「講義」で「学ぶ」ことができるか
この「デジタル黒板」をどのような考え方のもとに使っているのかをまずお話ししたいと思います。今回の講座は統一テーマとして「現代社会を生きる、ともに学びつなぎあう」を掲げています。そしてここに「学ぶ」という動詞が入っていますので、私は、喜んでやらせていただきますと申し上げて、本日の講演に至っているわけです。「学ぶ」って、なんだろうか、ということですね。
「学ぶ」は英語で言うと「learn」です。learnとは「gain or acquire knowledge of or skill in (something) by study, experience, or being taught」〈注5〉。つまり知識を得る、スキルを得る、studyして、研究して、practiceして、実際に自分でやってみて、実践して、試して、自分で体験して、教わって......。「learn」というのは、learnする人自身がが自分でやってみる過程で、自ら体得していくことなんです。
「学ぶ」はどうか。よく言われるように「真似ぶ」から来ている。自分で真似てみることなんですよね。「learn」も「学ぶ」も、自分でやってみることが大前提なんですよ。
なのに、今日「学ぶ」という言葉でどのようなイメージを持つでしょうか。知識をいただく、知る、そういう受動的な含みを強く感じる言葉になっているのではないでしょうか。これは由々しきことだと思うのです。現代の「学ぶ」はほぼイコール「知る」、「知識を得る」ということになっています。本来は自分でやってみることなのに、知る、知っただけで学んだつもりになる。でも、知っただけでは学んでいないです。情報を得ただけですからね。自分で使えるようになっていません。
「知る」ってどういうことかと言うと、こういうことですよ。「へぇ」です。この「へぇボタン」、以前「トリビアの泉」というテレビ番組で使われていたものです。トリビアってtrivialです。ささいな、取るに足らないこと。そういう情報を知って「へぇ」って満足する。この「へぇ」っていうのが「知る」です。
知ることにはワンダーがあります。知らなかったことを知って、「へぇ、面白い!」というだけでも、知的な喜びはもちろんあります。昔、NHKで「知るは楽しみなりと申しまして、知識をたくさん持つことは人生を豊かにしてくれるものでございます」と言っていましたよね。「私は当ゼミナールの主任教授です」って鈴木健二アナウンサーが言っていましたが、あれです。つまり、知るというのは、それだけで非常に豊かな広がりを持っている。新しい世界を知るわけですね。
しかし、「学ぶ」は違うんです。「学ぶ」とは、自分でやってみること。私は、教室で学生達に「学ぶ」ということの意味を理解してもらい、かつ、常に実践してもらいます。
伝統的な大学の「講義」というのは、ほとんどの場合、教員が教壇で語り続けるものです。さきほどプロフィールをご紹介いただいたように私は198年に慶應義塾大学の経済学部に入りまして、2年生の時に留年して2年を2度やり、5年かかって卒業し、そのあと法学部に学士入学して3年、4年の2年間行きました。卒業して大学院で修士を2年、博士を3年。都合12年間、大学生、大学院生を経験しております。「お勉強好きなんでしょうね〜」って言われるんですけれど、違うんです。遊び続けているんです。ずっと遊んでいる。だって、好きな事やっているのですから。「法律面白い!」と思ってやっているのですから、「遊び」です。レゴで遊ぶとか粘土で遊ぶとかいうのと全く同じ。
そのように12年間、大学で学生、大学院生をしていたので、概算で年10コマ、1年に10種類の講義に参加したと仮定すると、12年間で120の授業を受けていることになります。それ以降もいろいろな大学の教員の講義を聴講したり、学会報告を聴くとか、他の方々のお話をうかがう機会がありますが、大学の講義に限定してみましょう。
ほぼすべて、教員が一方的にしゃべっていました。ただし30年近く前からの12年間の話です。しかし残念ながら、現在においても状況はあまり変わっていません。90分なら90分、2コマ連続なら180分、3時間、ほとんどすべての時間、教員が話し続けています。これが大学の教室で行なわれている「講義」の実体です。学生がしゃべるという機会はまずない。
ともかく教員が話をする。つまり情報の提供をする。学生の側は「知る」。これが教室です。昔も今も、みなさんのご経験に照らしていただいても、たぶんほとんどの講義というものは、教員が9割以上、しゃべって、聴衆である学生は聞く、という構造で成り立っています。
学生が自分でノートを取ればまだいい。ノートを取れば、聞いたものを自分で咀嚼して、自分の文章で、自分の文字で書きますからまだいいです。でも今は、先ほども申しましたように詳細な「レジュメ」というものが配られますから、ノートなんて取る必要がありません。だからノートをとりません。ちなみに私の授業は一切レジュメがないです。今日も無いでしょ?あるのは、ご自身で書けるように配られている白紙。レジュメは無いです。しかしほとんどの講義は、教員が一方的にしゃべリ、学生は聞く。あるいはレジュメがあるから、学生は聞く必要もないと安心して、寝るとか、出ていくとか。大体こういう感じです。悲しいことにそれが現実です。
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5) New Oxford AmericanDictionary, 2010