ル=グウィン
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冒頭に引用される。
2 影
オジオンの考える名
「このあの草は何という?」「ムギワラギク。」 「では、あれは?」 「さあ。」〜「この草は何に使える?」 「さあ。」 ゲドはしばらくざやを手にして歩いていたが、やがて、ぽいと投げ捨てた。 「そなた、エボシグサの根や葉や花が四季の移り変わりにつれて、どう変わるか、知っておるかな? それをちゃんと心得て、一目見ただけで、においをかいだだけで、種を見ただけで、すぐにそれがエボシグサかどうか、わかるようにならなくてはいかんぞ。そうなってはじめて、その真の名を、そのまるごとの存在を知ることができるのだから。用途などより大事なのはそっちのほうよ。そなたのように考えれば、 では、つまるところ、そなたは何の役に立つ?このわしは?はてさて、ゴント山は何かの役に立っておるかな?海はどうだ?」オジオンはその先半マイルばかりも、そんな調子で問いつづけ、ようやく最後にひとこと言った「聞こうというなら、黙っていることだ。」 なぜなら後に明らかになるピュシス(超自然)的なものからうまれた万物から真の名を聞くのが沈黙であるため、自然化それ自体である。 "白い聖人"が群れて咲いている野で出会ったル・アルビの領主の娘と思われる少女に煽られ、代々受け継がれる「知恵の書」を開いた。そこで死霊を呼び出す呪文のことを書いたページに吸い寄せられ、暗黒の影の塊を呼び寄せてしまう。そこでオジオンが助けてくれて下記を問う
「〜ゲド、いいか、ようく聞け。そなた、考えてみたことはいっぺんもなかったかの?光に影がつきもののように、力には危険がつきものだということを。魔法は楽しみや賞賛めあての遊びではない。いいか、ようく考えるんだ。わしらが言うこと為すこと、それは必ずや、正か邪か、いずれかの結果を生まずにはおかん。ものを言うたり、したりする前には、それが払う代価をまえもって知っておくのだ!」
ゲドの決心
「〜そなたの力は偉大だからの。どうか、その力が、そなたのおごりの心よりも、いっそう強くあってほしいものだ。〜そなたの意志にさかろうてまで、そうしようとは思わぬ。さ、決めなさい。ル・アルビか、それともロークか。」〜暗闇から邪なるものを追い払った、あの燦然とした炎の輝きが鮮やかに脳裏によみがえってきた。彼はこのまま、オジオンのもとにとどまりたいと思った。オジオンについて、いつまでも、どこまでも森を逍遥し、いかにしたら寡黙でいられるかを学びたいと思った。だが、 同時に、彼の中には、もっと別な、押さえがたい、強い欲求があった。事を為し、栄誉を我がものとしたかったのである。〜 「匠、おれ、ロークへ行く。」ゲドはついに決心して言った。
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3 学院
手わざの長の名
「これは石ころよ。真の名は"トーク"と言うがな。〜ローク島をつくっている岩のひとかけじゃ。人間の住むこの陸地を形成しているほんのひとつぶよ。石ころ以外の何物でもない。この世を形づくるほんの一部分でな。目くらましの術をもってすれば、〜花のようにも、ハエのようにも、目玉のようにも、炎のようにも〜だがな、それはあくまで見せかけにすぎん。〜この石ころを本当の宝石にする には、これが本来持っている真の名を変えねばならん。だが、それを変えることは、よいか、そなた、たとえこれが彩宙のひとかけにすぎなくとも、宇宙そのものを変えることになるんじゃ。そりゃ、それもできんわけじゃない。いや、実際可能なことだ。それは姿かえの長の仕事の領域でな。そなたもいずれ習うじゃろう、時が来ればな。だが、その行為の結果がどう出るか、よかれあしかれ、そこのところがはっきりと見きわめられるようになるまでは、そなたは石ころひとつ、配粒ひとつ変えてはならん。宇宙には均衡、つまり、つりあいというものがあってな、ものの姿を変えたり、何かを呼び出したりといった魔法〜は〜その宇宙の均衡を揺るがすことにもなるんじゃ。危険なことじゃ。 〜石は石で、またいいものじゃ。〜もしもアースシーの島々がみんなダイヤモンドでできておったら、こりゃ、たいへんなことじゃて〜石は石のままにおくことじゃ。」
名付けの長の名
「海水の一滴一滴にいたるまで、その真の名を知らねば、海の司にはなれんのだぞ。〜学ぶべき名はつぎつぎと増えて尽きるところを知らん。いや、この世が終わるまで尽きることはないじゃろう。〜魔法使いの海の司か誰かが魔法をかけて世界中の海に嵐を呼ぼうとしたり〜おかしなことを考えたら、どうなると思う?その海の司はイニーンということばだけでなく、多島海全域の、いや、その外の、いやいや、もっとずうっと外の、これ以上の名前がないというところまでも〜の名を言わねばならんことになる〜となれば〜おのずと限界があることがわかるじゃろう。魔法使いの力にかなうものは、自分の身近なもの、つまり、すべてを正確に、あやまたずに、その真の名で言いうるものに限られるんじゃ。〜変えてはならぬものを変えようともくろんで、字宙の均衡を崩してしまっていたろうし、そうなれば、均衡を失った海は、わしらが今、なんとか住まいしておる島々をきれいさっぱり飲みこんで、今頃は声という声、名という名は、すべて、太古の静けさの中に消されてしまっていたろうからの。」
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4 影を放つ
大賢人ジェンシャーの影
「今、そなたがこの島を出れば、そなたが放ったものはたちまちのうちにそなたを見つけ出して、そなたの中に入りこみ、そなたをとりこにしてしまおうぞ。そうなれば、そなたはあやつり人形にしかすぎなくなる。この地上の光の中にそなたが放ったあの邪悪な影は、そなたを思いのままに動かすようになる。〜そなたはそれをあやまって使ってしまった。光と離、生と死、善と悪、そうしたものの均衡にどういう影響を及ぼすのかも考えずに、そなたは自分の力を越える魔法をかけてしまったのだ。しかも、動機となったのは高慢と憎しみの心だった。〜もはや、離れられはせぬ。それは、そなたの投げる、そなた自身の無知と傲慢の影なのだ。〜」
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5 ベンダーの竜
影の夢
頭のない、だが全体としてはクマのような格好をしたものがあらわれて、家のまわりをうろつき、しきりに入口を探しているようだった。〜影のことを思うだけで、ゲドは背すじに冷たいものを感じ〜、考える力もなくなってふぬけのようになってしまう。〜自分をつけねらうものは、肉を持たず、命を持たず、心を持たず、名を持たず、つまりはものとしてこの世になく、恐ろしい力としてあるだけなのだから。〜ゲドはまた夢を見た。今度の夢では、影はすでに家の中に入りこんで、戸口近くの中から手をのばし、なにごとか、後にわからないことばをささやいていた。
これを経てゲドは島に被害が出ないよう自ずと龍退治に向かう。
龍が明かす影の名
もしも名をあかすことができれば、おまえはそいつの主人となれるものを。
名を明かすと持ちかけられるが、だがこれに拒み大義を守る
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7 ハヤブサは飛ぶ
セレットの誘惑と対する態度
「セレットさま、わたしにはあなたが考えておられるような力はありません。前にはありましたが、捨ててしまったのです。〜わたしはここへ引き寄せられて来たのではなく、追われて来たのです。わたしを追うものは、わたしを破滅させることをもくろんでいる。そんなわたしにはあなたを助けることなど、とうていできません。」「ご自分の力を捨てた方は、時にはもっと大きな力でその身を満たすことがあるものですわ。」〜影がこちらに追いつくことができなかったように、あの石もついにこちらを誘惑できなかった。〜彼は自分をすっかりゆだねてしまってはいなかったからである。他者に己をゆだねていない人間を支配するのは悪にとってひどくやっかいなことだ。
熊の寓話
魔法使いになろうとする者が、必ず聞かされる話に、ウェイ島の魔法使い、ボージャーの話がある。この魔法使いはクマに姿を変えるのが好きで、たびたびやっているうちに、クマの血が濃くなって人間性が薄れ、やがて本当のクマになって、自分の幼い息子を殺し、とうとう自分も狩人の手にかかって殺されたという。〜内海ではねているイルカのどれほど多くが、もとは人間だったことか。 オジオンのアドバイスと決心
そしてオジオンの元をたつ
「いとしいハヤブサめ。うまく飛んでいくんだぞ。」夜明けの冷えこみにオジオンが目を覚ました時、ゲドの姿はすでにどこにもなかった。ただ、〜走り書きが残してあった。「オジオンさま、わたしは狩りに出かけます。」
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8 狩り
影の反応と対する心境
ゲドは実体のない影にはどう対処してよいかわからず、敬いに互いのことがつかめていなかった。ただ、ゲドには、ひとつだけたしかなことがあった。それは、自分は今、相手を追跡しているのであり、相手に追跡されているのではない、ということだった。影はゲドの船を暗礁におびき寄せたあと、彼が仮死状態で砂浜に跳れていた時にも、そのあと、嵐の中を、真っ暗な砂丘を這ってさまよっていた時にも、襲いかかろうと思えば、いくらでも襲いかかることができたはずである。それなのに、〜そそくさと逃げていってしまったのだ。なるほど、オジオンの言った通り、ゲドが背を向けない限り、脚はその力を存分に発押することができないにちがいない。それならば〜ゲドは影に背を向けずに、そのあとを追いつづけるしかない。
更なる心境の変化
恐怖は消え去っていた。喜びもなかった。もはや、追跡ではなかった。影は追う者でも追われる者でもなかった。三度、両者は出会って、触れた。彼は自分の意志でと向かい合い、生きた手でそれをつかまえようとした。つかまえることはできなかったが、両者はいつか切っても切れないきずなで結ばれていた。今となっては相手をやっつける必要もなければ、あとをつける必要もなく、空を飛んだところで益することもなかった。どちらも相手から逃れることはできなかった。
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9 イフィッシュ島
エスタリオルの問い
「〜逃げるのをやめて、逆に影を追い始めた時〜気構えの変化が当の相手に要勝を与えたんだと思う。もっとも、それからというもの、こちらの力も奪われなくなったがな。おれの行動はどれもこれも、必ずむこうに反応をおこさせるんだ。おれの分身みたいだよ。〜おれの力が弱まるとそのぶんだけむこうが強くなって、ものを言う力が出てくるのかもしれん。口のきき方だっておれとそっくりなんだ。おれの名まえだって、どうして知ったんだろう?〜おれとそいつとは互いに離れられないようになっているんだ。スカイアーにしたように自由自在におれから離れてそこらの人間にとりつき、その人間を空っぽにしてしまうなんてことは、できなくなっている。〜おれがまた弱気になって、そいつから逃れようとしたり、きずなを断ち切ろうなどとすれば、そいつはおれにとりつくだろう。それなのに、おれが力いっぱいつかんだら、そいつは霞みたいになって、逃げ出してしまったんだ⋯⋯。今度もそうなるかもしれん。だけど、こんなにしょっちゅう出くわすようになったところを見ると、むこうも逃げられないのかもしれんな。
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エスタリオルの兄弟と語る魔法論
コックと魔法使い
「〜わたしにはどうしてもわからないわ。あなたも、うちの兄も、どちらもすごい力を持った魔使いなんでしょう。それならちょっと手を動かして、呪文を唱えれば、なんだってできるはずなのに、どうしておなかをすかせたりするの?〜『ミートパイよ、出ろ!』って言えばいいんでしょ?」〜「そりゃ、そうしようと思えばできないことはないさ。だけど、わたしたちは、自分たちのことばを食べることはしたくないんだ。『ミートパイよ、出ろ!』って言ったって、それはつまるところ、ことばでしかないだろ?そりゃ、香りだって、味だってつけられるし、それを食べれば腹いっぱいにもなる。だけど、それはやっぱり、所詮ことばなんだ。満腹感だけは味わえても、腹のすいた人間が、それで本当に元気になることはないんだよ。」「じゃあ、魔法使いってのは、コックじゃないのか。」〜「コックだって、魔法使いじゃなくってよ。」
自体から借り受けた目くらましと均衡を崩す真の名
「わたしにはひとつもわからないの。わたしは、兄が、いえ、兄だけじゃなくて、お弟子さんだって、暗闇でひとこと言うだけであかりがをともすのを何回も見てきたの。ちゃんと、明るくね。道を照らすのはことばじゃなくて、あかりでしょ?あかりだからこそ、見えるんじゃないの。」〜「その通りだよ。〜光は力だ。〜だけど、光はわれわれが必要とするからあるんじゃない。光はそれ自体で存在するんだ。太陽の光も星の光も時間だ。時間は光なんだ。そして太陽の光の中に、その日々の運行の中に、四季の運行の中に、人間の営みはあるんだよ。たしかに人は暗間で光を求めて、それを呼ぶかもしれない。だけど、ふだん魔法使いが何かを呼んでそれがあらわれるのと、光の場合とはちがらんだ。人は自分の力以上ものは呼び出せない。だから、いろいろ出てきたとしても、それはみんな目くらましにすぎないんだ。実際にはありもしないものを呼び出すこと、真の名を語ってそれを呼び出すととは、ちっとやそっとではできないことで、だからその術は決して軽々しく使ってはいけないんだよ。腹が減ったくらいで使うようなものではないんだ。〜」
「じゃあ、あなたはほんとのミートパイを呼び出したりはなさらないとおっしゃるのね。それは、そう、兄がいつも言ってること―なんて言ったかしら―、そのなんとかいうものを崩したくはないからなのね。なんて言ったかしら、ほら⋯⋯。」 「均衡と言ったんでしょう。」〜ゲドはすわったまま、前かがみになって、かまどからパンを一個取り、両手で包みこんだ。「わたしもパンをもらったよ。」彼は言った。「そんなことして、やけどなさったでしょう。それに、今、そんなことなさったら、島影ひとつ見えない海の上で食べ物がなくなった時、きっと、そのパンのこと思い出して、ため息をつくことになるわよ『あーあ、あの時あのパンを盗んでなきゃ、今頃、食べられたのになあ』って。―さてと、じゃあ、わたしも兄のぶんをひとつ減らしておきましょうね、兄もひもじさにお付合いできるように。」 「均衡とは、こうして保たれるんだな。」
光以外の大きな力
「これだけは教えて〜光以外に大きな力というと、ほかに、どんなものがあるの?」「それだったら、秘密でもなんでもないよ。どんな力も、すべてその発するところ、行きつくところはめぐってくる年も、距離も、星も、ろうそくのあかりも、水も、風も、魔法も、人の手の技も、木の根の知恵も、みんな、もとは同じなんだ。わたしの名も、あんたの名も、太陽や、泉や、まだ生まれていない子供の真の名も、みんな星の輝きがわずかずつゆっくりと語る偉大だなことばの音節なんだ。ほかには力はない。名まえもない。」「死は?」〜「ことばが発せられるためにはね〜静寂が必要だ、前にも、そして後にも。〜わたしにはこういうことについて語る資格はない。わたしは言うべきことを誤って言ってしまった。日をつぐまなければ。もう二度としゃべりはせん。それに、闇以外に真の力はないのかもしれん。」
ふたりはもの探しの術や、まじないや、ロ ークで最後に様式の長が行った,"税"の間答について、さまざまに語り合った。だが、ゲドは、そんな時にも、ふっと、「聞こうというなら、黙っていなくてはな⋯⋯。」とつぶやいて急に口をつぐんでしまう
次章に行為った表現があるがまさにオギオンの名に辿り着いたと言うこと。
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10 世界の果てへ
深淵への侵入
ここでは、ちょっとした呪文ひとつが、いつ何時、 運命を変え、力の均衡を崩すかしれなかった。というのは、ふたりは今、まさにその天秤の中心点。つまり、光と闇とがぶつかり合う地点に近づいていたからである。このような旅をする者は、一説一句のもの言いに気をつけなくてはならない。
ラスト
一瞬ののち、太古の静寂を破って、ゲドが大声で、はっきりと影の名を語った。時を同じくして、影もまた、唇も舌もないというのに、まったく同じ名を語った。「ゲド!」 ふたつの声はひとつだった。 ゲドは枚をとりおとして、両手をさしのべ、自分に向かってのびてきた己の影を、その黒い分身をしかと抱きしめた。光と閣とは出会い、溶けあって、ひとつになった。〜「傷は癒えた。おれはひとつになった。もう、自由だ。」それから彼はうつむいて両腕に顔をうずめると、子どものように泣き出した〜ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだ。今後ゲドは、生をまっとうするためにのみ己の生を生き、破滅や苦しみ、憎しみや暗黒なるものに、もはやその生を差し出すことはないだろう。この世の最古の歌と言われる『エアの想像』にもうたわれているではないか。「ことばは沈黙に、光は闇に、生は死の中にこそあるものなれ。飛翔せるタカの、虚空に輝ける如くに。」 副題
ウィリアム・ジェイムズのテーマによるヴァリエーション
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主題と背景
この心の神話(サイコミス)の中心アイデアである生贄は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で論じられているので、わたしは何人かの人から、なぜウィリアム・ジェイムズに謝辞を捧げたのかと、やや不審そうに質問された。 実をいうと、ドストエフスキーはわたしの大好きな作家ではあるが、25のときから彼の作品を再読する機会がなかったために、彼がそのアイデアを使っていたことを、つい失念したのである。しかし、ジェイムズの『道徳哲学者と道徳哲学』にめぐりあったときの認識は、衝撃的だった。ジェイムズはこんなふうに説いている― アメリカの良心のジレンマが、かつてこれ以上に巧みに表現されたことはない。ドストエフスキーは偉大な、そしてラディカルな芸術家であったが、彼の初期の社会主義的ラディカリズムは、のちに一転して、彼を激烈な反動主義者に変えた。一方、アメリカ人のジェイムズは、きわめて穏健で、きわめてお坊っちゃん的な紳士に見えるが―ジェイムズが"われわれ"というときには、すべての読者が彼自身とおなじように上品であると決めてかかっているところを、ごらんいただきたい―しかし、その一生を通じて、そしていまもなお、真にラディカルな思想家でありつづけた。"迷える魂"のくだりのすぐあと、彼はさらにこう論じている。
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オメラス論
市民像
ごらんのように彼らは幸福だが、決して単純な人たちではない。〜ここには国王はいない。彼らは剣も使わず、奴隷も置いていない。彼らは野蛮人ではない。〜君主制や奴隷制が排されているだけでなく、ここには株式市場も、広告も、秘密警察も、爆弾もない。しかし〜彼らは決してたんじゅんなひとたちではなく、またうるわしい羊飼いでも、高潔な野人でも、退屈なユートピア人でもない。彼らは私たち同様に複雑な人間だ。
生活の源泉
幼少の気づき
はじめてその子を見て、この恐ろしいパラドックスに直面したとき、子どもたちは泣きじゃくりながら、あるいは涙も出ぬ激怒に身をふるわせて、家に帰ることが多い。〜しかし、時がたつにつれて、彼らは気づきはじめる―たとえあの子が解放されたとしても、たいして自由を謳歌できるわけではないことに。ささやかでおぼろげな暖かさと食べ物の快楽、それはあるにちがいないが、せいぜいその程度ではないか。あの子はあまりにも堕落し、痴呆化してしまって、ほんとうの喜び を知ることもできないだろう。あまりにも長くおびえ苦しんだために、もはや恐怖から逃れることもできないだろう。あまりにも粗野な習慣が身についてしまって、人間らしい扱いに応じるすべも知らないだろう。実際、あんなに長い監禁のあとでは、周囲を仕切った壁がな くとも、視野を閉ざした暗闇がなくとも、また自分の排泄物のなかにすわらなくとも、やはりみじめな気持でいることだろう。この恐ろしい現実の裁きに気づき、それを受け入れはじ めたとき、苛酷な不当さを憤った彼らの涙は乾いてゆく。
しかし、この涙と怒り、博愛心に課せられた試練と自己の無力さの認識が、たぶん彼らの輝かしい生活の真の源泉なのかもしない。彼らは、自分たちもあの子のように自由でないことを、わきまえている。彼らは思いやりがある。あの子の存在と、その存在を彼らが知っていること、それが彼らの建築物の上品さを、彼らの音楽の激しさを、彼らの科学の深遠さを、可能にしたのだ。あの子がいればこそ、彼らはどの子に対しても優しいのだ。彼らは知っている―暗闇のなかを這いずりまわっているあの子がもしいなければ、ほかの子ども、たとえばあの笛吹きが、夏の最初の朝、日ざしのなかのレースに愛馬のくつわを並べた若い乗り手たちの前で、喜びにみちた曲を奏でることも、またありえなかっただろうことを。
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主題
わたしの小説『所有せざる人々』は、とある小さな世界に住み、みずからをオドー主義者と称する人々を描いたものである。オドー主義者という呼び名は、彼らの社会の創設者オドーに由来しているが、~数世代前に存在した人物であり、ゆえに~直接登場しないが、作中の事件や展開はすべて彼女に起因している。オドー主義は無政府主義(アナーキズム)である。といっても、ポケットに爆弾をひそませる、あのたぐいではない。そういうのは、どんなにりっぱな名をかぶせて威厳をつけようとも、所詮はテロリズムである。かといって、 オドーの無政府性
これは、極右の人々が掲げる社会進化論にもとづく経済、自由主義"でもない。ここでいう無政府主義とは、初期の道教思想のなかに予示され、のちにシェリーやクロポトキン、ゴールドマンやグッドマンによって解明されたところのそれなのである。無政府主義の主たる攻撃目標は権力主義国家(資本主義、社会主義を問わず)であり、その道徳=実践上の主題は協力(連帯、相互扶助)である。これは、あらゆる政治理論のなかでも最も理想主義的、かつわたしにとっては最も興味深い理論である。 本作の主題
この理論に肉づけして一篇の小説とするのは~難渋な作業で~これが完成すると、糸の切れた凧のような心地―追放されて身の置き所のない流民のような心境に陥ったものだ。だから、オドーが闇のなかから〈蓋然性〉の淵を越えて姿を現わし、彼女が作りあげた世界ではなく、彼女自身に関する作品を書いてほしいといってくれたときには心底ありがたかった。本篇は、オメラスから歩み去った人々のうちのひとりを描いたものである。
問題提起
文学的フィクションをジャンル・フィクションに対立させることの問題点は、多様なフィクションに対する理にかなった区別に見えるものが、文学が上、ジャンルは下、という不合理な価値判断の隠れ蓑になることです。そういう価値判断は偏見でしかありません。文学とは何かについて、私たちはもっと知的な議論をしなくてはいけません。〜文学とジャンルの対立は未だに続いています。そうである限り、カテゴリーによる偽りの価値判断はそれにしがみつきます。この退屈で厄介な状況を打ち破るために、私は次の仮説を提案します。文学とは現存する書かれた芸術作品の総体である。すべての小説はその一部である 多様体な文学のあり方と批判の前提条件
いかなるジャンルも、本来的に、絶対的に優れているとか、劣っているとかいうことはありませんが、ジャンルは存在します。フィクションのさまざまな形式やタイプや種類が存在しており、それぞれを理解する必要があります。〜読者のひとりひとりに、好むジャンルと、退屈だったり、不快に思ったりするジャンルがあるのでしょう。けれどもあるジャンルがほかのすべてのジャンルより、断然優れていると主張するには、自分の偏った見方を正当化する用意と能力が必要です。そして、それには「劣っている」ジャンルが実際にどういう作品から構成されているか、それらの本質はどういうもので、それらのジャンルの中でも優れた作品はどのようなものなのかを知ることが含まれています。つまり、ちゃんと読まなくてはいけないのです。〜もっとも、それを言うなら、本を商品として売ることができさえすればよくて、内容や質にはまったく無頓着かまま、あらゆる形態の出版物を支配下に置こうとしている巨大企業の構成に対して、出版社や書店はあとどのくらい持ち堪えられるでしょうか?
SF作家がつくり出そうとする「意識と無意識のつながり」こそが「真の神話」なのだ
結局芸術のなすこととは、もろもろの感情、感覚、身体などから切りはなされて漂い、純粋な意味という虚の世界へ旅だつことでもなければ、精神の眼を閉ざし、理性とも倫理とも無縁な無意味のなかに浸りきることでもなく、この二つの対極のあいだのごく細く、困難で、しかし欠くことのできないつながりを断たないようにすることなのです。つなぐことです。観念と価値判断、感覚と直観、外側の皮膚と大脳とをつなぐことなのです。
この「つながり」を生み出すものとして彼女が持ち出してくるのが、ユング流の、いわゆる集合的無意識を構成する元型である。 真に集合的なもの、つまりわたしたちすべてのなかで生きており、大切な意味をもっているイメージへと至る唯一の道は、真に個人的なものを介してしかないように思われます。純粋な理性の非個人性でもなく、「大衆」に埋没した非個人性でもなく、なにか他のものに還元することのできない、どうしようもなく個人的なもの―自己。他者に到達するために芸術家は自分自身の内部へと向かいます。理性を手がかりにしながら、自分の意思で非合理なものの世界に足を踏み入れるのです。自分自身の内奥にはいりこめばはいりこむほど他者に近づいていくのです。
「元型」とは、教科書的にいえば、あらゆる人間が無意識的に用いている思考の型のことなので、「普遍性」がその特質の中心にあるはずだと考えられそうだが、彼女は逆に「個人性」を強調している。個人的になればなるほど普遍的になる、というこの逆説は彼女独自のものだ。