訂正可能性の哲学
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第1部 家族と訂正可能性
第1章 家族的なものとその敵
柔軟に共同体の構成原理について語るために
の概念を設立することが重要
友と敵
その対立を抜け出すために
新たな連帯モデルは家族に求められる
これら二つの連帯のモデルをつなげる
コロナ前は
家族の役割を否定的にとらえていたが
コロナ後は
家族の役割を肯定的に捉えるようになる
この3年間、世界各国は
観光客に象徴される軽さ=開放性を否定し
家族に象徴される重さ=閉鎖制に回帰することで
感染症に強い社会を構築しようと試みた
それは避けられない選択かもしれないが
開放性を捨てて閉鎖性に戻るのは単純すぎる
それらは対立するものではない
開かれているものは危険で、
閉じられているものは安心といった二分法は
哲学的にどこまで妥当なのか?
家族否定の歴史
国家
家族の存在を私的所有や集団生活の問題と連動して否定
人間は多様であり、能力が異なる それUS集団で生活し、生産物を交換して、相互の欠落を補うのが好ましい。
そのようにして国家が生まれるが、それが大きくなると、今度は国家を運営することに特化した人々守護者が求められる
守護者は、財産を持つべきでないように、家族も持つべきではない
ここでは支配者階級について述べている
人は公共的であるためには、家族を否定する必要がある
トマスモア
ユートピア
結婚や血縁で結ばれたまとまりであるけれど、我々の知る家族とは全く違う機能を持つ家族を例に挙げている
キリスト教の圧力が弱くなると
家族否定が再度始まる
人間不平等起源論
人間は自然状態では、特定の配偶者も固定した家族も持たなかったはずだ
人類の婚姻は単婚から多婚へ、そして全婚へと進化する
全婚とは 男女の双方が共に
複数の配偶者を持つ行為形式
ルソーやフーリエの家族の否定は抽象的な問題提起であったが
マルクス主義が台頭して実践的なものとなった
20世紀には家族否定=理想国家論を逆手に取った、理想国家批判であるディストピア小説が現れた
オルダス・ハクスリー
素晴らしいあたらしい世界
ジョージ・オーウェル
1984年
ともに公共な領域が私的な領域を完全に飲み込み、家族の親密性が否定される世界を舞台としている。
二人とも近代思想の果てには家族の否定があると考えた
人間の条件
私的な欲望を満たし、私的な行動するだけでは、人間は人間であることができない。
人間は公的な領域に関わるからこそ、人間でいられる、
私的な領域に閉じ込められたいたのでは動物と変わらない。
だから、哲学者は公について考えねばならない。
本当に家族とは閉鎖的で排除的な人間関係でしかないのか?
閉鎖的で排除的な人間関係とは何を意味するのか?
開放的で包摂的な人間関係とどのように違うのか?
プラトンは家族的な組織原理を否定
しかしポパーは
家族を捨てた人々が建設する国家の構想を
それ自体が部族的=家族的だと批判している
納富信留
プラトンの理想が古代の部族国家にあった
そして部族が一般的に血縁集団で構成されることを認めつつも
プラトンのポリス論は反対に血縁や家族の役割を徹底的に測定提案を行っており
その中では集団よりもむしろ個人の素質能力は注意されるはずなので、ポパーの批判は当たらない。
開放性と閉鎖性の区別の難しさのせいで捩れが生じている
プラトンは家族の外に出ようとした
ヘーゲルも家族の外に出ようとした
結果として構想された社会は
社会はポパーには家族的な物にしか見えなかった
家族の外にも家族しかなかった
家族の外にも
家族しかないのは哲学的な逆説ではなく
人類学的な真実とも言える
プラトンも共産主義者もポパーも皆、家族を否定し、自由な個人が集う開かれた社会を構想しようとしたにもかかわらず、
別の家族のイデオロギーの中でしか動けなかった。
家族という言葉にはそのようなとても強い支配力がある。
家族は狭い。そして小さい。だから、僕たちは家族を超えて社会を作る。公共を作る。多くの人がそう信じている。
けれども、ここまでの議論が示唆するのは、もしかしたらそんなのは全て幻で、僕たち人間、所詮は家族をモデルにした人間関係しか作れないのではないかという疑いである。
家族の形が異なるだけで
第2章 訂正可能性の共同体
家族的なものと家族的でないものの区別は明確なものではない
それは論理的な不備ではなく
人間の思考そのものの限界を示している可能性がある
社会は家族よりも広い
にも関わらず結局のところ特定の家族形態に頼ることなしには
想像したり議論したりすることができないのかもしれない
家族という言葉について
柔軟な関係概念として捉え直そう
ウィトゲンシュタイン
論理哲学論考
世界の謎は言葉をちゃんと論理的に使えばほとんど解消される
哲学探究
家族的類似性
親子や兄弟で何らかの要素が似ていて、明らかに同じ家族だとわかるが
全員に共通の特徴を取り出すことはできない
言語ゲーム
前期ウィトゲンシュタインは言葉は世界を記述するためにあると考えた
後期ウィトゲンシュタインは言葉を使ってゲームをしているだけだと考える
人は言葉を使ってゲームをしている
プレイヤーは自分が何のゲームをしているのか理解することができないし、またどんな規則に従っているかも理解できない
ただプレイしている
それが言語の本質
僕たちは普通自分の意図は自分が一番よくわかっていると考えている
しかし、その意図は現実には見ることもさわることもできない
だからいくらでも他者によって素行的に再解釈可能
全てのゲームに共通が見出せない
これは家族的類似性だ
ウィトゲンシュタインは家族を
閉じることができない様を表す言葉として使っている
ソール・クリプキ
ウィトゲンシュタインのパラドックス
後期ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を再検討
ゲームと同じ性格をコミュニケーションの中に見出した
ウィトゲンシュタインの直感的な洞察を論理学的に緻密な理論に変えた
何かの言葉で何かを意味するといったような事はありえない。
新しい言葉の適用一つ一つが暗闇の中の跳躍であり、どのような現在の意図もこれから選択するかもしれないいかなる行為とでも調和するように解釈することができるのである。
規則も意味も本当は存在せず
現在の行為を支えているはずの規則や意味は、未来の行為に照らしていくらでも論理的に素行的に書き換えることができるという意味
現実にはそういうものは排除される
だからこそこれはパラドックスである
規則や意味と言う概念は、特定の行為が成功したのか、失敗したのか、その成否を判定する他者がいなければそもそも成立しないのではないか
reira.iconパースの記号論的な?
ある人の今がその過去の意図と調和しているのかどうか、それを決めることができる真理条件や事実は存在しない
従って、もし一人の人間が孤独の中で考えられるのであれば、規則とはそれを受け入れる人間を導くものなのだという考えは何ら実質的な内容を持たない
規則や意味の成立は原理的に他者を必要とする
解釈項
規則や意味の一貫性なるものが、人が誰を仲間だと思い、誰を仲間だと思わないか、それぞれの共同体の境界を決める判断と不可分に結びついていると言うことを意味する
現実問題では壊議論者に反論しなくても何の問題も生じない
あらゆるゲームは必ずプレイの成否を判定するプレイヤーや観客の共同体を必要とする先に規則があり
それを理解するプレイヤーが共同体を作るのではない
先に共同体があり、それがプレイヤーを選別することで規則が確定する
そのようなテストに合格した個人は、加算する人として共同体に受け入れられる
逸脱した答えを出す人は訂正され、彼らはまだ加算の概念を理解してない人と告げられる
そして十分に多くの点で訂正不可能なほど逸脱している人は、共同体の生活とコミュニケーション、単に参加できない
訂正と呼ばれているものは、共同体の内部と外部の境界を揺るがし、その成員を拡大する契機に他ならない
いかなる共同体も内部の正しさに閉じこもり外部からの参加を配慮したままでは、滅びるクリップティアでプレイヤーの誤りを訂正すると言う形で外部を内部に取り込む論理について語っている
訂正は共同体からプレイヤーだけでなく
プレイヤーから共同体へ向けられることはないのか?
ゲームや共同体が持続するとは、そもそも遡行的訂正の連続なのでは?
クリプキ
先に規則があり、それを理解するプレイヤーが共同体を作るのではない先に共同体があり、それがプレイヤーを選別することで規則が確定する
東
その結論も静的すぎる
現実には規則は移り変わっていく。共同体も移り変わっていく。ゲームそのものが変わっていく。規則規則が共同体を生み出すわけでもなければ、共同体が規則を生み出すわけでもない。むしろプレイヤーたちが繰り返す。プレイについて下される。毎回の成否の判断、そしてそれに付随する訂正の作業こそが、規則と共同体を共に生み出し、ゲームの形を動的に更新していくと考えるべきではないであろうか。
プラトンやヘーゲルやパパは家族を閉ざされた共同体だと考えた。それは長い哲学の歴史において規定されたものけれども、ウィトゲンシュタインとクリプキから来出した。本論の枠組みにおいては、家族はもはや閉ざされた共同体だとはみなされないかといって開かれているわけでもない。
新しい家族をヴィトゲンシュタインン的な意味での言語ゲームに参加するプレイヤーの共同体だとして定義する。規則は変わる。伝統や習慣や価値観は時代に応じて変わるプレイヤーも入れ替わる。古い世代は死に新しい世代が生まれるけれども、何もかもが変わっていくにもかかわらず参加する。家族プレイヤーたちはなぜか皆、同じゲームに参加し続けていると信じている。その矛盾したダイナミズムこそが家族の本質
家族は閉じているとも開かれているとも言える
はっきりとしたアイデンティティーがあるわけでもなく、参加者が固定しているわけでもなく、新しい状況に合わせて姿を変えていきながら、それでも同じ何かを守り続けていると主張する組織や団体政党にしても、企業にしても結社にしても、あるいは国民国家そのものにしても、世界にはそのような存在が溢れているが、その強さの源泉は何なのか
家族的類似性と訂正可能性の上に設立される新しい繋がりの概念
全てが訂正されるにも関わらず、同じものが残り続けるという逆説
クリプキ
名指しと必然性
固有名詞は定義の束に還元することができない、固有名の指示対象は一体どのようなメカニズムで定まるのか
「実は〜〜だった」定義の揺らぎ
ソクラテスと言う記号が、今までずっと男性の哲学者を支持するものとして定義されてきたのに、ソクラテスは実は男性ではなかったといった命題が有意味に成立してしまうのはなぜかと言うものである
先ほどのパラドックスにおける懐疑者と変わらない
クワス算の逆説と固有名の逆説は
ともに記号の遡行的な訂正可能性に関わって生じる
日常的に何かを意味していると信じて言葉や記号を用いているけれども、その意味は1人で確定できない。自分である言葉であることを意味したと確信していても、後から実は同じ言葉で別のことを意味していたのだと言われたら、原理的に反論できない
家族の概念は、特定の固有名の最低限を普段に繰り返すことで持続する。1種の会社共同体だと定義することができる。実際国家にしても企業にしてもあるいはブランドにしても長く続く共同体になるものは皆私たちは〇〇だったと言う素行的な気づきの連続によって持続している。
固有名は、その定義を遡行的に訂正することができる。だから、一般名とは異なる論理的な挙動をする。この固有名の奇妙な性格こそが開かれているものでも閉じているものでもない家族と言う第3の共同体の構成原理となる。
固有名の定義も、ゲームのルールもいくらでも変わりゆくものでしかないにもかかわらず、僕たちは同じ名を使い続け、同じゲームをプレイし続けていると信じている。少なくともそう信じているかのように振る舞っている。
第3章 家族と観光客
家族とは
訂正可能性に支えられる持続的な共同体
として再定義
家族の構成原理
強制性
偶然性
拡張性
家族とは
成員も規則も何もかも変わっていくにも関わらず
参加者たちはなぜかみな
同じゲームを行い、同じ何かを
守り続けていると信じている共同体
そんな家族ゲームの中に、いかなる同意もなく新しいプレイヤーとして生まれ落ちる
ゲームはすでに存在しているのだから
参加は強制的でいかなる必然性もない
規則は常に遡行して訂正可能なので、家族というゲームは拡張可能性に開かれている。
カールシュミットの政治的な本質に対する批判
友でも敵でもない第3の立場に観光客を据える
例えば、古い小さな村
住民は友で、よそ者は敵となる
普通はその分割で事足り得る
そこが観光地に変更し、毎年住民の数倍の数の観光客が訪れるようになったとしよう。観光客は村を通り過ぎていくだけだから、友とは言えないともに村の未来を作るわけでもないし、ゴミなどで迷惑を被ることもあるけれど、敵でもない 経済的には恩恵を与えてくれるし、新しい住民も連れてきてくれるかもしれない。今までの政治層はそのような中途半端な参加の意味についてあまり考えてこなかったのではないか。そこが問題提起
現代は、政治に溢れた時代である地球規模の 環境問題から、国家間の紛争個人間のハラスメントまで、毎日のように、新しい政治的な問題が提起され、当事者や専門家がそれぞれの立場から正義を企んでいる。あらゆる問題がロンソン対象となり、人々や友と的に分かれ争っているが、マルクス主義のような大きな枠組みはもはや存在しないので、現実は調べれば調べるほどわからなくなる。それ故、多くの人々は、全てを単純な陰謀論で、切り取り心の平穏保つか、あるいは全てに無関心になって、麻痺するか、どちらかの状態に陥っているように見える。それがポピュリズムとフェイクニュースに溢れた現代社会の基本的な条件だ。
何かについて、断片的な情報しか入手。できないまま共にもならず的にもならず、中途半端にコミットすることの価値を改めて肯定する必要がある。
加算の規則すら完璧に提示できず。ソクラテスの名前すら完璧に定義できない。
単純なものにおいて、すら原理的に、他者からの訂正可能性にさらされている
もっと複雑な事例だったらどうか誰が完璧に正しく言葉を使い正しく現実を認識できているのだろうか。僕たちはむしろあらゆる事例について、常に想定外の発見や新たな被害者が現れることを織り込み、理解の訂正が必要となる可能性を意識しておくべきではないだろうか。
誤配
メッセージが届くべき人に届かないこと。逆に届くべきでない人に届いてしまうこと届いたとしても、想定外のタイミングで届いてしまうことなどを意味する。
グラフ理論によれば、閉鎖的でありつつも開放的であると言う。その二面性はつなぎ替えと呼ばれる操作を仮定することで実現可能になる。つなぎかえとはたくさんの頂点が線分で繋がれることによって作られている。ネットワークにおいて、各頂点を視点とする線分の終点を、特定の確率でランダムに選ばれた他の頂点に付き替える操作を意味する専門用語
つなぎかえが数学的な誤配の実体
つなぎかえと訂正可能性
加算の共同体に懐疑論者がやってきて、規則がクワス算に変わる。あるいはソクラテスを指す。共同体に新事実の発見者がやってきて、指示対象が女性に変わる。そこで起きているのは、まさにそれまで共同体内で伝承されてきた規則やルールのつなぎ会だからである。共同体はそれまでプレイヤーの間で共有されていた意味や規則のネットワークが、ランダムなつなぎ会によってはんば強制的に訂正されることで持続性を獲得する。
誤配が閉鎖的かつ開放的な人間関係を可能にすると言うグラフ理論の数学的な発見は、実は訂正可能性が家族的な共同体を可能にすると言う発見と本質的に同じこと
家族は観光客で作られる
家族は誤配で生まれ
訂正可能性によって持続する
これは抽象的な理論であるとともに、極めて具体的な記述でもある。僕たちは家族を作る。その過程で、思わぬ人と出会い、思わぬ人と結婚し、思わぬ子供を作る、あるいは思わぬ別れや死に直面する。何一つ予想通りの事などない。家族や人生の運命なるものは、素行的に様々な訂正によって言ってみれば、捏造されたものでしかない。誤配と、訂正の連鎖こそが、現実の人生の特徴である。
家族とは神聖で、親密で運命的で、そして訂正不可能な閉ざされた共同体だと言う発想の方が、よほど非現実的じゃないか
第4章 持続する公共性へ
保守とリベラルの対立
リベラルが弱まっている
思想史的に正しくない
保守は革新と対立
社会変革への消極的な態度を示す
リベラルは自由という意味
個人と社会の関係を示す
それゆえそれらは対立しない
なぜ今の日本では保守とリベラルが対立して理解されるのか
宇野重規
日本の保守とリベラル
保守とリベラルの対立はそもそもアメリカのものである。アメリカ二大政党では共和党は保守で民主党はリベラルだとされている。 では、アメリカでなぜその対立が有効に機能したかと言えば、アメリカではすなわち共産主義や社会主義が政治的な力を持つことがなかったからである。アメリカではみながリベラリズムを支持していると言う前提の上、古典的なリベラリズムを守る側が保守現代的なリベラリズムを推進する側がリベラルだと言う独特の差異が成立。他方で冷戦期のヨーロッパでは、政治はまずリベラリズムと共産主義の対立によって、つまり右と左の対決によって語られた。日本はこの点では、アメリカヨーロッパに近い。
冷戦構造が崩壊し、共産の存在感がなくなった。1990年代以降、日本でも皆がリベラルを支持していると言う前提が曖昧のままその保守とリベラルの対立が新たな政治の軸として輸入されることになってしまった。結果として、アメリカ式に星とリベラルを対立させてはいるものの、実態はかつての看板だけを変えたものであり、今もなお本質的には保守と確信の対抗図式が持続していると捉えることが可能
仲間との関係を優先する立場が保守
日本人から救う
普遍的な連帯を主張する立場がリベラル
普遍的に救う
それぞれと親和性を持つ
もはや従来の保守と革新は存在しない
リベラルと言われる方が護憲
保守とリベラルの対立は閉鎖性と開放性の対立に重なる
法や制度は万人に開かれればならない。それは正しいけれども、肝心の閉鎖性と開放性の対立がそれほど自明なものではない。
リベラルも閉鎖的
保守は閉ざされた村から出発する。リベラルはそれを批判するけれども、そんなリベラルも結局は別の村を作ることしかできないのだとすれば、最初から開き直り村を肯定する保守の方が強い
家族論の政治的な応用
ローティを含む西側先進国の住民は、自由で民主的な世界に生きている。彼はまずその素晴らしさを肯定する。それができない古い左翼を批判もしている。 けれども同時にその自由が決して無制限な自由でないことにも注意を促している。自由で民主的な世界においては、確かに誰もが自分の好きな神を信じることができる。革命の物語でも、陰謀論でも好き勝手に主張することができるけれども、それはあくまでも個人の趣味の範囲においてのことである。それを超えた夢を抱き、本当の社会変革を試みる事は許されない 自由民主主義になるものは皆がその限界を受け入れることでかろうじて維持されている。それが老人が主張していること。
リベラルアイロニズムの自己矛盾は、いわば自由民主主義の統治原理が支払われるを得ない思想的な代償なのだ。
理論は人間の連帯よりもむしろ私的な完成のための手段になった
ローティ「哲学はもはや趣味wwwww」
何によって新たな連帯を基礎づけるべきなのか?
共感や想像力
これからの連帯を支えるのは
「私たちが信じたり、欲望したりしていること、あなたも信じたり、欲望したりしますか」と言う信念に関わる問いだけではなく、「あなたは苦しんでいますか」というより、単純な身体的な問いであるべきなのだと
前者は 特定の伝統や文化世界観や道徳観などの共有を確認するものである。私はある思想を信じているあなたも同じそう信じていますか信じているなら連帯しようと言うわけだ。
このやり方は本質的に自由民主主義の原理に反する
後者
目の前の他者が感じている苦痛への共感の方が連対の基礎として有望
目の前の人が誰でも手を差し伸べる
私たちリベラルという
リベラルの保守という捩れは避けられない
ローティの連帯の構想は、結局リベラルの保守化を示すものに過ぎないのか?
それは違う
彼は普遍的な理念が支える連帯を信じなかった
彼が信じる連隊は
具体的な人生に対する具体的な共感に支えられるもの
他人の人生の細部への想像力による同一化
事例
第二次世界大戦のヨーロッパでナチスの圧政に、荒い隣人のユダヤ人をかまったり、逃亡を助けたりした多くのイタリア人やデンマーク人がいた
ティは、そこで彼らは隣人が同じ人間だから、人類愛の精神に基づいて助けたのだろうかと問いかける
だが、そうではないと答える。
人間と言う観念は、命のリスクを犯してまで、他人を助けるには抽象的すぎるからだ。
現実的に共感の引き金として働いたのは、この人は同じミラノ陣である。同じユトランド人である。同じ職業組合に属している同じ子供を抱える親であるといった細部への同一化ではないか
多くの人は人類よりもはるかに小さな「私たち」にしか共感できない
ローティは連帯の範囲は共感の経験そのものによって変化していくと考えた
連帯とは
苦痛と屈辱の点における類似性に比較して、伝統的な差異がどんどん些細なものに見えてくる能力
私たちから大きく、異なった人々を、私たちの中に包含するものと考える能力
この漸進的な変化に希望を見出す
現状の共感共同体への単純な居直りでない
ローティは民族中心主義を肯定するかのような文章を記すが、両義的である
ローティは私たちリベラルについて、それは自分自身を拡張し、より、大きな1層多様性に富むエトノスを創造するために身を注げる エトノス自身を拡張し多様化するエトノスであるべきという再帰的な定義
偶然性
共感や想像力は「わたしたち」から出発するしかない
わたしたちとはとても偶然的である
特定の国に生まれ落ちるそれも偶然
アメリカ人なり日本人なりに生まれ落ちる。それは避けられないしその限りで想像力の限界を抱く。しかし同時にその条件はその想像力の範囲には何の必然性もないことを意味する。僕たちがアメリカ人だった。日本人だったりすることには必然性がない。したがってアメリカ人風に考えたり、日本人風に考えたりすることにも必然性は無い。その徹底した根拠の不在、それを偶然性を自覚するのが彼の言うリベラルアイロニスト
根拠の不在を梃子にして、共感の範囲をいくらでも書き換えることができるはず
私たちの範囲は根拠が薄弱なのでいくらでも修正し拡張できる
家族と偶然性・アイロニー・連帯
家族、つまり訂正可能性の共同体の構成原理には、強制性と偶然性と拡張性の3つの特徴がある。ローティが構想する。新しい連隊はその3つの条件を見事に満たす
連帯は「わたしたち」から始まる
僕たちは生まれ落ちる場を選択できず、「わたしたち」の共感の範囲も選択できない
それは強制的で排除的に感じられる
同時に「わたしたち」の輪郭が曖昧で、具体的な他者への共感によっていくらでも拡張することができる
「わたしたちは」は同じ「わたしたち」を保っていると信じたまま、内実を漸進的に変化させることができる
ローテクの思想は
閉じた社会に居直るのものでも開かれた社会を目指すものでもない。つまり保守でもリベラルでもない第3の家族的な政治思想を考える上で重要な参照点
リベラルは開かれていることを正義だと考えている
公共性
斉藤純一
公共性
共同体が閉じた領域を作るのに対して、公共性は誰もがアクセスしうる空間である
公共性ってリベラルが常に使っている言葉ではなかった
ハンナ・アーレント
ユルゲン・ハーバーマス
公共性の構造転換
公共性を閉じた共同体と対立させ、解放性として定義すると言う斉藤の立論は、実はそれ自体がリベラルが保守からこの言葉を奪い返すために行った企ての1つだと解釈できる
ハンナアーレントは公共性を開放性のみで定義したのではない
開放性と持続性によって定義した
解放性としての公共性は、活動によって可能になり、持続性としての公共性は政策によって可能になるだとすれば、公共性の質は活動と開放性だけでなく、政策と持続性の観点からも判断されなければならない
このように理解したアーレントの公共性こそが論が論じてきた訂正可能性の概念と深く関係していると考える。
活動家は自分が誰なのかわからない、たとえ、活動者自身による提示があっても制作者によっていつでもそれは訂正されうるし、その方が力が強い。
人は、普通は 属性に閉じ込められている
けれども現れの空間では、固有の人格として現れることができる。リベラルはそのように主張してきたが、本当は現れだけでは、公共世設立しない公共性は現れの空間に現れた固有の人格なるものを製作者と言う他者が記録して、共通の世界の中に定着させることで初めて生まれるのだ。そしてそこでは、製作者が活動者の自己理解を訂正してしまうこともあり得る
活動者は自分が誰であるかを訴える。例えば自分は今までの政治家とは違う社会を変えるだから投票してくれと有権者に向けて訴えるけれども、その自己理解が正しいかどうか決めるのは、あくまでも構成の歴史からいくら正しく行動したつもりでも、時代とともに倫理基準が変わり、お前は実は腐敗していた。実は差別主義者だったと言われたら、それには原理的に反論できない。
東京生にはそういう残酷な性格がある
そしてそれはクワスやソクラテスの例を出して論じてきた言語ゲームの性格そのままである。
アーレントは、社会の基礎にある公共性を訂正可能性に支えられた、持続的な共同体、すなわち家族として構想していた
アーレントの整理層はたくさんの人間がいると言う単純な事実をとても重視している。人間がたくさんいると言う事は、人間が生まれていると言うことである人が絶えず新しく生まれ、新しい思考の可能性とともに参入してくることこそが、公共性を支えている。彼女は 子が生まれ、人が増えると言う。その単純な事実が思想的にとても重要であることを理解していた。数少ない哲学者の1人だった。
世界が持続すること人が生まれものが作られ、歴史がつながっていくこと、その工程から始まるアーレントの性質は、彼女自身が家族という言葉を使わなかったとしても、僕にはまさに家族の哲学の名にふさわしいように思われる。開かれているとか、閉じられているとかは、その後に来る話だ。
アーレントは制作をポイエーシスというギリシャ語で言い換えている
結論
市民社会と家族
開かれた公と閉ざされた私
リベラルと保守
といった対立を脱し
共同体のあり方について考えるためには
ウィトゲンシュタインとクリプキの哲学から引き出せる
訂正可能性の考え方に注目し
家族の概念を再構築することが必要だと提案
共同体の同一性が絶えず訂正され続けるということ
それは共同体が持続可能だということでもある
ポピュリズムは一過性の祭りに過ぎない
リベラルの衰退の一因とおも思われる
政治が目指すべき公共性は
開放性の場としてだけでなく
同時に持続可能な場として
従って訂正可能性の場としても構想されなければならない
私たちは、リベラルなアイロニストとして、あるいは再帰的な保守主義者として伝統を守るために変える。
あるいは変えるために守る。そのような両義的な態度を持って社会に接さなければならない。おそらくそれだけが人間にできること。
人間は常に誤る。正義はその訂正の運動でしかない。正義や開かれていることにではなく、常に訂正可能なことの中にある。
第2部 一般意志再考
第5章 人工知能民主主義の誕生
第6章 一般意志という謎
第7章 ビッグデータと「私」の問題
第8章 自然と訂正可能性
第9章 対話、結社、民主主義
終わりに