考えるやつ、作るやつ、手を動かすやつは偉い
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/emoji/twitter.icon 高専から植え付けられた「考えるやつ、作るやつ、手を動かすやつは偉い」の思想が知人や家族に対して出てしまい「嫌な奴だな」と自省するときままある これは自分の内心に持っているのはものすごく良いと思う
し、実際tkgshn.icon自身もこう思っている人の方が友人になりやすいと思う
ただ、これを社会をうまくやっていくためだけの(社会性)相手に発揮して、無駄に軋轢を生まなくて良い 期待しない方がいい、割り切った方がいい
「嫌なやつだなと自省する」必要もないのかもしれない. 必要なのは割り切りtkgshn.icon
これがなければ、社会彫刻という概念は考えられないと思う じゃあ実際、どんな人がそれに当てはまるのか。尊敬している人はどんなふうかと考えると、
とは言いつつ、本書きながら憲法やって社会活動できる政治家みたいな人。立候補しない政治家、デモに行かない政治家、社会彫刻家としてあれがアメリカにいる意義は大きい。落合陽一ぐらいしか戦える奴いない。 彼のことを知らない人は、(特定の哲学ではなくてどちらかというと東浩紀.iconの人生にフォーカスした)ゲンロン戦記を最初に読むのがいいと思う >観光客の原理は、ぼくたちにいかなる行動の指針を与えてくれるのだろうか。その問いに対して、正面から答える余裕は残念ながら本書にはない。それにそもそも、それは答えるべき問いなのだろうかとも思う。ぼく自身としては、本書がその創刊準備号として位置づけられている年三回刊行の批評誌『ゲンロン』の出版や、あるいは付論で触れたチェルノブイリへの年一回のツアーの実施などで、その問いに対して実践のかたちで答えているつもりである。ぼくはデモには行かない。かわりに観光を──知的な観光としての出版を含め──組織する。それが前述のような再誤配の戦略として成功しているかどうか、それは理論的にどうこうというよりも、個別の場で効果が測られるべきものだ。選挙に行けば政治、記者会見をすれば政治、デモに行けば政治というように単純には、これをすれば誤配であり観光であると例を提示することはできない。 あと、厨二病を拗らせてない(大人である)ってのもすごいと思う
/emoji/twitter.icon そうすると、いろいろ批判もあるけれど、自ら組織(会社)を作って、場を作って、育てよう広げようと試みている東浩紀は、俺が知る限り現時点で数少ない「大人を引き受けた人」なのかもしれないし、それは評価されるべきだと思う。もちろん個(孤高)であり続ける存在もいるけど、それは子供ではない。 手を動かすことができる哲学者もいるし、できない哲学者もいる