iPadを使った「デジタル黒板」で実現する新しい教え方、学び方
Teaching and Learning with iPad as “Digital Blackboard”
塩澤 一洋, Kazuhiro Shiozawa
成蹊法学第82号, pp.131-158
2015年6月30日発行
成蹊大学法学会
こんにちは、塩澤でございます。
今日、90分にわたりまして、私が普段大学で実際に行っている「デジタル黒板」をどのような考え方に基づいて、どのように実践しているか、ということをお話しをさせていただきたいと思います。たぶん、本日お集まりのほとんどの方々が私よりも人生の諸先輩方だと思いますので、こちらの高い所からお話しいたしますこと、大変恐縮でございますが、この3年くらい実践している授業の行い方にはこんな特徴があって面白いと思いますよということをお伝えしたくて、今回このお話を受けさせていただきました。
タイトルに「新しい」と述べております。確かに使っている道具立ては新しいです。けれども、やっていることは普通に大学の教室で学生に講義をしている、あるいは授業を提供している、ということです。みなさんもご経験がおありになる伝統的な教室での営みです。それを現在、私はこんな形でやっています、そしてそれはこういう考え方に基づいているのです、ということをお話させていただきたい、と思います。
今、スクリーンに本日のタイトルが映っています。「iPadを使った『デジタル黒板』で実現する新しい教え方、学び方」。この画面自体、実は「デジタル黒板」なのです。私はこれを「デジタル黒板」と呼んでいますが、世の中では「電子黒板」というものが売られています。電子黒板をご存知の方、どれくらいいらっしゃいますか?これくらい大型のパネル型ディスプレイ、大きい薄型テレビのようなもので、専用のペンでそこに書いたり消したりできる仕組みのものです。「電子黒板」はこの建物〈注1〉にも小さい教室には入っています。
けれども私が「デジタル黒板」と呼ぶのは、一般的な電子黒板とはちょっと違う、という趣旨です。「電子黒板」はハードウェアを指す名称ですが、この「デジタル黒板」はハードウェアを問わずさまざまな表示装置で実現できる汎用的な方法なのです。だから、同じ電子、デジタルを使ってはいますが、私はあえて「デジタル黒板」と呼んでいます。しかし、広い意味では「電子黒板」の一種です。これ、一見、何も違わないように見えるかもしれませんが、今日この後で画面の動きとか私の使い方をご覧頂いて、「おっ、こんなこともできるのか!」とお感じいただければ、と思います。
大体こういう画面を映すとき、今はパワーポイントを使いますね。Microsoft製の「PowerPoint」〈注2〉というのは、もともとはこのMac用のソフトウェア〈注3〉なんですけれども、今ではWindowsでももちろん使えて、Windowsでプレゼンテイションをする、というときは、十中八九PowerPointを使います。「スライド」のことを「パワーポイント」あるいは「パワポ」と呼ぶくらい普及しています。PowerPointというのはこのアプリ、ソフトウェアの名称です。決してすべての「スライド」が「パワポ」なのではない。そしてこれはPowerPointというアプリのアイコンです。
プレゼンテイションするとき、まずあらかじめPowerPointなどのプレゼンテイション用アプリを使ってスライド画面を作成しておいて、それを投影します。もともと、医学系とか理工系の研究発表で写真のスライドフィルムを使っていました。つまり、病変の写真とか図表とかグラフとかですね、そういったものをスライドフィルムにして、そのスライドを投影することによって学会発表をしていた。ですから本来「スライド」と呼ぶべきなのですが、今はもうPowerPointに代表されるプレゼンテイション用ソフトでデジタルに投影する方法が普通です。
同じく、そういったスライドを投影する仕組みとして、AppleのMac/iPhone/iPadでは「Keynote」〈注4〉というソフトを使うことができます。先ほど申しましたようにMacにはPowerPointもありますけれども、Key-noteの方がカッコ良く作れるし、かつ、作り方もずっと楽です。簡単にかっこいいものを作れてしまうので、プレゼンテイションで一般的、伝統的なスライドを使う必要があるときは、私はこのKeynoteの方を使います。PowerPointは使いません。
けれども、PowerPointやKeynoteでスライドを作って投影しますと、投影した内容を動かせないのです。画面をご覧ください。動いていますよね。私が今こうやって手元のiPadで動かしているのです。その動きがそっくりそのまま画面に投影されます。これ、PowerPointではできません。Keynoteでもできません。
スライドというのは、あらかじめ内容をスライド状に作っておいて、それを順に見せていく。そして見せながら話を進めていく。これ、幼稚園でやっていませんか?はい、紙芝居です。つまり、いい大人が紙芝居をやっているのですよね、世界中で。あらかじめストーリーを用意しておいて、絵を用意しておいて、その絵を順繰りに見せていくことでプレゼンをする。プレゼンっていうとカッコいいけれど、要するに紙芝居なんです。今世の中で行っているプレゼンのスライドは紙芝居です。
ですからスライドを使うと、授業の中で私たち教員が学生に問いかけて、その学生との間でさまざまなやりとりをしながら話が発展し、膨らみ、予定していない方向に進展する、という可能性を削いでしまいます。あらかじめ、「今回のプレゼン、今回の講義は、こういう順番でこの話をする」ということをすべて決めておいて、それ通りに進めなければいけない。予定調和です。
プレゼンにはいろいろな目的があります。例えば、新製品の発表のようにたくさんの情報を一方的に正確に伝えることが目的なプレゼンはスライドを使うのがふさわしい。でも授業はそうではない。授業が面白くなくなる原因の一端は、スライドを使うことによってすべてあらかじめ決まってしまうというところにもあると思います。教員と学生とのリアルなやり取りから話が発展していく可能性が無いのです。
従来、大学の講義や講演でスライドが使われるようになる前から、小学校、中学校、高校といったあらゆる学校で「授業」が行われてきました。そこでは普通、黒板を使ってきました。あるいはホワイトボードです。
黒板もホワイトボードも、授業が始まる時はまっさらな状態です。何も書かれていない。そこから話が始まって、必要があれば黒板に書く。「ん?この言葉の漢字が分からないの?その漢字はこう書くんだよ。」などと、学生とやりとりしながら必要に応じて書く。その日の授業の梗概とかトピックの関係図などを書いたり、式をグラフを書いたりします。話をしながら話を補充する視覚情報を描く。そういった役割を黒板やホワイトボードは担っているのです。
だから板書は、授業の進展に従っていかようにも発展可能なように、まっさらな状態から始めるのです。予定調和ではない。あらかじめ決まっているわけではない。その場で、リアルタイムで話が進展して、発展していく。授業とはそういうものです。板書の内容も、その話に即して充実していく。
スライド全盛の時代になる前は、どんな方向に発展するか分からないという面白さとか期待感が授業にはあったはずなんです。でも最近のスライドを使った授業、あるいはプレゼンテイションでは、話があらかじめ決まっている。スライドもあらかじめ決まっている。
それだけであれば、そのスライドの次に何がでてくるかというのは、話す側だけが知っていることであって、聴衆は知らない。しかしさまざまなプレゼンや学会の発表を聴きに行くと、あらかじめ入り口のところで資料がどーっと配られます。各机に資料があらかじめ置いてあったりする。
大学で現在行われている授業の多くでもそうです。その資料には、その日に話す予定となっているスライドが全部プリントアウトされている。話の内容があらかじめ全部、学生の手元にあるのです。そんなの、面白いはずがないじゃないですか。ネタばらしです。あらかじめ「今日はこれを話します。話はこういう順序で展開します。オチはこうです。」と全部つまびらかにして、聴衆に情報を与えてしまう。始まる前にです。そうしたらもう「別に聞かなくていいや」って思いますよね。特に怠惰な学生は。
大学ではそういう授業の配布資料を「レジュメ」と呼びます。実際、配布されているレジュメを授業の冒頭で貰って、帰ってしまう学生もいます。それはもう、話を聞く必要がないからですね。当然の行動です。レジュメを見れば全て分かる、全部書いてある。教員によっては、ものすごく詳しいです。A3版の紙4ページくらい、事細かにその日の内容が書いてある。
授業に出てみると、教員によってはそれを半ば読み上げるような感じ。面白いはずがないです。まっさらな状態であらかじめ何も情報がなくて、これからどんな授業が展開されるのだろう、というワクワク感があって、その授業に参加していた時代から、このスライドを使う時代になって、教員の側でまず詳細なストーリーが予定されるようになった。さらに、その予定されているストーリーが授業の前にあらかじめ学生にまで配られるようになってしまっている。面白いはずないんですよ。
本日のタイトルとして「新しい教え方、新しい学び方」と書きましたけれども、今日ここで私がお話しする授業の方法は、確かに新しいデバイス、新しいツールを使います。でも中身は違う。古くから行われいてる面白くてよりワクワク感のあるエキサイティングな授業を、現代の技術で実現するにはどうしたらいいのか。それを考え続けて、20年近くにわたって色々試してきた結果、今私が使っているデジタル黒板に至っています。ようやく、デジタルというものを使って、一般的なスライド、PowerPointやKeynoteを使うようになる前の授業と同じことができるようになった。それも、以前より進化した形で実現できている。「新しい教え方、新しい学び方」とはそういう趣旨なのです。
私はデジタルな道具が大好きなんですけども、常々思いますに、デジタルなツールを使うことによって、今までできていたことよりもできることが減ったり、今まで面白かったものが面白くなくなったりしたら、意味ないです。それだと、デジタルツールを使うこと自体が自己目的化してしまっている。デジタルを使うがためにデジタルを使っている、という状態です。本末転倒です。
我々は教員として教育の場で行うべきは、学生達の興味を喚起して、「あ、その学問面白い」と感じさせること。私の分野で言えば、「民法や著作権法って面白い」、「もっと研究したい」、「自分でもそれを使えるようになりたい」という気持ちを抱かせて、その学問の世界に誘うことですよね。
なのに、デジタルを使って紙芝居をしているだけでなく、あらかじめ全部ネタも明かしている。紙芝居以下です。紙芝居はあらかじめ全部の絵を配布したりしませんからね。これでは何の面白みもないし、もったいないことだと思います。
私はITツールが大好きです。Macを198年から使っていて、Macのことを扱う「月刊MacPeople」という雑誌とかその前は「月刊アスキー」といったIT系の雑誌に2002年から、13年くらいですか、連載をずっと書いています。それくらいITの分野が大好きで、自分でどんどん使って、その多くのベネフィット、便利さを享受してきています。
そういう私ですけれども実は、PowerPointもKeynoteも、大学の授業では全く使いません。大学外からご依頼いただくセミナーの講師をするときなどは使います。しかし、自分が100%運営できる大学の授業では、1998年に大学の教壇に立って以来、16年くらい、使っていません。
それは先ほど言ったような理由です。面白くないから。話の内容があらかじめ決まっていたり学生の手元にあったら、面白くない。
私は、大学の授業を学生達との対話で進めていきますから、どういう方向に話が展開するかは、自分でも予測がつかないんですね。もちろん、今日はこれとこれを伝えようという予定とか心づもりはあります。でも講義ノートは一切ありません。私が学部の学生の頃は、茶色くなった講義ノートをお持ちになって、滔々と語る大学の先生がいらっしゃいました。
私は講義ノートのような準備は一切なく、すべてアドリブで、その場で言葉を紡いで話をしています。今日も、何の用意もありません。あるのはこの画面だけです。学生との対話で講義を展開していくと、自分では予想できなかったようなところで学生がつまづくことがわかるのです。あるいは、想像しなかったような疑問を学生が抱くんだ、ということがわかる。
そうしたら、そこを理解してもらえるよう、その場で適切な例を考えたりたとえ話を作ったりします。民法の話をしている途中で憲法とか刑法の話に展開することも結構あります。学生が民法ルールと刑法のルールを混同している、ということが授業中に判明したら、そこはきちんと峻別できる
ようになるまで説明することが必要だからです。民法の前提となる憲法の理解が足りなかったら、それもやっぱり説明します。そうして1コマ終わってしまうこともある。つまり、「予定」していたことをこなすのではなくて、目の前の学生たちに今一番必要な情報を話し、理解してもらうことを最優先しているのです。
私はPowerPointもKeynoteも自分できちんと使えるし、実際、ものすごく面白い内容のものを作ります。便利ですしカッコいいのも分かっています。けれども自分の授業は一貫して従来型。黒板かホワイトボードを使って、チョークにまみれて、ホワイトボードのマーカーのインクを手にあちこち付けて、そういうカッコよくないやり方で、3年前の2011年までは行っていました。その理由は、PowerPointやKeynoteによる紙芝居方式では、従来のそれを使わなかった以上に興味を引く授業を、少なくとも私はできないからです。
しかし、iPadが世の中に出た。「これはいけるぞ」と直感しました。この可能性は非常に高い。
実際、世の中のさまざまな分野で、PCではなくタブレットを使うことによる可能性で沸きました。タブレットで色んなことができるぞ、と。最近、沸いていない。つまり、タブレットを買ってみた、けれども上手く使えない、という人が多いようです。
それはしょうがないですね。新しいものですから、ある程度、工夫が必要です。それはもう、既存のものを使う工夫よりもはるかに知的な工夫が必要です。今までとは全部全然違うんだ、という発想に改める必要がある。
私は今日まで3年にわたって、iPadを使って授業をしてきました。iPadをデジタル黒板として使っているということを、各機会に話し、記事に書き、実際に披露しています。そうすると、全国の大学にあるFaculty Development(FD)の委員会、要するに授業を良くしようという委員会から私の授業を参観しにいらっしゃる。成蹊大学でも「塩澤が何か面白いことをやっているぞ」ということで、高等教育開発支援課という部署が主催して、教員を対象とした「デジタル黒板」のセミナーみたいなものを開きました。それ以後、現在、成蹊大学では何人もの先生方がiPadを「デジタル黒板」として使っていらっしゃいます。
この「デジタル黒板」をどのような考え方のもとに使っているのかをまずお話ししたいと思います。今回の講座は統一テーマとして「現代社会を生きる、ともに学びつなぎあう」を掲げています。そしてここに「学ぶ」という動詞が入っていますので、私は、喜んでやらせていただきますと申し上げて、本日の講演に至っているわけです。「学ぶ」って、なんだろうか、ということですね。
「学ぶ」は英語で言うと「learn」です。learnとは「gain or acquire knowledge of or skill in (something) by study, experience, or being taught」〈注5〉。つまり知識を得る、スキルを得る、studyして、研究して、practiceして、実際に自分でやってみて、実践して、試して、自分で体験して、教わって......。「learn」というのは、learnする人自身がが自分でやってみる過程で、自ら体得していくことなんです。
「学ぶ」はどうか。よく言われるように「真似ぶ」から来ている。自分で真似てみることなんですよね。「learn」も「学ぶ」も、自分でやってみることが大前提なんですよ。
なのに、今日「学ぶ」という言葉でどのようなイメージを持つでしょうか。知識をいただく、知る、そういう受動的な含みを強く感じる言葉になっているのではないでしょうか。これは由々しきことだと思うのです。現代の「学ぶ」はほぼイコール「知る」、「知識を得る」ということになっています。本来は自分でやってみることなのに、知る、知っただけで学んだつもりになる。でも、知っただけでは学んでいないです。情報を得ただけですからね。自分で使えるようになっていません。
「知る」ってどういうことかと言うと、こういうことですよ。「へぇ」です。この「へぇボタン」、以前「トリビアの泉」というテレビ番組で使われていたものです。トリビアってtrivialです。ささいな、取るに足らないこと。そういう情報を知って「へぇ」って満足する。この「へぇ」っていうのが「知る」です。
知ることにはワンダーがあります。知らなかったことを知って、「へぇ、面白い!」というだけでも、知的な喜びはもちろんあります。昔、NHKで「知るは楽しみなりと申しまして、知識をたくさん持つことは人生を豊かにしてくれるものでございます」と言っていましたよね。「私は当ゼミナールの主任教授です」って鈴木健二アナウンサーが言っていましたが、あれです。つまり、知るというのは、それだけで非常に豊かな広がりを持っている。新しい世界を知るわけですね。
しかし、「学ぶ」は違うんです。「学ぶ」とは、自分でやってみること。私は、教室で学生達に「学ぶ」ということの意味を理解してもらい、かつ、常に実践してもらいます。
伝統的な大学の「講義」というのは、ほとんどの場合、教員が教壇で語り続けるものです。さきほどプロフィールをご紹介いただいたように私は198年に慶應義塾大学の経済学部に入りまして、2年生の時に留年して2年を2度やり、5年かかって卒業し、そのあと法学部に学士入学して3年、4年の2年間行きました。卒業して大学院で修士を2年、博士を3年。都合12年間、大学生、大学院生を経験しております。「お勉強好きなんでしょうね〜」って言われるんですけれど、違うんです。遊び続けているんです。ずっと遊んでいる。だって、好きな事やっているのですから。「法律面白い!」と思ってやっているのですから、「遊び」です。レゴで遊ぶとか粘土で遊ぶとかいうのと全く同じ。
そのように12年間、大学で学生、大学院生をしていたので、概算で年10コマ、1年に10種類の講義に参加したと仮定すると、12年間で120の授業を受けていることになります。それ以降もいろいろな大学の教員の講義を聴講したり、学会報告を聴くとか、他の方々のお話をうかがう機会がありますが、大学の講義に限定してみましょう。
ほぼすべて、教員が一方的にしゃべっていました。ただし30年近く前からの12年間の話です。しかし残念ながら、現在においても状況はあまり変わっていません。90分なら90分、2コマ連続なら180分、3時間、ほとんどすべての時間、教員が話し続けています。これが大学の教室で行なわれている「講義」の実体です。学生がしゃべるという機会はまずない。
ともかく教員が話をする。つまり情報の提供をする。学生の側は「知る」。これが教室です。昔も今も、みなさんのご経験に照らしていただいても、たぶんほとんどの講義というものは、教員が9割以上、しゃべって、聴衆である学生は聞く、という構造で成り立っています。
学生が自分でノートを取ればまだいい。ノートを取れば、聞いたものを自分で咀嚼して、自分の文章で、自分の文字で書きますからまだいいです。でも今は、先ほども申しましたように詳細な「レジュメ」というものが配られますから、ノートなんて取る必要がありません。だからノートをとりません。ちなみに私の授業は一切レジュメがないです。今日も無いでしょ?あるのは、ご自身で書けるように配られている白紙。レジュメは無いです。しかしほとんどの講義は、教員が一方的にしゃべリ、学生は聞く。あるいはレジュメがあるから、学生は聞く必要もないと安心して、寝るとか、出ていくとか。大体こういう感じです。悲しいことにそれが現実です。
しかし例外があるのです。何の授業だと思いますか?
(会場:先生の授業。)
私の授業ですか。ありがとうございます。確かにたぶん私の授業は例外だと今日は感じて頂けると嬉しいですけれども、もっと一般的に、例外あるんです。
(会場:演習?)
演習ですね。演習という授業あります。演習、ゼミ。おっしゃる通り、私のゼミなんかは、学生たちがどんどん議論を進めて、私の出る幕がほとんどない。なのですけれども、演習にもいろいろあります。多くのゼミでは大体毎週1人、報告者というのが当たっていて、その報告者の学生が前に出てしゃべる。話し手が教員から学生に替わっただけであって、実体は同じです。他の学生はただ聞いている。報告が終わって、教員が「なにか質問ある人いる?」と聞いても、教室内はシーンとしている。そこで教員がコメントして、おしまい。状況は同じなのです。名前は演習ですけれども、前に出て語る学生にとってはひとつの普段にはない経験ではありますが、教室の様子は同じです。私のゼミの学生が他のゼミに行くと、そういう経験をして、残念がっています。さあ、例外、何でしょう。
(会場:試験だ。)
試験! 試験ですね。確かに試験では教員はしゃべりませんね。おっしゃる通りですね。思いつきませんでした。どうもありがとうございます。では科目で言うとなにか例外があります。
(会場:語学。)
語学。いいですね。語学は学生達がやりますね。学生たちが実際にしゃべって書きます。他にはありますか?
(会場:体育。)
素晴らしい。そう、そう、体育です。体育の授業で、先生だけがずーっとしゃべる、あるいは先生だけがエクササイズをする、そして学生達はシーンと座ってずっと見学している、という授業、ありえないですよね。
小学校以来、大学でも体育がありますけれども、体育の授業で実際にエクササイズするのは学生です。生徒です、児童です。教員は、そのアドヴァイスをするとか、模範を見せるとか、課題出すとか、そういう役割です。教員はスキルを身につけるスキームを与えるわけです。理論を説明する時間もあるけれども、基本的には言葉よりも行動で示す。それを学生はまさに「真似て」、「学んで」、やってみるんです。
ほとんどの場合、教員よりは上手くできない。もっと上手くするにはどうしたらいいのかなと考える。工夫する。教員からアドヴァイスを受け、「あ、そこをもうちょっとこうするといいよ。」「あぁ、なるほど」というやりとりをして、習熟していくのです。
私、YMCAという非営利組織で長年、大学生のとき以来、20数年にわたってボランティアでリーダー、今はスタッフをしています。小学生、中高生をキャンプに引率し、夏のキャンプであればヨット、カヌー、アーチェリーなどいろいろ教えますし、冬のキャンプだとスキーを教えます。そのスキーを教えるために大学生だった私はスキー指導法のトレイニングを受けました。要するにスキーの教え方を教わるのです。このトレイニングで六本木信久先生という非常に著名なスキー指導者がおっしゃっていました。午前中2時間、子供たち10名くらいのグループを指導するとき、1人の子供が実際に滑っていた時間をストップウォッチで計って積算すると、どのくらいになると思いますか。
1分半なんだそうです。2時間のレッスンの時間があるのだけど、子供が滑った時間は1分半。移動したりリフトに乗ったり整列したりするほか、他の子が順番に滑っているのを見ていたり、コーチがしゃべるのを聞いていたりする間、滑っていないのです。つまり実際に滑走している時間は非常に少ないのです。
願わくば、子供たちがそのレッスン時間の中でできるだけ沢山スキーで滑る体験をして、スキーを滑るという時間をたくさん得て、身体で覚えて欲しい。そういうレッスンでありたい。そのためにどうしたらいいか。それを工夫しましょうと六本木先生はおっしゃっている。
私は、そういう経験をしてきて、大学でもまったく同じだと思っていましたし、今も思っています。
私が大学生の時、講義中に学生がしゃべる機会はほとんどありませんでした。演習は別ですが、講義では先生がずっとしゃべっている。そこでは学生は知識の受信に終始します。知った楽しみはあるけれども、それ以上のことはない。
法律の授業は特にそうです。法律の授業、法律はつまらない、とよく言われます。「条文はこう書いています」、「判例はこう言っています」、「こういう学説があります」という情報の提供に終始するのが世の中で一般的な法学部の法律関係の講義ですから、当たり前です。
だけど私の願いは違います。学生たちが世の中に出たらどうするか。法律というルールを自分で使って、たとえば取引先と契約を締結します。契約のルールは民法に体系的に書いてあります。基本的なルールは、民法の第3編債権の第2章契約という所に書いてあるんです。それをルールとして実際に使えるようになって世の中に出て欲しいのです。知識では意味がないのです。使えるようになって欲しいのです。
しかし大学の講義でやっているのは、知識の提供がほとんど。
例を出しましょう。自転車、たぶんおおかたのみなさんは乗れますよね。どうやって自転車に乗れるようになりましたか。はるか昔のことかもしれませんが、自転車に自分が乗れるようになった時、はたして、講義を何時間受けましたか。受けないですね。自転車の乗り方マニュアル300ページ、読んだか。黄色いマーカーとか引いてね、熟読したか。受験だとチェックペンといって、塗ってシートをかけると見えなくなるものがあり、それを使って暗記をする。
自転車に乗れるようになった時、マニュアルの暗記とかそんなことやりませんでした。自転車の乗り方の授業を何時間受けようが、一向に自転車乗れるようにならないし、マニュアルを何ページ、何時間かけて読もうが、自転車に乗れるようにはなりません。
どうするかというと、実際に自転車に乗って、コケる。乗って転んで、乗って転んで、を繰り返すしかないんですね。でも学生たちはコケたくない。一番若くても18歳ですけれども、もう、コケるのが嫌なんです。失敗したくない。恥ずかしい。ですから、乗ってコケてという試行錯誤をしたくないのです。授業の中で、自分で考えて、自分で出した解を発言して、それが答えとしてはズレていたり間違っていたりすると堪え難いわけです。
そういう学生たちがいかにして授業の過程で、自転車が乗れるようになるときと同じようなプロセスを経て、法律を使い、ルールを使って、何か新たな価値を創造していくためのスキルを身に付けることができるか。これこそ我々教員が工夫すべき一番重要な課題であり、それを実践するのが教室で行なう授業であります。
「授業」というのは「業」を「授」けるものです。「講義」は「義」を「講ずる」ものですから、先ほど言ったように、こうやって高みから義を講ずればいい。偉そうに。一方的に。義を講ずればいいから、講義は教員が滔々と語る。これでいいわけです。
しかし私は大学であっても、講義ではなくて、授業をしたい。授業は「業」を「授」けるわけです。授ける主語は確かに教員ですが、授かるのは学生であって、学生たち自身が「業」を身につける。授かるためには、自分で業を実践してみるしかないわけです。教室がそういう場であって欲しい。この教壇の上で「講義」するのは偉そうで大嫌いだから、私はいつも学生と同じ床に降りて「授業」します。
そのような「授業」を教室で実践するにはどうしたらいいか。私はその試行錯誤を、教員を始めてから何年もの間ずっと行ってきています。これが「学ぶ」というプロセスに対する私の考え方であり、実践です。今日のお話の本質は何かというと、「学ぶ」とは何か、なのです。もう実は結構しゃべりました。「学ぶ」とは今申し上げたように「learn」、つまり自分で実践して身に付けていくこと、と理解します。そしてそれが法律の分野であれば、法律、条文、ルールを使えるようになること、なのです。
先ほど自転車の比喩を出しましたけれども、私は「授業は体育だ」と本気で思っています。「授業は体育」です。例えば、サッカーの授業で、サッカーのルールを半期15回、毎週毎週、ずっと教室で教えるとします。サカーができるようになりますか。なりません。そんな授業、ありえないです。
法律というのは社会のルールです。ですから社会のルールである法律をこの教室で半期15回、教えたとしても、法律を使えるようにはなりません。サッカーのルールを15回聞いて、サッカーができないのと同じように、社会のルールである法律の話を15回聞いただけでは、ルールを使った仕事、ビジネス、契約、何もできないです。できるようになりません。
どうやったらサッカーできるようになるかというと、サッカーのルールの大枠をとりあえずは知ったうえで、そのルールを実際に使ってみることで身に付いてゆくのです。ボールは足で蹴るのであって手で触っちゃいけないよ。これはルールです。そのルールを知ったら、実際に仕事、ではなくて、試合をやってみる。イレギュラーな球が飛んで来て、手で当ててしまった。「ハンド!」あ、そっか、これがあのルールの適用例なんだな、と身をもって体得するわけです。
もっと複雑なルール、例えばオフサイドだって、実際それはこういうルールです、と頭で知る必要はあるけれど、練習試合をやってみて初めてその意味がわかってきます。例えばディフェンダーのディフェンスラインをどのように動かすとオフサイドトラップをかけることができるか、というのはちょっと高度ですけれども、実際に体育の授業の中で体を動かして、サッカーに習熟する過程で実践することによって身に付くわけです。実践することで、本当に使えるスキルを会得できるのです。そんな高度な話だけでなく、リフティングをする、パスを出す、パスを受ける、これ全部実際にやってみて初めてできるようになるスキルです。
ですから、社会のルールである法律を教える過程もそうでありたい。もちろん体育の授業ほど、実際にやってみられることばかりではないのはことの性質上当然です。刑法199条「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」を知って、実際にやってみることはできないですよ。やってみられない。だけど、本当に実際にやらなくても、シミュレイションすることはできます。
今は自動車の免許を取ろうと思ったらば、シミュレイタを使います。いままで車を動かしたことがない人がいきなり実物の車を動かしたらば危険でしょうがないから、まずはシミュレイタでやってみますね。教習所でなくても、DSとかWiとかでもリアルなシミュレイションができる時代ですけど。
教室では、実際にはできないことでもできる限りいろんな形でシミュレイションをすればいいのです。そういう時間をこの授業の中で、いかに確保するか。スキーで1分30秒しか滑っていない子供たちをいかにしたら、2分滑り、3分滑るようにできるか。それを工夫するのです。
もちろん同時に、知識やアドヴァイスを与える時間も必要ですけれども、そのアドヴァイスを聞いて、知識として知っただけではまったくスキーというスポーツに結びつかない。アドヴァイスの時間は最小限にして、そのアドヴァイスを使って子供たちが実際に滑ってみるという時間を長く確保すればする程、その子はスキーが上手くなるはずです。
教室も同じです。「授業は体育だ」と言っておりますけれども、体育の授業はおよそ身体全部使います。普通の体育の授業は身体全部使う。では教室ではどうか。まさか走り回るわけにはいかない。だけど一番鍛えるべきはこの脳みそです。脳みそは我々の身体の一部です。学生の身体の一部です。だからどんどんこれを使って、エクササイズをする。脳みそのエクササイズです。手を動かします。手は身体から出た脳である。それから、口を動かします。しゃべる。目を動かします。こういった身体のどこかしらの部分を使って、実際に学生達がエクササイズをしていく時間にしたいんです。この授業を。
さあ、そのために、どんなことができるか。それが我々教員の工夫です。本日のトピックの最初に「学ぶとは、教えるとは」と書きました。いま「学ぶ」についてはお話しましたけれども、次に「教える」というのはどういうことか。究極的には、教えないことなんです。教えない。究極的には、教育とは教えないことだと思っています。
実際私のゼミはそうです。ゼミというのは10人から20人くらいの学生達が「ああでもない、こうでもない」って、1つのトピックについて議論し合う場です。私はほとんど口出さない。正確に言うと、口を出す暇がない。学生たちが彼らだけで本当に真剣に議論してますから私が出る必要がない。議論がある程度進んだとき、膠着して学生達でどうしようもなくなったら、学生たちは「shioの意見聞いてみようか」となる。学生たちから私は「shio」と呼ばれるんですけれども、「shioの意見」をきかれます。そのとき例えば、一連の議論の冒頭部分に関して「ところでこの事案って、債務不履行したのどっち?」と問う。学生達はAさんが債務不履行したものだとして議論をずーっと展開してきて、最後のところで結論までたどり着けずに膠着してしまった。よくよく考えてみたらば、実は「債務不履行していたのは、Bさんの方なんじゃないの?」っていうことに気付く。振り出しに戻るわけです。
もし私が最初から「これ、Bが債務不履行していますね?その後、どうなる?」と教えてしまったら、Aが債務不履行をしたとの想定の下になされた議論は一切行われないです。学生達はBが債務不履行をしたという答えを知って、その先の議論します。そうすると、もしAの行為が債務不履行であったならば、という仮定で思考を展開する機会は無い。そういう議論がゼミで実際になされたということは、おおかたの学生は自分では「Aが債務不履行をしたんだろうな」という方向で事案を読んで考えたわけですが、そこに誤謬があるということに、気付く機会すら私が奪ってしまう、教員が奪ってしまうことになる。
もちろんAが債務不履行をしたという立論の可能性はあるんです。だけど、その方向で検討したら最後に行き詰ったので、考え直してみたら債務不履行したのはBの方かもしれない、と。学生達がそうやって自分で議論をしてすべて自分たちでロジックを組み立てて行ったんだけども最後で上手くいかない、という経験をして初めて学ぶんです。要するに、自転車に乗ってコケたわけですね。じゃあもう一回別の過程でロジックを立ててみようということになる。こんどはBが債務不履行をしたという想定で考えてみよう、とトライする。そうすると上手くつじつまが合って、法律構成、ロジックを組み立てることができた。こういう展開の過程で、学生達は「学ぶ」のです。ほんの一例ですがこれがゼミです。
ゼミでは、したがって私はほとんど教えません。今の話でも、議論が膠着した後に私は、「債務不履行したのBでしょ?」とは言ってないのですね。言わない。冒頭から考え直すきっかけだけを与えるのです。その際、水の向け方はいろいろあります。「ちゃんと契約関係を図に描いてみた?」と言ってみると、描いていないんです。で、学生達は描いてみる。体育です。その図を描いてみると、どうやらAとBとの関係において、どちらにどういう債権が発生して、どちらにどういう債務が発生するか、明らかに見えてくる。おのずと「あれ?債務不履行したのって、Aじゃなくて、Bなんじゃないの?」と自分達で気付けるわけです。
人から教わったことなんて、明日忘れます。だけど、自分で考えて、自分で導き出した答えであれば、忘れにくい。仮に忘れてももう一回自分で考えて、そのアイデアを出すことができるはずです。それだけの自信がつくわけです。
ですから、究極的には私は教育とは教えないことだと思うのです。いかに教えずに気付いてもらって、彼らが知的に向上したなと実感できる機会を提供するか。こちらのヒントの出し方次第なので、非常に知的に面白い。
先ほど、学ぶはlearnと言いましたから、「教える」方も英語を並べてみましょう。「教育」です。「teach」もそうですけれども、教育は「education」。「educe」という動詞の名詞形です。educeというのは「引き出す」ことです。educationというのは、したがって、我々教員が何か情報を与えることではないんです。学生の中に既に持っているポテンシャルをいかにして引き出していくか。それがeducationです。
そのために私は問いかける。授業でも問いかける。ガンガン問いかけます。そうすると学生達は、考えます。色んな発言をします。いつもですね、まさにこの教室で著作権法の授業をしています。私が問いかけると、ガッと何人も手が挙がります。一般的な、教員が滔々と語る教室では見られない光景です。何でそうやって学生達が躊躇なく手を挙げるかというと、全ての発言を私が褒めるからです。学生が何を言っても、「なるほど!」「面白いね!」「よく考えたね~」「へ〜」「素晴らしい!」と。
私が想定していた範囲内の発言が98%ですけれども、中には本当に私が感服するようなことを言う学生がいるんです。まだその授業が始まって日が浅いのに、ズバッと本質的なことを言う学生がいるんです。本人それは気付いていないですよ。ものすごく本質的なこと言ったり、私が想定しているのとは全く別の世界の解を出すとか。私は思っていなかったけれど確かにそれはあり得ます、という答えであったりとか。非常に感心するようなことを言う学生がいます。そういう学生がいたら、心底ほめます。
教員が滔々と語る授業では、そういう学生からの光るアイデアが出る機会は一切ないんです。学生からは本当に素晴らしいアイデアが出るんですよ。だって私の半分も生きていないのですから、私よりもピュアで、柔軟。法律学を十何年も研究してしまった私はすでに情報過多なんです。だけど学生達の頭の中はそうではないから、私が想像、想定しないような、非常に優れた解が出るんです。本当に出るんです。学生から私が教わること、たくさんあります。そういう貴重な機会を得られるのが授業なのに、一方的に語り続ける教員は本当に勿体ないことをしていると思います。
話を戻すと私は、ともかく学生達の発言を全部褒めます。それから、法律学においては「人が10人いたらば答えが10個ある」という価値観が大前提にある、ということを各授業の最初に伝えます。ともすると法律というのは、法的な紛争の法的な解が1個ボンッと存在するというイメージを持ちがちです。
特に学生達は人生経験が少ないですからそういうイメージを持ちます。18歳までの体験、大学受験までの体験が、「答えは1個」である、「正解はいつも1個」という世界で生きてきているからです。社会経験が豊富なみなさまは、そんなことない、社会に起こっている問題には色々な解決法がある、ということを熟知されていると思いますけれども、学生達はそうではないのです。絶対に正解が1個あるんだ、と思っているのです。
でも違う。法律問題の解は、10人いたら10個ある、といこうことを学生達に伝えます。信じません。いや、そんなはずはないだろう、とみんな半信半疑です。そこで「では、その法律問題を裁判所に訴えてみよう。裁判って何回できるの?」ときいてみる。基本は3回できます。地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所で、法律の超プロである裁判官が3人とか5人か15人とかで合議して出す判決が、一審、二審、三審でまちまちです。つまり、法律の超プロが合議して出している結論であるのに、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所の結論はすべて異なる。あるいは、結論は共通であったとしても、そこに至るロジックが違う。全く同じであることはまず無いです。全部違います。
「行列のできる法律相談所」というテレビ番組、ご存知ですか。弁護士が4人出てきて、みんな違うことを言いますよね。どれが正解って、無いのです。ありません。法律問題の解に正解はないんです。存在しません。
ですから、それが最初に学生達に伝わり、かつ彼らがそれに納得すると自由を得ます。正解が1個あるとの思い込みを「正解の呪縛」と私は呼んでいます。大学受験までは正解が1個あるという世界でずっと生きてきた学生達が、社会はそうではないんだ、答えは沢山あるんだ、ということを知ると「正解の呪縛」から解放されます。「正解の呪縛」から自由になると、本当に柔軟な解がたくさん出ます。
だから学生達に発言を求めるのです。挙手した学生しか当てません。挙手してない学生をこうやって順番に当てていくのは拷問ですよ。「やだ私、絶対当たりたくない」っていう学生がいますから。なので、挙手してない人に発言を求めることはしません。完全に挙手制です。
そうすると、私が何か問いかけると学生達は手を上げるんです。最初のうちはパラパラですけれども、本当に何を言っても褒めて貰えるんだ、受け入れられるんだ、ということが分かり、かつ、他の学生の意見を聴くと、「いや、俺はそうは思わないんだけどな」という学生が何か言いたくなってくるんです。そうなればしめたものです。ガンガン手が挙がります。
意見が出だすと、挙手が競合します。問いかけるとバーって手が挙がるんですね。早いもの勝ちです、と最初に言っていますが、早い者勝ちも効かなくなる。みんな一斉にダッて手を挙げるから。
ときには私が質問してもいないなのに「はい!」と言って手を挙げる学生もいるんです。クイズ問題が終わる前にボタン押す人いるでしょう?あれとおんなじ。面白いですよね。「何答えるの?」って聞いたりして。
早いもの勝ちが効かなくなってきたら「発言権は前の列ほど高い」というルールにしましょう、と伝える。つまり、挙手が同時にたくさん挙がったら、前の列から発言する権利があるのです。内容にもよりますけれど、5人とか多くても7人くらいの意見を聞いたらもう他は聞けないから、後ろの方に座っていると当たらない。だから私の火曜日1限、1年生向けの「民法1」の授業では、9時始まりですが、8時55分くらいに行くと、前の5列はもう学生で埋まっています。そういう風に学生達のモチベーションを喚起することが、仕組みで実現できます。教室内の授業の運営の仕組みによって、学生達が「発言したいから前に座ろう」「前の席が混む前に行こう」「授業の開始前に行こう」と考える好循環が生まれるのです。私は前の方だけ当てれば済むから、楽です。というのは冗談で、もちろん、後ろの方の学生でも、手を挙げていたら指すようにしますけれども、基本は前が優先。そういうことが起こるのです。
そうすると学生はどうですか。発言します。当然その前に考えます。私はその授業のプロセスで学生たちが声を出すためのウォーミングアップできるように工夫します。例えば条文を開いたら、教室内の全員で声を出して読みます。ここに六法があります。授業のとき例えば「私がこのカメラを学生に1万円で売るという契約をしましょう。」と言ったらば、民法555条の売買契約に該当するので、5条を全員で読むわけです。みんなで5条を開けて、「せーの」で「売買は、当事者の一方がある財産権を相手方に移転することを約し、相手方がこれに対してその代金を支払うことを約することによって、その効力を生ずる。」と全員で声に出して読むんです。
体育です。後ろの方に座って声を出さない学生もいますので、「体育ですよ」と繰り返し言う。だいたいみんな声に出して言うようになります。それから条文を書き写します。書き写してどうするかというと、私(shio)が学生にカメラを1万円で売るという売買契約に登場した、shio、学生、カメラなどを、書き写した条文に代入していくんです。条文に代入できれば、その条文に合致する、その規定をその事実関係に適用できる、ということがわかるのです。
ですから、毎回条文が出てくるたびにそうやって条文の読み方を教え、実際に行ってもらうことによって、学生達は常に何らかの作業を求められることになります。書く、考える、書き込む。書き込んだ結果を、200人、300人といった全員分、私自身が毎回確認することはできませんから、隣の学生同士で見せ合って確認してもらったり、内容によっては5人くらいで見せ合って、議論してもらうのです。ここの「これ」には何が入るんだろうね、などと議論するわけです。
ある程度議論してもらったら、私から質問します。「グループ内で見解が割れた部分はありますか?」と聞くんです。条文を見ながら進めましょうか。授業中もこうやって条文をデジタル黒板に表示するんです。もちろん学生達はみんな手元に六法を持っていますけれども、こうやって実際にデジタル黒板に表示できるんです。今日はこの話ですからね、表示した方がいいですね。条文。
そうして「この『売買は、当事者の一方がある財産権を相手方に移転することを約し、相手方がこれに対して......』にある『これ』という指示代名詞には何が入る?」と問う。そこが、ほとんどのグループで意見が割れて議論になるのです。みんな見解が違うんですね。「これ」は「カメラ」かな?「カメラを引渡すと約したこと」が入るのかな?あるいは「shio」が入るのかな?と議論します。そういう議論の時間をもったあと、それぞれグループごと個別に議論していますから、既にどの学生も何らかの意見を持っている状態になります。ですからそれを全体に言ってもらいます。いろんな意見が出ます。
そういうやりとりの中から、真理を発見していく。こういう授業をするわけです。つまり、教えるという行いは、この教壇から義を講ずる、知識を伝達する、情報を伝えるということではなくて、学生達が自分たちで解を発見できたと思えるような仕組みで運営をしていくというわけです。もちろん私の方から情報を伝達するという側面は多分にあります。演習的なものは先ほど言ったようにほとんど私がコミットメントしなくても学生達が自主的に進めていくことができるようになっていますが、大教室の授業はそうではない。私が、主体的に運営していきますので情報の伝達も当然いたします。しかしそれは、滔々と教え、伝える方法ではない。
このように「教える」プロセスも一般の講義とは違う。なぜなら、学生達が自分達で「学ぶ」、実際に身体の一部を動かして、自ら訓練をして、繰り返して、転んで、学んでいく、学び取っていく、体得していく。会得していく。そういう時間にするための教え方なのです。それを一言でいえば、「授業は体育だ」ということなのです。
さあ、iPad。このiPadが世の中に出た時に、これは授業に使えると思ったというお話をしましたが、実はiPadだけでは実現できないんです。iPadにアプリが必要です。今私がここで使っているのは「MetaMoJi Share」〈注6〉というアプリです。MetaMoJi〈注7〉さんがお出しになったこの
「MetaMoJi Share」や「MetaMoJi Note」〈注8〉というアプリがあって初めて私の「デジタル黒板」が実現できます。
このアプリに関して私は、MetaMoJiさんが開発する当初からずっと色々関わらせていただいています。もっとこういう風にして欲しい、こういう機能を付けて欲しい、この見え方はおかしいからこうしたらかっこよくなる......。色々リクエストをさせていただいています。現在も次のバージョンをテストしています。今見せているのは違います。未発表の製品は見せられませんからね。このアプリがあって初めてiPadを「デジタル黒板」として使えるのです。
例えばレーザーポインタ機能。一般のスライドを見せるときはレーザーポインタで赤いポッチをかざします。このMetaMoJi Shareでもレーザーポインタ、出ます。消えます。このレーザーポインタは文字を書けます。消えます。何を書いたっていいんですよ。こういうことができます。
それから、こうやって画面の一部分を超拡大することもスッとできます。情報量が多いときに特定の情報だけを拡大表示します。レーザーポインタで指し示すよりわかりやすいし見やすい。
今日はまだ、このデジタル黒板に何も文字を書いていない。代わりにあらかじめこういう情報を貼って来ています。先程言ったように普段の授業ではあらかじめ何も貼らず、黒板と同様、まっさらな状態で授業を始めます。まっさらな状態から色々書いていくわけです。ただし前回の授業で学生が提出したペーパーの中に質問が書いてある部分をスキャンして貼り付けておくことはあります。
このように、黒板やホワイトボードに書くのと同じようになんでも普通に書けます。こんどは消えませんよ。そして、黒板よりいいところがいくつもあります。
例えば普通の黒板に書く時、こうやって教員は学生にお尻向けることになります。でもデジタル黒板であれば、みなさんの方を向いたまま書けます。
それから、授業中、デジタル黒板を持ったまま、机間巡視できます。机間巡視というのは、教職を取った方でしたらご存知だと思うんですけれども、授業中に机の間を歩いて見回るということです。机間は机の間、巡視は巡視船の巡視です。小学校から高校まで、生徒達の授業への参加の仕方とか、ノートが書けているかとか、色々見て回る。また、教員が常に前の同じ位置からしゃべるだけではなく、動き回ることによって、声が出る位置、方向が変わっていくと刺激が変化しますから、生徒たちの集中力もキープしやすい。そういったいろいろ意味があって、机間巡視をすることが求められます。大学の大教室の講義ではこれをやっている教員は少ないです。教室が広いですからね。iPadのデジタル黒板だと、「黒板に書く」という機能を手元に持ったまま、こうやって自由に教室内を歩き回れます。
また、学生がノートを取っていて、そのノートをみんなに見せる、みんなに見せたい、いう場合があります。例えば先ほどの「じゃあこの問題を図にしてごらん。」いう場面です。そうすると学生は手元のノートに図を描く。私はしばらく見て歩いていて、「お、この図は面白い」とかいうときに、学生の手元にこのノートを全員に見せたい。どうするかというと、iPadのカメラアプリを起動すればこうやって見せられます。私が書いてごらんと言った図を他の学生がどのように描いているか、教室内の全学生に見せてシェアできるのです。
更に、そのノートに私が加筆をしたい場合、iPadで写真を撮ります。そして、MetaMoJi Shareから「写真を使用」とする。「この学生、こういう図を描いているよ。」「へ〜」「これ、shioなの?ひとつの図にshioが2人いてもいいのかな?」という感じ。ここに私が書き込めるのです。学生が作った図に対して、私は手書きでコメントできる。これを授業の過程でできます。
それから、私が何か図を描いたときに、例えば「Aがカメラの所有権を持っていてBに売ったとします」という図を描いたときに、所有権がBに移転しましたね、ということを、こういう風に表せます。図を動かすことができるのです。もともとこのカメラの所有権がAにあった、それがBに移った、ということを、このように動かしながら話せます。
このようにデジタル黒板では、学生達とのコミュニケーションをリアルタイムに反映することができ、かつ黒板の中を動かすこともできます。普通の黒板に描いた中身は動かせません。この所有権が移ったということを、昔の黒板では「例えばこの黒板拭きを所有権としますよ~」と言って動かしていたんですけど、デジタル黒板だと実際に図として動かすことができます。
これ、あらかじめ作成しておく「スライド」では不可能です。デジタル黒板だとこういったことができます。学生の手元のノートも、こうやってそのまま授業に活かすことができます。
それから普通に黒板やホワイトボードに書くのと同じように書いていくだけあってでも、この仕組みを使うことによって「記録として残る」という非常に大きなメリットがあります。今日は講演会なので、1回分のお話でしかありませんが、半期15回にわたって行う授業だと過去の黒板が全部、手元にあるんです。例えば過去の「民法1」の授業で描いた板書がすべてここにあるんです。
授業中、質問とか、議論とかしているうちに、「それはね、代理ではなくて無権代理の話ですよ。無権代理、3回前の授業でやりましたよね。覚えてますか?」と、無権代理を扱った時の板書を表示する。学生は見覚えのある図を見て、あぁ、無権代理やったな、ああいう図だったな、そうか、これは無権代理の問題か、と理解できる。3回前だろうが、5回前だろうが、以前に書いた板書は全部手元にあります。
法律学というのは体系なので、その理解は積み重ねが必要ですから、過去の授業で扱った内容に思いを至らせて、それも使って目下の問題を解く、という場面が頻繁にあります。学生達は過去に習った内容を使う、という知的作業が要請されるわけですが、だいたい、忘れています。忘れてもいいんです。私は、「ほら、これやったでしょ?」と見せることができます。すると、学生達は自分でノート取っていますから、「ああ、あれか」と自分でも自分のノートを見返せるわけですね。で、その時、どういう議論が行われたか、この画面のビジュアルなイメージとともに記憶が蘇ってくるのです。以前こういうことをやったな、ということが思い出せるわけですね。
それから実は、更にすごいことができます。私が今書いているこの板書、実はここにいる学生役の大学院生のiPadにも全部そのまま映っています。つまり、学生達の手元にあるiPadで私の板書をそのまま見られるようにしたいと思えば、簡単にできる。学生達は自分のiPadで、自分の手元で、その板書の内容を全部リアルタイムで見ることができます。私がこうやって自分のiPadに「このように」と書くと、学生のiPadの画面にも「このように」って、そのまま表示されるのです。私がこういう風にすると、ほら全部出るでしょ?出ていますよね。特に弱視の学生には有益です。
iPadを持った学生が教室にいなくても、地上のどこにいてもこれができます。例えば授業に遅れて登校している学生が電車の中で、授業始まっちゃった、と思ってiPadを開くと、授業の板書がずーっと進んでいくのが見える。今週はズル休みしてインドに旅行に行ってくるといって訪れたインドで、「あ、今、shioの授業の時間だ」と思ってiPadを開いたら、インターネットにさえ繋がっていれば、リアルタイムで板書を見られるんです。ライブで。素晴らしいでしょ?
更に学生が発言するときにも使えます。学生が何か発表する、発言するとき、学生が自分のiPadの画面に書くとその内容がすべて私のiPadに表示される。そのまま教室の前のスクリーンにももちろん表示される。レーザーポインターでも、ペンで書いても色を変えてもすべて。
こうやって学生が授業に参加できます。学生自身が自分の画面に書き込んで「発言」し、その様子を教室の全員で見るということができるのです。この機能、ゼミでは非常に有用です。学生達は、自分が書いているものを全員に見せることができる。それも、一人の学生が滔々と語るわけではなく、「いや、俺はこう思う」と色んな学生が自分の座席に座ったまま、1枚の「黒板」に書込み合うことができるのです。一方、語学学習では、たとえば英文ライティングのクラスで、学生たちが各々自分の手元にあるiPadに英文で作文し、それを教員が教員の手元のiPadで赤字で添削していく様子を全員で見ることもできます。
このようにMetaMoJiさんがお作りになっている2つのアプリ。「MetaMoJi Note」と「MetaMoJi Share」は、大変有益です。板書するだけだったら「MetaMoJi Note」でできます。私のiPadに書いているものが学生のiPadでも同時に見えたり学生が書いたものがそのまま反映されるのが「MetaMoJi Share」です。この2つのアプリのおかげで、
「デジタル黒板」は黒板以上のことができます。最初に申しましたように、ツールを使うことによって今までできていたことよりもできることが減る場合、その用途は限定的です。だから私は授業では「スライド」を使いません。講演などで求められれば使いますけれども、授業では使いません。
一方この「デジタル黒板」は、普通の黒板でやっていたことが全部できる。黒板よりも機能が減ってないから「黒板」と呼べる。黒板でできていたことが全部実現している。ここが出発点です。やっと授業でデジタルなものを使うことができるように初めてなったのです。iPadとアプリの組み合わせです。更に、このデジタルな環境を使うことによって、普通の黒成蹊法学82号講演板ではできなかったプラスアルファがある。ですから、「黒板」に「デジタル」を付けて、「デジタル黒板」と呼ぶことができるのです。
従来できていたことができなくなったり、自由が制限される場合は、新しい物を使う意味は小さいと思います。その価値も小さい。このように、いままでできていたことは全部きちんとできて、それに加えていままでよりもできることが増えれば、授業のやり方も進化させられる。より自分の目指す授業の体制、あるいは授業の進行の仕方を実現することができるのです。
私はいままで20年以上にわたっていろいろなツールを試してきました。そしてこの3年間、このiPadとMetaMoJiのアプリを使い、試行錯誤して色々授業に生かしてしてきました。今のところ、授業のツールとしてこれが最善です。現状、ここまでのことができるのは、これだけです。
本日のタイトルは「iPadを使った『デジタル黒板』で実現する新しい教え方、学び方」でしたが、本質的な意味においては「実現する」とか「新しい」、「これで何かが変わった」というわけではないのです。iPadを使うことによって、授業、教え方、学び方が変わったのではない。従来から行われていた方法を、デジタルデバイスによってさらに進化させたというだけなのです。
それが証拠に、本日のお話、始めの3分の2くらいは、ほとんどiPadやデジタルが話題に上りませんでした。元々我々がデジタルデバイスなんて使わずにやっていたことを、形を変えて行っているだけなのです。ITを使わなくても、授業を良くすることはできる。「良く」というのは、価値観が含まれますが、私の価値観において良くする、つまり学生が主体的にトレイニングを積む場としての教室を運営することが、ITを使わないでできるのです。非ITで実現できます。けれども、それにITを加えたときに、より実りが多くなる。そうなって初めて、ITがITとして、目的ではなく手段として活き、それを使うことによって学生達の訓練の場としての教室がより実益の多い環境になる。という風に考えております。
成蹊大学の機関誌に「ZELKOVA」という冊子があって、年4回発行されております。そのZELKOVAの最新号、今年の2014年夏号にですね、とてもいい言葉が出ていました。「働く成蹊人」というページに「魚を与えて1日を養い、漁法(すなどり)を伝えて一生を養う。」とあります9。お腹が空いている人に魚をわたしても、その日はお腹が満たされるけれども、明日からやっぱり飢えてしまいます。もし漁法を、魚の捕り方を教えたらば、その漁法が身につけば、明日以降も教わった漁法を使って自分で魚を捕ることができます。つまり、一生を養うことができるわけですね。
教室は、教育は、学校は、そうあるべきと思っております。知識の伝授は、魚によって1日が養われたのと同じ程度の価値しかない。なぜなら知識というのは、常に過去の情報だからです。学生達は新しい未来を創っていくのであって、過去を知ることに価値はもちろんありますけれども、新たな社会、新たな人間関係、そして新たな付加価値を生み出していくための手法、スキル、方法論こそ学校で身につけるべきです。実際に使える力をこの学校で学生たちが身につけて、社会に出ていく。学校とはそういう場であるべきだと思うのです。
これは相対的な話ですので、知識の伝授ももちろん致しますが、それは手段であって目的ではない。ここでいう「漁法」とは法学部でいえば、法律を使って新たな契約をするとか人間関係を構築するとかビジネスをするといったスキルに該当します。その漁法を伝えることが我々教員の使命であり、教室はそれを実践する場であると考えています。ですから教室では、学生達が実際にスキルを身に付けるためのさまざまなアクティヴィティを現実に行うという発想で授業を運営しております。そしてそれは非ITで、ITを使わずにも充分にできることであり、ITを使うとそれをより実り多いものにできる、と考えるのです。
ちなみにこの格言というか箴言、もしご存知の方がいらっしゃったら、教えて頂きたいのですが、出典が分からない。出典が分からないものを使うというのは学者としては非常に心苦しい。ここにはこのNGOの理事長がおっしゃったと書いてあるのですが、その方が作った言葉ではなくて、古今東西色んなところで言われているのです。一説によると老子だ、と。しかし調べてみますと、老子は五千字しか残していなくて、五千字の中に魚という字は1回しか出てこない。その1回しか出てこない魚は、別のことを言っている。だから老子では無い。とかですね、色々調べたのですが、残念ながら出典が私はいまだに分かりません。だから、出典が分からない限りは本当はこれは講演で使いたくなかったんです。
しかし、成蹊大学のZELKOVAに載っていたので使わせて頂きました。もしも出典をご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えていただきたい。本当の出典が分かれば胸を張って引用ができる。私、実は著作権法が専門なので、他人の著作物を使うときは著作権法の32条に基づき引用したいですし、引用するには著作権法48条に「出所の明示」というのが義務付けられておりまして、出典を明示できないと使えないのです。ただし学校の教育の課程であれば教員はいろいろと使っていいという35条があるのですが、論文とかに引用ができないのです。ですので、もしご存知の方がいらっしゃったら、ぜひ出典をご教示いただければ嬉しく思います。
ちょうどお時間でございます。私が実際に行っている授業の方法論と、その背景にある思想をお話しをさせて頂きました。ご静聴いただきまして、どうもありがとうございました。
2014年10月15日武蔵野地域五大学共同講演会
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1) 竣工間もない成蹊大学6号館
5) New Oxford AmericanDictionary, 2010
9) 島村隆一「働く成蹊人」, ZELKOVA, 2014年夏号, 17ページ