ジョン・ケージ
50年代の著作やインタビューでは下記主張を繰り返す
この命題の原型はを、クーマラスワーミの第一章に見出すことができる。ここではインドと中国の芸術理論がテーマで、まず表象(representation)と模倣(imitation)ついて詳しく論じられる。クーマラスワミーによれば、 インドでは表象がまさに絵画の本質であり、演劇においても「世界の動きや作用にしたがう」あるいは「世界に固有の自然を表す」といった定義がみられ、中国でも「自然にしたがって形を作る」 とか「芸術は自然の模倣である」とする記述がある。日本では世阿弥が音楽や舞は模倣であると述べている。
しかし、これらすべての事例から、芸術とは完璧さを追及して幻影にもっとも近づく方法だと考えるなら、私たちは大きな過ちを犯すことになる。また、私たちがアジアの芸術は理想の世界、つまり一般的な(感情的な、宗教的な)言葉の意味で、心の欲するものに近づくよう仕上げられ作りなおされた、理想化された世界を表していると考えるとしたら、同様に間違いを犯すことになるだろう。それは完全なる経験の証に対する不敬であって、生そのものの軽視である。私たちはアジアの芸術が数学的な意味において、すなわち外観 (appearance) ではなく作用 (operation) にいて、自然のように理想的であることを見出すだろう。
この最後の部分を独自の芸術感へとまとめあげたのが本思想であり、こうして本芸術思想は40年代より強固となる。
いまや私たちは何かから無に向かっている。あらゆる物事が等しく仏性を持っているのだから、成功か失敗かを語る術はない。この事実を無視することこそ悟りに至る唯一の妨げである。そして悟りとは気味悪く、超自然的な状態ではない。禅を学ぶ前、人は人であり、山は山である。禅を学んでいる間、物事は見分けがつかなくなる。禅を学んだ後、人は人であり、山は山である。固執しなくなったこと以外、違いはないのだ。〜それでもまだ東洋と西洋について気になるなら、エックハルトとか、英文学における禅を論じたブライスの本、ジョー・キャンベルの神話学や哲学に関する本、またはアラン・ワッツの本を読むといい。
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系譜
『易経』(英語版)をケージが手にしたのは1950年代の終わり、もしくは51年の初めである。ある時ふと新訳本を開いたら、そこにつけられていたヘクサグラムとそれを卦辞と結びつけるためのチャートが『プリペアド・ピアノと室内管弦楽のための協奏曲』で自分の編み出したチャートに似ていることに驚いた。 具体的にはゲームの規則のように、あらかじめ決められたチャートの読み取りによって偶然、選ばれた音素材を織り合わせて作品にする方法は、筮竹やコインで占った六爻による読み取りで卦が決まり、それによって今後に関わる重大な決定を下していく易の方法と、捜査において確かに似ている。
ケージが易経から具体的に応用したのは、3枚のコインで六爻を占い、その結果と特定の卦辞をチャートで結びつけるという操作である。
東洋式作曲法の完成
ここで重要なのは易経そのものが偶然に生じる現象を奥深いものと考えるアジアの思想を背景として成立していることだろう。
ヒンドゥーの芸術思想、禅の思想という下地ができたうえで易経をあらためて手にしたことによって、芸術家が自我を表現するのではなく、無心になり、神の啓示を感じながら作品を作るという芸術の在り方を可能にする方法として、古来より東洋の人々が虚心坦懐に物事の決定を委ねてきた易占いの手法を取り入れることは大きな意味があった。
勿論、チャートから数を選ぶ方法はコイン投げでなくてもよかったし、チャートも易の数表でなくてもよかったはずだ。それでもケージはのちのちまで、易占いに基づく操作にこだわった(実際コンピューターの乱数生成を拒んだ)。