「GTD」の解釈の違い
玄武.icon仮のまとめです。
GTDは、getting things done(物事をやり遂げる)ためにとどまらず、仕事と人生に、より(自らをとりまく世界に対して)適切なかたちで関わっていくこと、関わっていくための手段
もしかしたら、それこそが最初に居た場所の「things 「あれ」を getting done 「やっつけとく」くらいのユルさ」に戻るのかもしれません。
7つの習慣の最後にもありましたよね。「探究に終わりはない。すべての探究は初めにいた場所に戻ることであり、その場所を初めて知ることである。」
物事を成し遂げるための技術に終わりはない。すべてのGTDは初めにいた「things 「あれ」を getting done 「やっつけとく」くらいのユルさ」に戻ることであり、その場所を初めて知ることである。
GTDは人間のワークフローを土台にしている
そうして、GTD本では実行をサポートする部分に触れてはいないが、実行そのものの中にはGTDのような人間のワークフローが含まれる たとえば、水を飲みたい(望んでいる結果)と思ってコップを手に取る(次にとるべき行動)といった動作です。
人間は、目的意識的な存在(動物)である(ここでの目的意識は特段、崇高な目的ということだけでなく、日常生活的な意味まで含めての意味合いです)
ネクストアクションリストの中から選択されたネクストアクションをどうしていったらいいのかが、いわゆる実行の部分でここについてはGTDがサポートしていない(触れていない)
GTDしか考えない私にしてみると、実行中もまた小さなGTDの積み重ねに思えます。
粒度の小さい瞬間瞬間の望んでいる結果と次にとるべき行動の繰り返し。
このままタイピングするのか、ノートに書いてみるのか
タイピングするならGTDと入力しようとしてネクストアクションとしてキーボードのGを打つとか
ただ、そういったGTDをgetting things done(物事をやり遂げる)と思うのは少し大仰にすぎる
「things 「あれ」を getting done 「やっつけとく」くらいのユルさ」もあっていい。
GTDはデビッド・アレン氏が考えた手法の固有名詞であり、getting things done(物事をやり遂げること)とは一部が繋がっているだけで、全部ではない
GTDはgetting things done(物事をやり遂げる)にも役立つ一つの方法であるが、たったひとつのgetting things done(物事をやり遂げる)ではないので、GTDができないことがCan't get things done(物事をやり遂げられない)ことであるかのように振る舞うのは誤謬である。
GTDができなくとも、いくらでもgetting things done(物事をやり遂げること)はできる。
GTDをgetting things done(物事をやり遂げる)と並列で扱わないほうがいい?
むしろGTDと言わないほうがいい?
惹きつけるもの(キャッチコピー)がなくなってしまう?
やはり、GTDは固有名詞であり、getting things done(物事をやり遂げること)とは一部が繋がっているだけで、全部ではない
rashita.icon手法としてのGTDと、getting things doneが異なるという解釈の立場をとる場合、getting things doneを指してGTDと表現してしまうと、話を聞いている人は混乱しそうな気がします。
rashita.iconちなみに一連の議論は、全体的に神学的なイメージを受けます(批判というわけではく、議論の構造が似ているということです)。
玄武.icon神学には疎いのでちょっと調べてみます
ちょっと調べましたが「なるほど、わからん」ということになりそうです。
玄武.iconフリーなライティング
ライフマネジメント
タスク管理
ストレスフリーな整理術
固有名詞としての「Getting Things Done」
言葉の意味としての「ものごとを成し遂げる」
田口 元氏による日本語訳の「気になること」中心で考えるGTD
原書による「気になること」中心では考えていなさそうなGTD
予め決めた行動でしか動けないマニュアル・ロボット的な行動管理
玄武.iconフリーなライティングその2
GTD本は、あまり忙しくない人を読者として、対象としていないかも。
GTDでは、物事をこなしていくことに比重を置いているわけではなくて、
読んでいるはずの箇所なのにサラリと流してしまっていました。
this book is not so much concerned with getting things done as it is championing appropriate engagement with your world—guiding you to make the best choice of what to do in each moment,
(この本は、あなたの世界との適切な関わりを擁護しているので、物事を成し遂げることにはあまり関心がありません。各瞬間に何をすべきかについて最良の選択をするようにあなたを導きます。)
いやいやいや、本のタイトルで「Getting Things Done(物事を成し遂げる)」言うてるやんって思ってしまいました。
things 「あれ」を getting done 「やっつけとく」くらいのユルさなので、2005年に紹介したときもこれは訳さないほうがいいなと思った
〔作業など〕を済ませる[終わらせる・やり終える・片付ける・やってしまう]
玄武.iconなるほど、日本語としての意味の捉え方として、物事を成し遂げるといった強い意味ではなく、あれをやっつけとくというユルさの違いですね。
ただ、原書のタイトルでもGetting Things Doneと謳いながら、本文のなかで"this book is not so much concerned with getting things done"と同じgetting things doneを使っているのには、矛盾を感じます。
もしかして、英語としての意味の捉え方としても、物事を成し遂げるといった強い意味ではなく、あれをやっつけとくというユルさの違いを表現しているとか?
つまり、タイトルではGetting Things Doneでは「あれをやっつけとく」、"this book is not so much concerned with getting things done"では「この本は、物事を成し遂げることにはあまり関心がありません」
もしくは逆パターンとか。
Getting Things Doneでは「物事を成し遂げる」、"this book is not so much concerned with getting things done"では「この本は、あれをやっつけとくことにはあまり関心がありません」
でも、逆パターンは堀さんの言及からみると違っていそうです。
最初のパターンなら少し話の筋が見えてきそうですが、それならルビや注が書かれていてもよさそうです。
けっきょく、デビッド・アレン氏が筆を滑らしたのでしょうか。
もしくは、コンサルをしていた販促の一貫や出版社の意向で「このタイトルのほうがウケがいいと思うので、これで行きましょう」とか。
デビッド・アレン氏も「そういうなら、そうしましょうか」ぐらいの軽さだったとか。
いずれにしろ、getting things done以外のその他の部分"it is championing appropriate engagement with your world—guiding you to make the best choice of what to do in each moment"(あなたの世界との適切な関わりを擁護している—各瞬間に何をすべきかについて最良の選択をするようにあなたを導きます。)を重要と捉えていることに変わりはなさそうです。
タイトル詐欺?
この部分は、改訂版で追加された箇所ですので、デビッド・アレン氏がGetting Things Doneとか「もう、ええんとちゃう?」とか思ってしまったのでしょうか。
ゲッティング シングス ダンよりも、副題のThe Art of〜の方が、システムの名称ぽいんですよね
副題:The Art of Stress-Free Productivity
ストレスのない生産性の技術
物事(仕事)を成し遂げることは、その結果として出てくることであり、主要な目的ではない。言い換えれば、「自らをとりまく世界に対して適切なかたちで関わってい」ないけれども、何かのタスクが終了できた、という状態は本書の著者が読者に願っている状態ではない。
望んでいる結果であるGetting Things Done("物事(仕事)を成し遂げる")
"物事(仕事)を成し遂げる"はプロジェクトであり、直接実行できることではない"状態"である。
直接実行できるのはアクション群であるThe Art of Stress-Free Productivity(ストレスのない生産性の技術)
"「自らをとりまく世界に対して適切なかたちで関わってい」ないけれども、何かのタスクが終了できた、という状態"は、現代においては往々にしてそうした状態が多いように思えます。
なんとなく、わかりやすい例だと生活力のない(部屋が片付けられない)天才プログラマーとかでも、現代では許容されそう。
昔は、生活力がないということだけでふるい落とされていたかもしれない。
それにもかかわらず、"本書の著者が読者に願っている状態ではない"ということは、Getting Things Doneが現代とはそぐわないものなのかもしれません。
ただ、この"「自らをとりまく世界に対して適切なかたちで関わってい」ない"もピンきりなような気がします。
火曜の燃えるゴミの日にいつもゴミを出し忘れてにゴミが出せないことから、天才プログラマーではなく天才ハッカーとして指名手配されるとか
これはつまり、GTDはgetting things done(物事をやり遂げる)ことから離れてという意味ではなく、getting things done(物事をやり遂げる)を含んだ上で、それだけにとどまらずに、という意味で"比重を置いているわけではなくて"という否定ではないのでしょうか。
つまり、GTDは単に物事を成し遂げるための技術だけではないことを謳っているのでではないでしょうか。
https://gyazo.com/8a0a37446687669e7df91354c9cb881c
小さい円がgetting things done(物事をやり遂げる)
大きい円がGTD
その余白こそGTDが主眼としている「自らをとりまく世界に対して適切なかたちで関わっていくこと」
ただ、これだと上の余白の「自らをとりまく世界に対して適切なかたちで関わっているが、なにかのタスクが終了できていない状態」が生まれそうです。
立体なのかな
https://gyazo.com/76df9e073b5be75ddf2476a305b73ac8
https://gyazo.com/40b40bf010d7b5dcda4465d3ff8e4d9a
主眼となるのは「自らをとりまく世界に対して適切なかたちで関わっていくこと」なので逆とか
https://gyazo.com/755dceeed750dad1ed8c8801e3ef4e41
上の図なのかもしれない
これにより、以下の状態も含まれることになりそうです。
「自らをとりまく世界に対して適切なかたちで関わってい」ないけれども、何かのタスクが終了できた、という状態
ただ、気になるのは、「自らをとりまく世界に対して適切なかたちで関わっていくこと」について書かれているのが改訂版で追加された箇所であることです。
つまり、改訂版の前の状態で果たしてデビッド・アレン氏がそこまでのことを謳っていたのでしょうか。
ここからは想像です。
このことがもし、デビッド・アレン氏の頭にあり、GTDが物事をやり遂げるだけではない深みを持たせるがために取り出した、言い方は悪くなりますが、あとづけの考えが「自らをとりまく世界に対して適切なかたちで関わっていくこと」ではないのか。
別に悪くはないと思っています。7つの習慣もあとで第8の習慣とか出してますし。あまり7つの習慣ほど浸透しているとは感じませんが。
もしかしてGTDも同じ轍を踏んでいるのでしょうか。
ざっと調べた限りでは「自らをとりまく世界に対して適切なかたちで関わっていくこと」が改定前に書かれていたことは見つけられなかったです。
takahrt.iconいいなあと思った文があったら書いてみてください
もしくは、コンサルをしていた販促の一貫や出版社の意向で「このタイトルのほうがウケがいいと思うので、これで行きましょう」とか。
デビッド・アレン氏も「そういうなら、そうしましょうか」ぐらいの軽さだったとか。
takahrt.icon↑↑大阪弁で読んでみたい
玄武.icon
「このタイトルのほうがウケがええから、これで行こかぁ?↗」
「そやな↗」
答え合わせ
「このタイトルのほうがウケがええと思うので、これで行こか」
「そういうなら、そうしまひょか」
なるほど
takahrt.icon ありがとね