ラボリア・クーボニクス
2014年の夏、ベルリンのHKWでピーター・ウォルフェンデールとレザ・ネガレスタニが主催した合理主義に関する会議で出会い結成した、4カ国を拠点とする6人の女性からなるワーキンググループ XFのManifesto
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エイリアネーションは本書に度々出没するエイリアンにかけている。そうしたManifestoの最重要テーゼは下記である。
反自然主義・合理主義・メーティス
私たちは眩惑的な世界にいる。テクノロジーによる媒介が横溢し、私たちの日常を抽象的で仮想的なもの、複雑なもので錯綜させている。ゼノフェミニズム(Xenofeminism=XF)は、このような現実に適したフェミニズム理論を構築するものだ。前例のない巧妙さ、規模、ヴィジョンを特徴とするこのフェミニズムは将来、ジェンダーの平等と女性の解放とをもって、人種や能力、経済的地位、そして地理的な位置を横断しながら、全人類の必要に応じて体系化された普遍主義の政治学に貢献することになるだろう。将来性のない資本の単調な繰り返しはもう無用だ。生産にしろ再生産にしろ、労働の苦しみへ屈服する必要ももはやない。批評の仮面をかぶった既知の事実なんてものも、もう必要ない。私たちの未来に不可欠なのは、硬直した現状を打破することだ。XFは革命の宣言でない。そうではなくて、歴史という長きにわたるゲームへの賭けであり、この賭けには、想像力と才知、そして忍耐が求められているのである。 そうしたゼノフェミニズムの立場は、徹底的な反自然主義の立場をとる。これは結論部でも「フェミニズムの名において、「自然」が不正の温床や、何であれ政治的な正当化の土台となったりすることはもはや許されないのだ」と繰り返される。
そうした自然的なセックスに対抗するために、テクノロジーを用いる。ただXFのテクノロジー観は「文化と連動」といった人間主義的美学に基づく。
ただ現行のテクノロジーは先ほど述べたように「弱者たちへの不平等、暴力、搾取」が少なくなく蔓延っているという。
「分析だけで」なく、「具体的な手段を」。そして『エスケープ・ヴァロシティ』で指摘されたように自由な意味において速度ではなく加速を。そうした態度によってはじめて複雑な社会に適応した新たなフェミニズムへと至るのだ。 私たちは頑ななまでに総合的であることを求める生き物であって、ひとえに分析だけで満足することはない。XFは、最新テクノロジーがジェンダーやセクシュアリティの問題、および権力の格差に対して発揮する循環的な潜在能力を柔軟にすべく、社会が女性に付与するステレオタイプと、女性に要求する行動様式との間に建設的な振幅を促していく。とりわけデジタル時代での暮らしに関して、性差に基づく問題が幅広く―ソーシャル・メディアを介したセクシュアル・ハラスメントから、オンラインの攻撃的な「晒し」行為、プライバシー、そしてネット上での画像保護に至るまで―存在することを考慮すれば、現状改善のためには、コンピューターの活用と融和したフェミニズムのあり方が必須である。今日では、互いに連結し、かつネットワーク化された現代社会の諸要素におけるフェミニズムの介入を支え、また促進するようなイデオロギーの社会的基盤を発達させることが喫緊の課題となっている。XFの意義は、家父長的なネットワークからの、いわばデジタル上の自己防衛や自由のみに留まらない。私たちが求めているのは、積極的自由―「何かからのの自由」ではなく、むしろ「何かへと向かう自由」の実践を奨励すること、今あるテクノロジーを転用するスキルを自ら身につけるようフェミニストたちに促すこと、そして、社会共通の目的に貢献すべく、認知に基づく具体的な手段を新たに編み出していくことなのだ。 なぜXFは「今あるテクノロジーを転用するスキルを自ら身につけるようフェミニストたちに促す」などといった、フェミニストらの「反資本主義」的特質を放棄して、スタグネクオリティなどの不平等の裂け目を拡げた現行秩序に尻尾を振るのか。その答えがつぎにある。 発展的な(かつ個々人の疎外を促すような)形態でのテクノロジーが介在することで生み出されるラディカルな機会は、限られたごく少数の人々だけに利益をもたらすよう意図された、資本の排他的私利のためにのみ使用され続けるべきではない。この社会には、絶え間なく増殖するツールが導入を期して溢れている。すべてのツールにアクセス可能な者などいるべくもないが、今日ほどデジタルツールが幅広く入手可能で、それを個々へ充当することに関して社会が敏感な時代はかつてなかった。このように述べることはむろん、世界中に多く存在する貧困層が(劣悪な環境で働く工場労働者から、諸大国が排出した電子産業廃棄物のゴミ捨て場となってしまったガーナの村々にいたるまで)、拡大しつつあるテクノロジー業界により悪影響を被っているという事実を無視しているのではなく、むしろこうした状況の根絶を明確な目標として打ち出すための断固とした認識となる。XFは、株式市場の発明が同時に株価暴落の誕生でもあったことと同様、技術革新の可能性と同時にその体系的な状態をも敏感に予期していかねばならないことを熟知している。 この株式市場の例はまさに冒頭にとりあげられた「疎外状態は新たな世界を生み出す原動力」というXF的態度なのだ。
規範的な反自然主義に立脚した世界的社会基盤としてのXF
「大規模な努力と総合的な社会組織」を「世界的」に行うことを論じる。
上記で述べた「世界的な変革」こそがXFの狙いであり、ラディカルに大規模で勃興させることを述べる。
私たちは、グローバルな抽象化を転覆しようという建前で、排他的にローカルを重視する政治を不完全だと考える。資本主義的な社会構造を離れ、否定しても、その構造じたいをなくすには至らない。同様に、社会に定着した変化の速度に非常ブレーキをかけよという提案や、変化のペースを落とし、その規模を縮小せよという要請は、ごく少数の人々にのみ許される可能性である。これは排他性における暴力的な特徴であり、最終的には多くの人々に害を及ぼす危険をはらんでいる。極小のコミュニティを超えた視点に立って考えること、断片化した数々の抵抗を相互に連関させようと試みること、そして解放を目指す戦略がいかなる方法で世界的な実施にまで高められるのか熟考することを拒絶するのは、姑息で保身的な態度のままでいる現状に満足することに他ならない。一方XFは、攻撃的な姿勢の産物であり、私たちの見知らぬエイリアン親族すべてのための大規模な社会変革の可能性を積極的に主張するのだ。 そうしたXFの態度に対して、ポストモダン・フェミニズムらは多様なジェンダー・アイデンティティを普及したが、だがそうした契機を「ことごとく打ち壊す時がきた」とする。
そこでXFはそもそもジェンダー自体の廃止を望む。
XFとは、ジェンダー廃止論者アボショリニストである。「ジェンダー廃止論アボショリニズム」とは、いま私たちが人類から窺える「ジェンダー化された」特徴と見なしたものを取り去るための記号ではない。家父長制のもとでは、そのような計画は災厄しか意味し得ない「ジェンダー化された」ものの概念は、女性的なものだけに偏って固着している。しかし、このバランスが修正されたとしても、性的あり方の多様性が減少した世界など、私たちは見たいと思わないだろう。100にも及ぶ様々な性よ、咲き誇れ!「ジェンダー廃止論」は、言い換えれば、ジェンダーの範疇において様々な特色が幅広く結集し、不均衡な権力行使につながるネットワークがもはや供給されることのないような社会の建設を目指す試みである。「人種廃止論」もまた、同様の方式へと展開している。つまり、人種によって特徴づけられた現在の社会の性質が、個人の目の色と同じく、人種差別の要因を生み出さなくなる時まで努力し続けねばならない、という姿勢である。最終的には、あらゆる解放を目指す廃止論は、階級廃止論の分野へと傾く。というのも、そうした廃止論は、資本主義の中に存在するからだ。資本主義の中で私たちは、明白でありながら不自然な形をとった抑圧に出会う。人は、賃金労働者であったり、貧しかったりするから抑圧されず、あるいは搾取されない、というのは間違っている。労働者だから、あるいは貧しいから、搾取されるのだ。 そうした立場のもと打ち壊すものとして、新たな社会基盤としてのXFを提唱する
私たちは、社会基盤としてXFを提示したい。したがって、新たな社会を構築するプロセスそのものが、エントロピーの抑制された、反復的かつ継続的な改革として理解されることとなる。XFは、オープンソース・ソフトウェアのごとく、永続的に改良可能で、活発な倫理的推論という原動力に導かれて強化されていくような、常に変化し続ける構造になることを目指す。とはいえ、オープンであるということは、方向性が定まらないということを意味しているのではない。耐久性において世界屈指のシステムがその安定性を保てているのは、明確な自発性の中から「見えざる手」として自ら立ち現れるよう体制を鍛える、その方法に拠るところが大きい。ないしは、投資および貯蓄の不全性を活用していたからということも考えられるだろう。私たちは、敵対者から、そして歴史における成功と失敗の数々から学ぶことを躊躇している場合ではない。これらの点に留意しながら、XFでは、公明正大な社会体制の端緒を創り出し、これまで論じてきた基盤によって実現可能となる自由の幾何学へと、それを導入していきたい。 そして結論部のほうではこうも述べている。
XFは一種の基盤であり、性の政治学のため、新たな言語を構築しようと育ちつつある大志である。その言語は、自らの方法論を書き改めるべき題材として把握し、独力によってその存在を確立する姿勢をいっそう加速させる。私たちは、自らの直面している諸問題が体系的で互いに連結していること、そして、この計画が世界規模で成功するチャンスは、無数の技術とコンテクストにXFの論理を融合させることにかかっているのだということを自覚している。私たちの戦略は、急速な転覆を図るものというよりも、徐々に拡散してゆく、統制された包容を目標とするものである。それは、細かな破片から新たな世界を建設するため、白人至上主義かつ資本主義的な家父長制を海に沈め、その固い殻を軟化し、防御を取り払おうと模索する、計画的な構造の変革なのだ。〜XFは、これまでとは異質エイリアンの未来を、勝利に輝くXの文字と共に、可動式の地図上に描き出したいという希望を示している。このXとは、目的地を指しているのではない。そうではなく、新しい論理を構成するためのトポロジカルな法則に基づくキーフレームを挿入しているのである。現在の反復という鎖に繋がれることのない未来を主張する中で、私たちは拡張する能力のため、そして通路や組み立てライン、供給装置などよりも豊かな幾何学を備えた自由な空間のために戦う。 物質的ヘゲモニーの介入とその未来
ここで一つ疑問符をうつならばXFは衰退した、サイバーフェミニズムの二の舞になるのではないか??実際著者も「実験的なサイバー空間を新たに創り出し、一九九〇年代にサイバーフェミニズムを巻き起こしたが、二一世紀では目に見えて衰退してしまった」という。そこで次のようにいう。
デジタル技術を支えているのは物的現実であり、この二つは切り離すことができない。両者は、異なる目的に向かって互いを変化させるべく、連結し合っているのである。仮想的なものが物質的なものに勝っているとか、あるいはその逆であるとか、そういった議論をするよりも、XFは、双方の強みと弱みを把握した上で、連帯に基づいて構成された現実の効果的な媒介として、この見識を明らかにするのだ。
つまりデジタル的ヘゲモニーだけでなく物質的ヘゲモニーにも介入することによって、XFとサイバーフェミニズムの差異を論じたのだ。
より明白な物質性を伴うヘゲモニーに介入することは、デジタル的かつ文化的なヘゲモニーへの介入と同様、きわめて重要である。堅固に創り上げられた現環境の変革は、女性とクィアな人々の地平を再構成するという、きわめて有意義な可能性を宿している。イデオロギーの布置を具体化する際、空間の生産や、その組織化のために私たちが下す決断は、最終的に「私たち」についての発話となる。そして相互的に、「私たち」が発話され得るのはこの方法においてなのである。未来の社会情勢を予め見越し、制限し、あるいは切り拓くポテンシャルと共に、XFは、社会全体が躍動するための語彙として―空間に関する協調性に満ちた作品として―構造的な言語に適応していかねばならない。
そうした一例として「ドメスティック・スペースの解体」をあげる。勿論これは俗説的なポスト・マルクス主義的解体ではなく、いわゆる積極的自由を獲得するための解体である。 街路から家に至るまで、ドメスティック・スペースもまた、私たちの巧妙な影響力から逃れることはできない。社会にあまりにも深く根差しているため、ドメスティック・スペースの解体は不可能と見なされてきた。そしてその空間では、規範としての家庭が、事実として、および造り変えることのできない所与のものとしての家庭と混同されてきた。「ドメスティック・リアリズム」を打ち壊すことは、私たちの視野にない。私たちは、共有可能な研究室、公共のメディアと技術設備を持つ、拡張された家の実現に狙いを定めたい。家庭という概念は、フェミニズムの未来に向かう、あらゆるプロセスにおいても不可欠な構成要素として、空間的な変革に向け満を持した状態にある。しかし、この変革は門扉の手前で留まるわけにはいかないのだ。私たちは、家族構成や家庭での生活を新たに造り変えることが、現状においては、経済圏から身を引くか(コミューン的な方法)、あるいは何倍にも跳ね上がる経済負担を抱える(シングル・ペアレントの方法)という犠牲を払わねば不可能であるという事実を、痛いほど理解している。消滅しかけているに等しい核家族がなかなか定位置を離れない、この停滞した状況― それは頑なな作用をもって女性をパブリックな領域から隔絶し、また男性を子どもたちの暮らしから引き離し、一方ではそうした家族のあり方から外れた人々を罰する―を打開したいと望むならば、私たちは物質的な社会基盤を精査し、また社会基盤を固定化してしまう景気循環を瓦解させなければならない。私たちの目前にある課題は二つの面から成り、私たちのヴィジョンは必然的に立体的なものとなる。私たちは、健康を蝕む賃金労働の労苦から自由な親密性のモデルを確立するかたわら、再生産労働と家族の暮らしを解放することが可能な経済システムを設計しなければならない。 次にホルモンにおける社会問題を投げかける。
家庭から身体に及ぶまで、バイオテクノロジーによる介入とホルモンの問題のために、将来を見越した政策を表明する必要性が急を要している。ホルモンは、個人の身体に関する美的な尺度を超えて広がる政治的視野を持ったジェンダー・システムへと入り込む。構造的に考えて、ホルモンの分配―誰が、そして何がこの分配によって優遇され、あるいは病理化されるのか―は、最重要事項である。インターネットの普及に伴い、医薬品の闇市場へのアクセス緩和という災厄がもたらされた。そしてそれは、公的にアクセス可能な内分泌学的知のアーカイヴと共に、社会に定着したセクシュアルなものの配置への脅威を緩和すべく「門番のように」監視を行う制度から、ホルモン経済の支配権を奪い取る手段となっていた。官僚的なルールに従って市場取引をすることはしかし、それじたいで勝利とはなり得ない。この潮流は、より高みに昇らなければならないのだ。私たちは問いかける。「ジェンダー・ハッキング」というイディオムは、果たして長期の計画にまで延長可能であるのか。人間の脳に関するこの計画は、ハッカーたちの文化がすでにソフトウェアに対して行ってきたことに似ている―私たちがこれまでに見てきた実行可能なコミュニズムに最も近い、自由で開かれたソースの基盤という完全な領域の建設である。医療目的での3Dプリンターの使用(いわゆる「リアクションウェア」)、遠隔医療によるまったく新しい中絶クリニック、インターネット上でハッキングによって主張を発信するジェンダー・ハックティヴィスト、DIY-HRT(自ら行うホルモン補充療法)フォーラムなどによって、私たちは無謀にも命を危険に晒すことなしに、目前に芽生えつつある未来の可能性を繋ぎ合わせ、自由で開かれた医療ソースの基礎を築き上げることができるだろうか
そして下記のようにまとめる。
グローバルなものからローカルなものに至るまで、群衆から個人の身体に至るまで、XFは技術=物質的テクノマテリアルな要素が大部分を治める、新たな制度を築き上げる責任を請け合っている。全体の構造と同様に、その構成要素である分子的細部も考慮せねばならない技術者のごとく、XFは、超越的、あるいは階層的に行われる価値観や規範の押しつけに対して抗議しながら、限られた効果しか生み出せないローカルな行動に対する政治的中間領域、自律的圏域、完全なる水平主義といったものの重要性を強調する。XFの普遍的な大望における政治的中間領域は、これらの両極を行き来する流動的かつ複雑なネットワークとして自らを理解している。私たちは実用主義者として、諸要素の不純な混合を、そうしたフロンティア間における可変的な原動力と見なし、大いに歓迎するのである。 https://scrapbox.io/files/656a3c01b219ad0024b3bbf9.png
Xenoの意味について
To help clarify the operation of ‘xeno’ in xenofeminism, we can draw from etymology of the word. The meaning of the Greek word ‘xenos’ has a triple signification, which is often obscured in its simplistic reduction to that which is ‘foreign’, and can be understood as such:
ギリシア語の語源からXeno〔xenos〕の三重の意味を明らかにする。
a) Xenos, of course does refer to foreignness, but is more precisely someone outside a particular known community, with no clearly defined relationship; or something outside familiar modes of identification or epistemic classification; b) Xenos as an Enemy/Stranger, or as something unknown which is potentially a promise or a threat; c) Xenos as a guest friendship (as opposed to Philos, the root of philosophy, referring to local or known friends), or a guest relationship to that unknown thing or idea.
What this triple signification of xenos indicates, is an inherent uncertainty or ambiguity as to the status of an unknown entity. It indicates a both/-and relationship, seeing as xenos can be neutral, threatening or friendly, perhaps even all these qualities simultaneously. Xenos can be best understood in the context of ‘Xenia’, the Ancient Greek protocol for obligatory hospitality, illustrated through several myths where Gods make appearances as humans to test a given community in their enactment of xenia, by seeking refuge as strangers. In xenofeminism we see ‘xeno’ as a navigational principle, extending to both human and non-human interrelations, as well as to epistemic negotiations with the unknown.
そしてManifestにおいてxenoとは別個の概念として論じられた「疎外」との相互言及な意義を論じる。
In the xenofeminism manifesto, alienation is not something one feels as an individual. We are not just speaking about the estrangement of an individual subject from a community or society. It functions on another scale. It is instead the estrangement between our sapience and sentience. If we understand sapience to be the human ability to use reason to both reflect and consciously act on the world and by extension to construct it, and sentience as having awareness of one’s surroundings but not the capacity to deliberately reflect and act on it, there is an alienation between these conditions. That is not to say it is a clean split between these states. However, there is a sufficient split to cause this estrangement whilst at the same time, the conditions are constitutively connected, both on the scale of the individual as well at a more distributed societal as well as global scale.
宇宙などの例を示しながら「It is this estrangement that allows humans to think about concepts that exist outside of experience. It is this alienation that makes abstraction possible. 」として疎外エイリアネーションこそが、経験の外に連れ出してくれるとする。つまりは「So the ‘alien’ of alienation in this specific sense that xeno- indicates can be another fruitful way to understand the xeno. It is the gap between what is, and what can be understood and imagined, that gives us purchase on the future.」であり、だから「navigational principle」なのである。こうした言説をヘレン・へスターがサピエンスとクィアを結びつけ、スティグレールの言葉を借りて論じていると紹介し、『Sapience + Care』から下記のように引用する。 our status as alienated beings with the ability to reason plus the unique responsibility for stewardship that this alienation arguably bestows upon us. So, for example, as a species capable of achieving an abstract understanding of ecologies, and with an unsurpassed insight into complex and intersecting global systems (including environmental, economic, infrastructural, and sociopolitical networks) humans have a seemingly matchless capacity to attend to the environment beyond our local situations. We can understand and act on the world beyond the spaces that we can immediately perceive through our sense organs, and are thus capable of (in Bernard Stiegler’s words) constituting ‘a new social rationality, productive of motivation, of reasons for living together, that is, of taking care of the world and of those living there.
ジェンダー廃止論について
Manifestで論じたジェンダー廃止論について「It is a creative, rather than a destructive, approach.」と論じる所以がまさに下記なのである。
Importantly, ‘gender abolition’ doesn’t mean the abolition of markers of gendered difference, but an abolition of the categories that determine possible and legitimate genders in advance, along with the social and discursive power these positions automatically grant.~So gender abolition is a formula that gestures towards a future in which difference may become so alien that we no longer have a contemporary representational system sufficient to its description.