観光客の哲学
https://m.media-amazon.com/images/I/71OiLKAv6hL._SL1500_.jpg
閉じた系に外部情報を入れることは
哲学者の中でも重要と語られているが
閉じた組織に他者を入れることは
文脈的に批判や視座の違いが多分に含まれてしまう
他者=観光客という捉え方をしていく
観光客という存在について哲学的に考えられていないため
0からその存在の意味を考えていく
観光とは
観光という言葉の歴史は浅く
19世紀に誕生したと考えられる。
観光というものが
大衆社会や消費社会の誕生と結びついており
新しい交通や新しい産業が結びついてできたものと捉えられる
本質と非本質の捩れ
哲学では
本質と非本質が捻れることが
本質みたいな感じ
他者の欲望を欲望する
再帰的近代化
観光客は現実の二次創作者
最善説
この世界は最善を尽くしている
いやこの世界に間違いはたくさんある
世界は間違いに満ちているのか?
グローバリズムについての新たな枠組み
先進国内部での貧富の差を広げたが
国家間での貧富の差を縮めた
今や世界は急速に均質化している。
トーマス・フリードマン
「フラット化する世界」
どこの国に行っても
同じ広告
同じ音楽
同じブランドのショッピングモールに出会う
観光客の急増は
このフラット化と関係する。
人間や社会について、必要性からではなく不必要性から考える。
観光は
本来ならば行く必要のないはずの場所にふらっと訪れ
見る必要のないものを見る
会う必要のない人に会う
ディズニーシーは仮想的な世界旅行で
その観光の本質は本当の世界旅行のそれと一緒
フーリエは
ショッピングモールこそユートピアである
その基礎に当たると考えた。
新たな産業と新たな技術に支援された
新たな階級が集う
新たな消費空間の出現は
ユートピアを感じさせた。
真面目と不真面目の境界を越える
真面目と不真面目な境界を
超えたところに新たな知的言説を立ち上げる
学問人たちは真面目に目を向けすぎ
現実問題は不真面目から起こることがある
テロリズム
不真面目な問題に
真面目に取り組むのは至難の業
原因究明などがあやふやになったり
追求ができないみたいなことが起こる
政治的な思考は
不真面目に弱く感じる
公的に政治とは友と敵を分けることがだ
これは真面目な行為という限定している
真面目な枠組みで
なんの目的も持たない不真面目なものに
どのように対処すれば良いのか
人間は自分のことしかわからないが
一人では生きていけない
特殊性と普遍性の折り合いをつけているのが
国民になること
人間がきちんとした人間になるためには
家族の一員になること
市民社会で他者に触れること
とは別に
上位の共同体に属することが
絶対的に必要
即自や対自とは別に
即自かつ対自が必要
人間は人間が好きではない
人間は社会を作りたくない
にもかかわらず人間は現実には社会を作るなぜか?
ヘーゲルは
人間は国家をつくり
国民になることで
社会を作りたくなかった
未成熟な自分を克服することができるからと答える
国家の輪郭を明らかにする政治
人は普遍的な意志を
特殊な意志として内面化することで
初めて精神的に成熟し人間となる
その契機は
家族でも市民社会でもなく
国家だけが与えることができる。
国家がなければ人間になることができない
有敵の区別がなければ人間になることができない
ヘーゲルとシュミットのパラダイムは
観光客の哲学の障害になる。
村人でも旅人でもない観光客は
人間未満の未熟な存在になり得る
祖国の体制を離れ
個人の動機に基づき国境を超える観光客の集団は
原理的に政治的思想の対象にはなり得ない
国家への初濁を解さずに
普遍と特殊を重ね合わせるメカニズムを考える必要がある
家族から市民へ国民へ世界市民へ
といった単線的な物語から外れるもの
それは近代思想の枠組みでは原理的に政治の外部とされている
むしろそこに新たな政治の回路がある
それこそが観光客の哲学
観光客の哲学の問題
動物
ポスト歴史の世界でも
人間は社会活動をする都市を作り文化を作る
それは人間の活動とは言えない
動物の戯れに近い
人間と人間の生死をかけた闘争がなくなり
国家と国家の理念をかけた戦争が解消され
世界が一つになり消費活動しか存在しなくなった時における
人間の消失を
シュミットは政治の喪失
コジェーヴは歴史の終焉(動物化)
グローバリズムへの批判
観光客の思想的な意味について考えることは
ポスト歴史の動物の思想的な意味について考えることに他ならない
消費
人間の条件
人間には生物学的な人間であることとは別に
人間として生きるための独特の哲学的条件がある
現代はその条件を失っている
人間が行う社会的な行為
活動
仕事
労働
活動と仕事は意味を与えるが
労働は与えない
にもかかわらず
現代社会では労働が優位になっているのが問題
人間は顕名で
他者と議論し
公共の意識を抱くときに
初めて人間であることができる
けれども匿名で他者との議論がなく
生命力を自分一人の賃金と交換しているときには人間であることができない
友と敵の境界を引き政治を行うものが人間
経済的な利益だけを追求する人間が出てきたから
コジェーヴ
他者の承認をかけて闘争するものが人間
闘争も歴史も必要とせず
快楽に自足する人々が顕れた
アーレント
広場で議論し公共を作るものこそが人間
労働する動物が現れたから
彼らは
経済合理性だけで駆動された
政治なき友敵なきの大衆消費社会を批判するためにこそ
古き良き人間の定義を復活させようとしている
観光客は大衆である
労働者であり
消費者である
観光客は私的な存在であり
公共的な役割を担わない
観光客は匿名であり
訪問先の住民と議論しない
訪問先の歴史にも関わらない
政治にも関わらない
観光客はただお金を使う
国境を無視して惑星中を飛び回る
友も作らなければ敵も作らない
そこにはシュミットとコジェーヴとアーレントが
人間ではないものとして
思想の外部に弾き飛ばしたほぼ全ての性格が集っている
観光客はまさに
20世紀の人文思想全体の敵
そこを考え抜けば
必然的に20世紀の思想の限界は乗り越えられる。
第4章二層構造
匿名で動物的な欲求に忠実で
誰の友にも誰の敵にもならず
ふわふわと家間を移動する観光客
彼らがもし公共な可能性を開くとすれば
その公共性はどのようなものであり得るか
ヘーゲルは
国家を
市民社会の自己意識だと捉えた
現代はナショナリズムの時代ではないかといって
単純にグローバリズムの時代でもない
現代では
ナショナリズムとグローバリズムの2つの秩序で
権利が政治と経済の2つの領域
それぞれ割り当てられて重なり共存している
2層構造の時代
観光客の哲学とは
政治の外部から立ち上がる
政治についての哲学
動物と欲望から立ち上がる
公共性についての哲学
グローバリズムから可能にする
新たな他者についての哲学
ネグリとハートの帝国
グローバル化が進む冷戦後の世界を帝国と呼び
それは複数の主権国家の合従連衡からなる
それまでの秩序とは異なる
全く別の秩序を生み出している
帝国とは
グローバルな経済的あるいは文化的な効果をスムーズに機能させるため
国民国家とは別に
国家と企業と市民が共に作り上げる新たな政治的秩序の意味
郵便的マルチチュード
観光客とは
帝国の体制と国民国家体制の間を往復し
私的な生の実感を私的なまま
公的な成人につなげる存在の名称
マルチチュード弱点は
第一に
帝国の内部で
帝国自身の原理から生み出される反作用
第二に
多様な生を多様なまま共通点なくして連結する
否定神学的な連帯の原理に依存するもの
マルチチュードがなぜ生まれるのか
そのメカニズムがうまく説明されていなかったし
また生まれた後の拡大の論理も無理があった
否定神学とは
存在し得ないものは存在しないことによって存在する
と言う逆説的な習字を指す言葉
郵便は
存在し得ないものを端的に存在しないが
現実世界の様々な失敗の効果で存在しているように見えるし
その限りで存在するかのような効果を及ぼす
郵便的マルチチュード=観光客
観光客がマルチチュードであること
毎年10億人以上が世界中に送り出され
イデオロギーなく消費に応じる観光客ほどの
群衆あるいは集合という意味を持つ
郵便的とは
あるものをある場所にきちんと届けるシステムを指すのではなく
誤配
配達の失敗や予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態という意味
観光はまさに郵便的
日本では出会わないはずの事物に
海外で出会っちゃったりする
ネグリたちのマルチチュードは
あくまで否定神学的なマルチチュード
彼らは連帯しないことによる連帯を夢みるしかなかった
観光客と言う概念のもと
その郵便感を考えると
絶えず連帯し損なうことで自己的に精製し
結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまう
そのような錯覚の集積が作る連帯を考え
人が誰かと連帯しようとする
それはうまくいかない
あちこちでうまくいかないけれども
あとから振り返ると何か連帯らしきものがあったような気がしてくる
そしてその錯覚がが
次の連隊の失敗の試みを後押しする
人間社会複雑ネットワークの特徴
大きなクラスター係数
あるネットワークの中に
どれほど多くの仲間が作られているか
それを表す数学的指標
現代社会の人間関係や
企業間の取引関係など
人間社会の様々な関係をグラフとして抽象化するとこのクラスター係数が大きくなる
社会は決して個人の集まりじゃない
個人がいる、いない、世界があるのではなく
家族や地域職場など人間関係の三角形が重なった
中間集団がいくつも存在し
社会はそれがさらに重なることで成立している
その状態をクラスターケースが大きいと表現
小さな平均距離
友達の友達の友達のとたどっていくと
意外と早くネットワークの構成員全体を覆えてしまう
ワッツ
ストロガッツ
ドゥルーズ
フェリックス
千のプラトー
ツリーとリゾーム
2つの異なったネットワークの形をもとに
2つの異なった社会思想を構築する可能
ツリーは木
リゾームは根茎
人間社会には
スモールワールド性
スケールフリー性
一方には
多数のクラスターが作る狭い世界があり
他方には次数の劇場分布が作り出す不平等の世界がある
しかしそれは僕たち人間が同じ社会を前にして
スモールワールド性を感じる時
スケールフリー性を感じる時があることを意味している。
観光客あるいは郵便的マルチチャードは
スモールワールドをスモールワールドたらしめたつなぎ替えあるいは誤配の操作を
スケールフリーの秩序に回収される手前で
保持し続ける抵抗の記憶の実践者
優先的選択によって繋がれてしまったものを観光によって繋ぎ直す
誤配を演じ直す
出会うはずのない人に出会い
行くはずのないところに行き
考えるはずのないことを考え
帝国の体制に再び偶然を導きで
集中した枝をもう一度つなぎ替え
優先的選択を誤配へと差し戻す
そのような実践の集積によって
特定の頂点への富と権力の中央には
いかなる数学的な根拠もなく
いつでも解体し転覆し再起動可能なものであること
この現実は
最善の世界ではないことを人々に常に思い起こさせる
そのような再誤配の戦略が
国民国家=帝国理想化の時代において
現実的で持続可能で
あらゆる抵抗の基礎に置かれるべき必要不可欠な条件
あらゆる帝国誤配の再演場から始めなければならない
それが観光客の原理
ローティの思想は
本書の二層構造論と
綺麗な符号を見せている
公的な振る舞いと
私的な信念の分裂を受け入れるべきだと提案
現代人は
国民国家の体制
帝国の体制の間に
引き裂かれていると言う
ルソー、ローティも
誤配の哲学者だ
誤配こそ
ヘーゲルが見なかったものであり
回復しなければならないもの
観光客の哲学とは
誤配の哲学
連帯と哀れみの哲学
誤配がなければ社会すら作ることができない
家族の哲学
観光客が
拠り所にすべきアイデンティティはなんなのか
家族
観光客の哲学は
家族の哲学によって補完されねばならない
国民国家と帝国を往復し
誤配と哀れみを広げる
郵便的マルチチュードの戦略は
新しい家族的全体に支えられなければならない
社会構造がイデオロギーといった威張る上部構造によってではなく
単純に家族形態によって決定されていることを明らかにした
例えば共産主義は
一般的にはそのイデオロギーの魅力で世界に広まったと考えられているけれども
家族形態を調査すると
共産主義が合意する倫理と
外交性共同体家族の合意する倫理がぴったりと一致したことにあるのではないかと指摘
共産主義は内容によってではなく
それが外因するコミニケーションの様式と
それぞれの地域の家族形態との親和性によって
需要の可否が決まっていた
強制性
家族は自由意志では
そう簡単には入退室ができない
集団であり
同時に強い感情に支えられる集団でもある
家族なる者には
合理的な判断を超えた強制力がある
人は個人のために死ぬ
国家の為にも階級の為にも死ぬ
同じように、家族の為にも死ぬ
家族が新しい精神基礎
人は趣味のサークルのために死なない
それは新しい政治の基礎になり得ない
偶然性
人は親を持たないことはできない
両親からすれば生まれた子供がその人だったのは偶然であり
子供は親を選べないと言ったりするが
それは哲学的には正解で
確かに親を選べないが
そもそも他の親を選んだら
自分が自分で無くなるのだからその想定に意味は無い
本当の意味で選べない
偶然性にさらされているのは親の方
出生の時に巨大な存在論的抽選機を通過して
僕たちの誰1人として生まれるべくして生まれた必然的な存在はいない
すべて偶然である
拡張性
家族がまさにルソー、ローティ的な哀れみに開かれていることを意味する
家族とは
そもそもが偶然の存在である
それは偶然により拡張できる
家族の輪郭は生殖だけでなく
主従と財産だけでもなく
私的な情愛によっても決まる
この特性が家族の拡張性を生み出している
同時に家族の境界を実に曖昧なものにしている
家族の境界の明確化が難しいのは
言い換えれば家族の共通性を取り出すのが難しい
シンガー
胎児の人格を類人猿よりも下位に置かざるを得なかったことの理由が重要
合理主義的な思考の限界を端的に示す
僕たちは生まれたばかりの子供を大切に扱う
それが人類社会の基礎であるけれども
その配慮は合理主義的にはもしかしたら大抵正当化できないのかもしれない
なぜならば
新生児はまだ人格を持たないからだ
神また作ればいいだけの存在だからだ
500円で買えるハムスターと変わらないからだとすれば
それは逆に僕たちが新生児を実はハムスターを愛するように
愛してることを意味してるのではないだろうか
新生児には人格がなくても僕たちはそれ愛する
だから、子供には人格が生まれる
最初の人間=人格への愛があり
それが常に例外的に主の壁を超えるわけではない
最初から哀れみ=誤配が子の壁を越えてしまっているからこそ
僕たちは家族を作ることができるのである。
不気味なもの
ハッカーたちが作り出す独特の文化は
1960年代になると大学を飛び出し
西海岸ニューエイジやサブカルチャーと融合し
コンピュータのパーソナル化を果たすことで
1980年代には巨大産業の担い手になり一気に飛躍する
アメリカ情報産業が単なるビジネスとして発達してきたものではないということ
その背後には独特の精神文化がある
その中核には1900年代の西洋の文化ムーブに影響受けたサブカルチャーとも結びつく
草の根の権威主義がある
その心情は日本のオタクたち似ている。
保守の思考とリベラルの思考が無批判に混ざり合っており混沌があった
ハッカーたちは資本主義の本質を否定しないまま
反資本主義的な理想内部に語ることができた
言い換えれば
生々しい富の欲望を抱いたまま
無力な共産主義者であるかのように振る舞うことができた
オープンシェアフリーなど
反資本主義的なパスワードを生み出す
アメリカ人や同多く億万長者
彼らがその矛盾に苦しんでいる様子は無い
サイバースペースという言葉には
独自のメッセージが含まれる
情報技術の誕生によって
新しい世界=空間に生きるようになると言うメッセージである
その認識論的な表現が
仮想現実への没入で
経済的な表現が
情報産業と言う新しいフロンティアだと考えられる
精神分析上の概念としての
不気味なものとは
フロイトによれば不気味さの本質は
親しく熟知しているはずのものが
突然に疎遠な恐怖の対象に変わる
その逆転のメカニズムにある
1つしかないものはずのものが
たくさんに増殖したり
1度しか起こらないはずのことが何度も続けて起こったり
すると不気味さのメカニズムが発動する
そのメカニズムは欲動や反復脅迫といった問題とも深い関係にあるのだと言う
つまり情報技術に接触する人は
新世界に行くと言うより
むしろ幽霊に取り付かれるのだと主張している
情報社会論は
ギブスのサイバースペースの上ではなく
ディックの悪夢の上に設立すべきだったと考える
ディック
仮想と現実を分けるのではなく
境目がわからなくなる
ギブス
完全に分断する
ラカン派精神分析の主体理論の
人間は見えるものに同一化するだけでなく
見えないものに同一化することで初めて大人になるのである
ラカンはこの見えるものの世界を
創造界
見えないものの世界を
象徴界
イデオロギーの代わりに
コンピューターが与えられたこの時代において
僕たちはどう世界と関係を持つか
ドストエフスキーの最後の正体
なぜドストエフスキーなのか?
観光客の時代はテロの時代だから
ドストエフスキーは
信仰が失われ正義が失われた時代において
テロリストにならないためには
どうすれば良いかその言葉ばかりを考えてた小説家
ドストエフスキーの作品をたどることで
観光客あるいは郵便局マルチチュードが
テロリストに共感を覚えつつも
どうすればそこに転落しないで済むのか
その方法について考える
僕たちは世界に対して
地下室人としてでも
スターブロギンとしてでもなく
親が子に接するように接するべきだと言うものである
言い換えれば
コミュニタリアンとしても
リバタリアンとしてもなく
家族的類似性に基づき
いわば新生児に接するよう
他者と接するべきだと言うもの
触視的平面について
タッチパネルとインターフェイスの哲学的な意味
現代はタッチパネルの時代である
タッチパネルは触れることに関わっている
次にタッチパネルは情報機器に対して能動的に働きかける
最後にタッチパネルは出力と入力の二面性を備えている。
偽物が偽物のまま触られ操作さ
れ本物を変化させててしまう
スクリーンだけの時代には生きていない
20世紀のスクリーンは
自動的で視覚的な平面でしかなかった
21世紀のタッチパネルは
そこに能動性と触覚性を加えた新たな平面である
触指的平面の誕生
それこそが20世紀後半から21世紀にかけて起きた
極めて重要なメディアの変化
テレビのスクリーンにアイコンが表示されても触ることができないんだから意味がないにもかかわらず
あたかもユーザがアイコンに触れたかのような効果を伴い映像が切り替わる
今の映像製作者が
自動的で一方向なスクリーンを表示メディアに選びながらもにもかかわらず
双方向的な映像体験を模倣しようとしていることを意味している
視聴者にはこっちの方リアルにが感じられる
タッチパネルっぽいとはどういうことだろうか
ウインドウやアイコン例にあげたが
それは具体的なコンピューターのインターフェイスデザインに見せた映像を意味する
インターフェイスという言葉を
もともとコンピューターと人間の媒介を広く意味するもの
マウスやキーボードといった物理的な機器もインターフェイスの1部である
本書では特にグラフィカルユーザインターフェースのことを指すものとして使う
GUIの本質は
偽物に触ることで本物を動かす
触視性の実現にある
GUIがタッチパネル的なものの起源と言うよりも
タッチパネルの出現によってGUIの精神を初めて技術的に実装され完成した
触視的平面とは見えるものが
ただ見られるだけでなく
触れることで見えないものが操作可能になるようなそういうものとして投影される
平面のこと
現実にタッチパネルとして操作できなくても
あたかもタッチパネル化のような映像を作った方がリアルに感じられるのは
そのような操作感覚が
現代人の世界経験の基礎にある。