで言うと、パズルのピースを自分の中から見つけるための思考量>>>外部からそれをピックアップする際の思考量、となる
0→1は困難だが、n→1は容易ということ
ここでいう「愚か」とは何を指しているのか
「自分がどう思ったのかすら頭を使わずに手に入れ」ることを指すと仮定する
つまり、愚かでいること=自分で考えることを放棄している状態=快楽(の一種)という図式
それがなぜ愚かなことなのか?
前提として、少なくとも実際に映画を観ているため、それに全く興味がない訳ではない
興味がある=好きであるとは限らないのでは
好き/嫌いの違いは、興味というベクトルの向きの違い(?)
興味を持つという、何らかのアクションの源泉になり得るモノを自分で育てず、手早く雑に片付けてしまうこと=自分の力で考えることを放棄している状態=「愚か」と言っている?
つまり、自分の好きなもの/嫌いなものに対して真摯に向き合わないことが「愚か」であるということ
何事にも真摯であるべき、というのも中々しんどい考え方だと思う
好きなものはともかく、嫌いなものを直視するのは精神的につらい
メタ的に認知すればよい?例えば嫌いなものを何故嫌うのか、という「私」について考える等
ネット上の脊髄反射的な罵詈雑言の類も、ただそれだけでは単純な意思表示で何の益にもならないので「私はこう思う、何故かというと...」の部分があれば良いのだが 自分が好きなものに対してすらテンプレ的な反応しか返さない場合も問題視される?
型どおりの反応・ありきたりでつまらない反応に対してネガティブな感情をもつ理由は何か
独自性の高いものにこそ価値がある、という考え方によるのかな
「愚か」と表現するのは、楽に何かを手に入れること・楽に手に入れたものに対して、ネガティブな感情を抱いているからではないか?
努力や苦労をすることなく得られたものに価値はない!人はみな努力や苦労をすべき!根性がない奴はダメな奴!等々
無条件に「自分の頭で考える=賢い」とは言えない気もする
いちおう賢さに至る準備段階・助走段階とは言えそう
自分で考えること、自分で何かを決めることを放棄している状態は心地よいのか?
人間は時として進んで隷属状態になろうとする
それは魅力的なことなのか
このような心地よさ・快楽は乳幼児が感じる安心感みたいなもの?
包容/庇護/お世話されることetc. に対するそれ
絶対的に心地よいというより、相対的に心地よいのかもしれない
「自分で考えること」の苦痛に耐えられないならば、そこから逃げ出そうとする欲求が生じても不思議はない
なるべく自分の言葉を消さずに残しておきたいtakker.icon
話題にしてる対象が似てそうtakker.icon