アレックス・ウィリアムズ
2013『加速派政治宣言』
現代の危機的状況と左翼の使命
二〇一〇年代初頭の現在、グローバル文明は新たな種類の激変に直面している。これら迫り来る黙示録的大惨事アポカリプスの数々は、国民国家の誕生期や資本主義の勃興期、そしてまた先例のない規模の戦争の世紀として特徴づけられる二〇世紀の幕開けに作り上げられた、これまでの政治の規範や組織構造をあざ笑っているかのようだ。
そうした「黙示録的大惨事アポカリプスの数々」を下記とする。
なかでも現在もっとも重大なのは地球規模の気候システムの変調であり、早晩これは現在の地球人口の持続的な維持を脅かすことになるだろう。人類が直面している脅威のうち、これがもっとも危機的なものであることはたしかである。とはいえ、これよりも規模は小さいかもしれないが潜在的には同等の不安定化をもたらす一連の問題が―気候変動問題と並行して交差するかたちで―存在しているという点にも留意しなければならない。とくに水やエネルギー埋蔵量といった資源の最終的な枯渇は、大量飢餓の発生や経済パラダイムの崩壊、新たな熱戦と冷戦の勃発を予期させるものだ。またこの間、金融危機の継続を通じて諸政府は、緊縮政策・社会福祉サービスの民営化[=私物化]・大量失業・賃金の停滞といった政策を喜んで受け入れたせいで、麻痺作用をもつ死のスパイラルに引き込まれることになった。「知的労働」も含めた生産過程における自動化の増大は、資本主義の長期にわたる危機を明白に示すものにほかならず、グローバルな北に住むかつての中産階級でさえ、現在の生活水準を維持することは間もなくできなくなるだろう。
「これらどこまでも加速していく一方の破局的災厄」と対照的な杜撰な政治を下記のように警告する。
今日の政治は、社会変革を通じて迫り来る絶滅の危機に立ち向かいつつ、それらの危機を解決するために必要な新しいアイディアや組織様式を生み出すことができないという無力感に襲われてしまっている。危機が力と速度を増しているというのに、政治は衰滅と隠退へと向かうばかりなのだ。政治的想像力のこうした麻痺状態のなかで、未来が取り消され、無効にされ、抹殺されてきたのであり、かかる未来のキャンセルはいまもつづいているのである。
同時に「一九七九年以来、グローバルな規模で覇権的地位を占めてきた政治的イデオロギー」としての新自由主義は「主要経済大国でさまざまに異なるかたちを取ってきた」がそれらも停滞の一途だという。
グローバルな諸問題が新たに持ち上がるたびに、深刻な構造的課題―そのうち、もっとも直接的な影響を及ぼしたのは、二〇〇七年から八年以降の信用・金融・財政危機だ―を突きつけられてきたにもかかわらず、新自由主義はもっぱら進化 (すなわち、深化という意味で)するばかりだった。こうした新自由主義的プロジェクトの継続(いいかえれば、新自由主義2.0)は―いまも残存している社会民主主義的な制度やサービスに対して、民間部門の新たな攻撃的侵入を奨励するという、その政策形態にもっとも顕著に表されているように―、構造調整の新ラウンドを仕掛けてきたわけである。こうした政策はただちに、そして直接的にネガティヴな経済的・社会的な効果を生み出してきたし、長期的にみても新しいグローバルな危機がもたらす根本的障壁に突き当たることになるだろう。にもかかわらず、新自由主義的プロジェクトはいまも続行中なのである。
だからこそウィリアムズとスルニチェクは「左翼が根底的に新しい社会的・政治的・組織的・経済的なヴィジョン」を打ちだす必要があると考える。なぜなら右翼勢力を下記のように捉えているからである。
右翼勢力(すなわち、右翼的な政府・非政府・企業権力が織りなす諸力)が新自由主義を推し進め、それを押し付けることができたのは、いまも残存している左翼の大部分が実効性を欠いたまま慢性的な麻痺状態に陥っていたせいでもある。三〇年以上にわたる新自由主義を通じて、ほとんどの左派政党はラディカル思想と民衆からの委託をともに失い、空洞化していったのだった。私たちを取り巻く現在の危機に対する左派政党の応答は、せいぜいのところケインズ主義的な経済政策への回帰を呼びかけるといったものでしかなかったのだ―
だから左翼の使命を下記のように語るのだ。
このまま左翼が根底的に新しい社会的・政治的・組織的・経済的なヴィジョンを打ち出せずにいれば、あらゆる明白な現実をものともせずに、右翼の覇権的権力がその偏狭な想像力を推し進めていくばかりだろう。そのとき左翼にせいぜい可能なのは、右翼による最悪の侵入や侵略のいくつかに対して、一時的かつ部分的に抵抗してみせることぐらいかもしれない。しかし、それではまるで、最終的には抗うことができないと分かっている潮の流れに逆らうポーズを取っているだけではないのか。新たな左翼のグローバルなヘゲモニーを生み出すためには、今日では失われてしまっている可能なる未来の数々を取り戻すこと、もっとはっきりいえば、未来そのものを取り戻すことがぜひとも必要なのである。
右派/無条件加速主義批判
資本主義の加速主義的性質を下記のように語る。
これまで加速のアイディアと結託してきたシステムがあるとすれば、それは資本主義だ。資本主義の本質的な物質代謝は、個々の資本制的存在体間の競争にもとづく経済成長を必要としているため、競争による利益を得ようとして技術的発展をいっそう推し進めていくことになる。またそれに伴い、社会的転位がますます促進される。新自由主義の形態を取った資本主義が自認するイデオロギーとは、創造的破壊の諸力を解き放つことを通じて、技術的・社会的革新を絶えず自由に加速させていくことなのである。
だがそうした加速主義的様態を表した、現行のヤーヴィン=ランド的な加速を拒む。
哲学者のニック・ランドは資本主義のこうした力動性をもっとも鋭く捉えながら、ただ資本主義の速度のみが比類のない技術的特異点シンギュラリティへと向かうグローバルな移行を生み出すことができるという、近視眼的ではあるが催眠術的な作用をもつ信念を提示してみせた。資本に関するこうした幻視的な信念によると、最終的に人間は、それまでの諸文明の断片を寄せ集めつつ急速に自己構築していく惑星規模の抽象的知性にとって、たんに足手まといな存在として打ち捨てられることになるかもしれない。とはいえ、ランド流の新自由主義は速度(スピード)と加速(アクセラレイション)を混同してしまっている。なるほど私たちは早く動くことができるかもしれないが、しかしそれは、自身はけっして変動することのない資本主義的パラメーターの厳格に規定された集合内を動き回っているだけの話なのだ。その場合、私たちは局所的な地平でのスピードの増大を経験しているにすぎない。それは加速というよりはたんに脳死状態の突進とでもいうべきものだ。それよりもむしろ、私たちが本質的なものとみなす加速様態は、操縦可能ナヴィゲーショナルでもある加速、いいかえれば、可能性の普遍空間の内部における実験的な発見過程のことなのである。
再領土化によってより閉じられてしまっていることも述べる。
さらに悪いことに、ドゥルーズ=ガタリがはっきりと認識していたように、そもそもの最初から資本主義的な速度は一方では脱領土化を進めつつ、他方では再領土化を進めるものなのである。資本主義における進歩は、剰余価値・労働予備軍・自由に浮遊する資本からなる枠組みに閉じ込められてしまっている。また同じく近代化は経済成長の統計的尺度に還元され、社会的革新は過ぎ去った共同体の時代遅れの残留物で覆われてしまっている。レーガンとサッチャーによる規制緩和は、ヴィクトリア朝風の「基本に戻ったバック・トゥ・ベイシックス」家族的・宗教的価値観と心地よく共存しているのである。
更には現行資本主義は官僚制的なオートメーション化、つまり創造性の押収であるとする。
新自由主義には緊張関係がはらまれており、それはますます深まっている。というのも新自由主義は、近代性(文字どおり近代化の同義語としての)の媒体という自己イメージを振りまきながらも、未来に関する約束を本質的に果たすことができないからである。じっさい、新自由主義の進展と軌を一にして、個人の創造性が促進されるどころか、認知的な創意工夫が除去されていったのだ。新自由主義は、認知的な創意工夫よりも、あらかじめ設定された相互作用からなる情動的な生産ラインのほうを優先的に扱い、それをグローバルなサプライチェーンや新フォード主義的な東の[=東洋・東方・旧東側の]生産ゾーンと結びつけたのである。エリート層の知的労働者からなる少数の認知労働者階級は年々縮小しており、消滅の危機にさらされている―こうした傾向は、アルゴリズムにもとづく自動化が情動労働と知的労働の領域でも巧みに進められていくにつれ、ますます増大していくだろう。
マルクスはランドと並んで、現在も加速主義の範例的な思想家でありつづけている。あまりにもありふれたマルクス批判とは反対に、あるいは今日の何人かのマルクス主義者の振る舞いにすら反して、ここで想起しておかなければならないのは、マルクス自身が世界を十全に理解し、世界を変革するというその企てに取り組むにあたり、当時入手可能だった最先端の理論的ツールと経験的データを活用したという事実である。マルクスは近代性に抵抗した思想家というよりも、近代性の内側で分析と介入を試みた思想家だったのだ。彼は資本主義が搾取と腐敗にまみれたシステムであることを熟知しつつも、その時代のもっとも進んだ経済システムとしてそれを捉えていた。資本主義の成果は、[以前の状態に戻るために]逆転されるべきものではなく、資本主義的価値形態の拘束や制約を超えて[未来に向けて]加速されなければならないものなのである。
そしてレーニンでさえ、「最新科学の最新の達成のうえに築かれた大規模資本主義的技術がなく、幾千万という人々に生産物の生産と分配の単一の基準をきわめて厳格に守らせる計画的な国家的組織がなければ、社会主義は考えられない。」と『「左翼的」幼稚さと小ブルジョワ性について』で述べていたと引用する。
マルクスが気づいていたように、資本主義を真の加速の行為遂行体と同一視することは到底できないだろう。同様に、左翼政治について社会技術的な加速と相反するものという評価を下すことも、少なくとも部分的には重大な謬見にほかならない。じっさい、政治的な左翼に未来があるとするなら、このようなかたちで抑圧された加速主義的傾向を最大限に受け入れるものでなければならないはずだ。
左派加速主義の地平
作為的なポスト資本主義
そこで「今日の左翼内部に存在すると考えているもっとも重大な分裂」を述べる。
一方における、局地主義ローカリズム・直接行動・ひたむきな水平主義ホリゾンタリズムからなる素朴政治(フォーク・ポリティクス)にしがみついている人びと
そしてもう一方が、本宣言の加速派政治の立場である。
他方における、抽象化・複雑性・グローバル性・技術からなる近代性にしがらみなく向き合う、今後、加速派政治=加速玉義政治(アクセラレイショニスト・ポリティクス)と呼ばれるようになるに相違ないものの輪郭を描き出している人びと
そうした上記の対照的な関係をつぎのように描きだす。
前者は、もともと非局所的かつ抽象的な敵、それも私たちの日常を支える下部構造に深く根差した敵と向き合うことから必然的に生じてくるリアルな諸問題を巧みに避け、非資本制的な社会的諸関係からなる一時的な小空間を打ち立てることで満足してしまっている。そうした素朴政治の失敗は、そもそも最初から備わっていたものだといえる。これとは対照的に、加速派政治は後期資本主義の成果を維持すべく努めながら、その価値体系・ガバナンス構造・大衆病理が許容する事柄を超えて、さらにその先へと進んでいくことだろう。
そうした加速派の立場はあくまで「ポスト資本主義」であるとする。
加速派[=加速主義者]は潜在的な生産諸力を解き放つことを欲する。このプロジェクトにおいて必要なのは、新自由主義の物質的プラットフォームを破壊することではない。共通・共同の目標に向けてその目的を設定い直ずことこそが必要なのだ。現存する下部構造は、粉砕すべき資本主義の一段階ではなくて、ポスト資本主義に向けて飛び立つためのスプリングボードなのである。
そうしたポスト資本主義への一途に対して「自然発生的に構成するだろう」とは考えない。なぜなら彼らからすると既に「資本主義は技術の生産諸力を抑制しはじめている、あるいは少なくともそれらの力を狭い目的へと無駄に向かわせている」と考えるからだ。
いかなるかたちのポスト資本主義が生まれようとも、それは必ずポスト資本制的な計画を必要とする、と私たちは確信している。革命後の民衆が、資本主義へのたんなるなる回帰ではないような、新しい社会経済的システムを自然発生的に構成するだろうという考えを信じるのは、よくてナイーヴな、最悪の場合には無知な信念というほかない。そうした挑戦に立ち向かい、それをさらに推し進めるために私たちは、現行のシステムに関する認知地図と未来の経済システムに関する思弁的イメージの両方を同時に発展させていかなければならないのである。
社会技術的なヘゲモニーへ向かうこと、そしてその中期目標
左翼は社会技術的なヘゲモニーを発展させなければならない―それもアイディアの領域と物質的プラットフォームの領域の両方において。プラットフォームはグローバル社会の下部構造にほかならない。プラットフォームは、振る舞いとイデオロギーの両面において何が可能かを示す、基本的なパラメータを設定するのである。この意味で、プラットフォームは社会の物質的な超越論性を具現するものであり、それを通じて個別具体的な行動・関係性・権力の集合が成立可能になるわけだ。たしかに、現在受け入れられているグローバルなプラットフォームの多くは、資本主義的な社会的諸関係にとって有利に働くように偏ってはいるが、そうした偏向は不可避の必然性によるものではない。それら生産・金融・物流・消費に関わる物質的プラットフォームを、ポスト資本主義的な諸目的に向けて再プログラム化および再フォーマット化することは可能だし、またそうしなければならないだろう。
ただそうした姿勢は教条的な技術信奉ではないとする。
私たちは技術の進化過程を加速することを欲している。とはいえ、私たちが主張しているのは技術ユートピア主義ではない。技術さえあれば私たちを救うのに十分だなどと、けっして信じてはならない。そう、技術はたしかに必要だが、社会的・政治的な行動がなければ、それはけっして十分なものではありえないのだ。技術と社会的なものは密接に結びつき合っており、一方における変化は他方における変化を強化し、 補強する関係にある。技術ユートピア主義者たちは、加速を通じて社会的抗争が自動的に克服されるようになるという論拠で、加速を主張する。それに対して私たちの立場は、まさに[新自由主義的資本主義者たちとの]社会的抗争に勝つために技術が必要であるからこそ、技術を加速しなければならない、というものなのだ。
つまり彼らにとって技術的・科学的な成果は「できるかぎり効果的な方法で用いられるべき道具であると宣言する」と述べたような立場なのだ。そしてそうした社会の変革は経済的・社会的な実験が不可欠として、サイバーシン計画を際たる例としてとりあげる。逆に下記のような立場を拒む
これらの目的のいずれかを達成するうえで、私たちは直接行動だけで十分だとは信じていない。デモ行進・プラカード掲示・一時的自律ゾーンの確立といったいつもながらの戦術は、実効的な成功の代わりに、慰めをもたらす危険性がある。「ともかくも、われわれは何かをやった」という叫びは、実効的な行動よりもむしろ自尊心を特権化するために集まった者たちの叫びである。戦術の良し悪しを決める基準はたった一つしかない―それが重要な成功をもたらすか否かだ。
そこで「私たちは三つの具体的な中期目標をもっている」とする。
①
第一に、私たちは知的下部構造を構築する必要がある。この目標には、新自由主義革命の源にあたるモンペルラン・ソサイエティに倣って、現在の世界を支配している貧弱な理想を凌駕し、それに取って代わるような、新しいイデオロギーや経済的かつ社会的なモデル、そして善のヴィジョンを創り出すという任務が課されている。ここでいう知的下部構造とは、たんに諸々のアイディアの構築を必要とするという意味での下部構造を指すだけではなく、それらのアイディアを植え付け、具体化し、広めることのできる制度と物質的な道筋の構築を必要とするという意味での下部構造も指している。
②
第二に、私たちは大規模なメディア改革を打ち立てる必要がある。インターネットとソーシャル・メディアが見かけだけの民主化をもたらしたにもかかわらず、依然として伝統的なメディア網は、調査報道を行うための資金を所持しており、語りの選択と枠組み設定においても決定的に重要な役割を演じている。これらの団体や集団を民衆によるコントロールへと可能なかぎり近づけていくことは、いまなされている現状提示のあり方を無効にするための必須の務めである。
③
第三に、私たちはさまざまな種類の階級権力を再構成する必要がある。そのためには、有機的に発生したグローバルなプロレタリアートがすでに存在しているという考えを乗り越えて進まなければならない。それどころか、そうした再構成がぜひとも取り組まなければならないのは、現状ではたいていの場合、不安定労働のポストフォード主義的諸形態において具体化されている、プロレタリアートの部分的なアイデンティティの雑多な寄せ集めを、一つに結びつける作業なのである。
これら三つの中期目標について「必要なのは三つの目標が互いにフィードバックし合うことであり、それに伴い、一つひとつの目標が他の二つをよりいっそう実効的なものにする仕方で現行の結びつきを修正できるようになる」ことだとする。つまり「下部構造とイデオロギーや、社会と経済を変革しようとする、それぞれの試みのあいだのポジティヴ・フィードバック・ループを確立することを通じて新しい複合的ヘゲモニー、もっと具体的にいえば、新しいポスト資本主義的な社会技術的プラットフォームが生み出されるのである」のだ。こうして加速派政治のユートピアが完成される。
私たちは、グローバルな諸問題に対処したり、資本に対して勝利を収めたりすることができるのは、社会とその環境を最大限に統御するプロメテウス的政治だけだと宣言する。こうした統御力は元々の啓蒙思想家たちが愛顧していたものと区別されなければならない。いまや、十分な情報があたえられれば簡単に統御できると主張されたラプラスの時計仕掛けの宇宙が、本格的な科学的理解を高めるための検討課題から姿を消して久しいのだから。とはいえ、何もこう述べたからといって私たちは、統制力を原ファシズム的なものとして非難したり、権威[=権力機関]を生来不当なものとして告発したりするような、ポスト近代性の陳腐な残滓と手を結ぶわけではない。
ここで述べられているのは「プロメテウス的政治」を掲げるにあたって重要な指摘である。つまり非ユークリッド幾何学や量子力学のもたらした偶発性或いは不確実性のパラダイム(つまりラプラスの悪魔的な決定論の解体)を了承し、同時にポストモダニズムの言説(ラクラウの言葉でいうなら社会は内因として働く根底的な論理によって統一されたものの解体による社会の脱中心化→つまりそれを否定することは大きな物語への回帰であると執拗に拒む様)とは相容れないという指摘なのである。そこで「その代わりに私たちはこう提案する」とする。
―目下、この惑星と人間という種を取り巻く諸問題に迫られている私たちは、統制[という概念と実践]を新たな複雑性に包まれているかにみえる時代のなかで改めて磨き直さなければならなくなっている、と。自分たちの行動の結果を正確に予測することは不可能だが、起こりうる結果の範囲を確率論的に決定することは可能である。ただし、こうした複雑系システムの分析は、新たな行動形態と一対になっていなければならない。この場合の行動形態とは、地理社会的ジオソーシャルな技芸アート性と狡猾な合理性からなる政治のただなかで、じっさいに行動を繰り広げてみて初めて明らかになる偶発性とともに働くような実践をとおして、即興的な仕方で構想を実施することのできる形態のことを指す。いいかえればそれは、複雑な世界のなかで最善の行動手段を追求する、仮説形成的な実験形態のことを指すのである。
そして到達する先を「啓蒙」と同調させる。
つまるところ、加速派政治によって可能となるポスト資本主義社会のみが、二〇世紀半ばに立案された宇宙計画の約束を果たしうるということが明らかになるだろう。こうした約束履行の目的は、最小限の技術的アップグレードからなる現在の世界を超えて包括的な変化へと移行することなのである―より詳しくいいかえるなら、集団的な自己制御[=自主管理]の時代への移行、またそれを必然的に伴うと同時に可能にする、本来の意味でエイリアンな[=外来の異質な]未来への移行、そして啓蒙の廃止ではなくて、自己批判と自己制御「=自主管理]からなる啓蒙のプロジェクトの完成への移行、これらの移行を実現することが、その目的なのである。
そして最後に下記のように締めくくる。
未来を構築する必要がある。これまで未来は新自由主義的資本主義によってバラバラに解体され、安っぽい約束に縮減されてきたのであり、そのため現在、私たちを待ち受けているのは、不平等・紛争・混沌の拡大のみという始末だ。未来というアイディアの崩壊は、左右を問わず政治的領域のいたるところでシニカルな者たちが私たちに信じ込ませようとしている、懐疑的態度を身につけた成熟のしるしというよりも、私たちの時代が歴史的に退行していることの徴候にほかならない。[そうした動きに抗して]加速主義が押し進めようとしているものは、より近代的な未来―いいかえれば、新自由主義が本来的に生み出すことのできない別の[=オルタナティヴな]近代性なのである。私たちがいま立っている地平を、〈外〉の普遍的な可能性の数々に向けて解きほどきながら、いま一度、未来[の殻]を割り開かなければならないのだ。
2013『エスケープ・ヴァロシティ』(引用)
Landian accelerationismの限界(ここでのランディアンはニック・ランドのこと)
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「資本だけ」の限界
ランドの加速主義的図式が、政治を、感情的な発作として、あるいは単にウェットなリベラル派や弱体化したマルクス主義の抑えきれないエゴを強化するものであるとして、拒絶するということにある。
つまり「ランドの説明では、資本主義的革新性の加速的力だけで革命的な変化を促すのに十分なはず」ということなのだが、『加速派政治宣言』の立場にたつウィリアムズは「根本的に革新的な社会形態を望むのであれば、資本だけでは実現できない」として、「政治的空間を再び開くこと」が要請されるとする。その一例として下記を挙げる。
技術的進歩は個人を消去するどころかむしろ、ほとんど全体的にオイディプス化し、さらにより一層リベラルな個人という主体を支えることに焦点をおくようになった。要するに、ランドが莫大な革新の原動力と見なしていた当の行為主体エージェントは枯渇してしまったのだ。
哲学的問題
哲学的観点からすれば、Landian accelerationismは世界の現実的区分を雑な一元的システムへと平坦化させてしまう。その結果、思考と存在の違いを識別することができず、理性的なものを存在論的なものへと還元=縮小させてしまう。
レザ・ネガレスタニの批判
その批判とは、ランド主義という機械的効果概念に基づいた立場は、ランド主義者が念頭に置くような終末論的な目的論のダイナミクスを生み出すことは出来ない、というものである。
具体的な批判は下記である。
ランドのシンギュラリティ論者的未来は資本主義の自己増強という基礎的システムに依存しており、究極的には再帰的計算というアルゴリズム的なパラダイムに基づいている。
そしてこのアルゴリズム的なパラダイムは「複雑な自然のシステムをモデル化」するために「簡素化」することによって構成されてる、として「このパラダイムがランドの加速という装置の核心にある」というのだ。補足として「その核心とは要するに、アルゴリズムの増幅の一定方向的で累計的なプロセスのことである」。ネガレスタニの主張は下記なのである。
複雑なシステムの下では、非線形的なフィードバックのプロセスによって初期条件の非常に僅かな違いが、時間の経過とともに大きく異なる結果を生み出す。
こうした非線形的で複雑なものが元来の「基礎的システム」なのであり、その意味でネガレスタニは「終末論的な目的論のダイナミクスを生み出すことは出来ない」というのだ。
自由の意味における問題
加速主義というランド的プログラムの最後の問題点は、自由の意味に関するその前提に関係するものである。多くのリベラルやネオリベラルな思想に共通するように、ランドは原初的な自由を様々な形態の構造によって禁止されているものであると考えている。(ロックのような古典的なリベラルに対して)厳格な非人間主義において区別されているけれども、それでも彼は僅かに消極的自由についての関心を保持している。その自由とは、有害な(そして誤っている)人間の介入からの資本の自由である。しかしながら、このように考えることは積極的自由の非常に豊かでより示唆的な部分を完全に無視することである。
ここでスルニチェクと提唱した『加速派政治宣言』にて、ランドは速度(スピード)と加速(アクセラレイション)を混同している、と批判した概念をもって、再び批判する。それは脳死状態におけるスピード狂的突進ではなく、操縦可能ナビゲーショナルな加速こそが重要、という思想だ。
ランドが《速度 speed》と《加速 acceleration》を混同しているのは、この意味においてである。私達は今日速く動いているかもしれない、だがそれは厳格に定義された資本主義のパラメーターの中でだけであり、そのパラメーター自体は決して揺らぐことがない。このように、ランド的な加速主義は、貯蓄のための貯蓄という極めて退屈な資本主義の公理を超えていく事のできるより適切な加速的体制というよりもむしろ、局地的に激しさを増す単なる速度論的な〔dromological〕規定に留まってしまっている。
柄谷行人的にいうなら超出的闘争たりえ、積極的自由を獲得しえるのは左派加速主義なのだ。
加速主義の美学
① 数学的美学
トポス理論に基づいた、高度に視覚化されたアプローチという即座に美的な次元を持っている。~この抽象的な数学的美学は、数学についての哲学を集合論や論理の基礎から遠ざけ、そして最終的に幾何学的な根拠を追求する。
上記を認識論的加速主義のネガレスタに繋げて述べるとともに、サイバーシン計画の研究所のグラフィック画像を引用する。
https://scrapbox.io/files/6561b04784e80a001c29b0a8.png
③ 操作のインターフェイス
第三に、インターフェイス、制御室、認知地図についての美学という考え方がある。この考えにおいて、現実を扱いやすくすること、そしてそれゆえに最大限に集団的な自己支配という最優先の加速主義の計画を促進することについての重要な側面は、データを集めて効果的に交互作用させる能力である。複雑さが増す世界において、膨大なデータは解決策と同時に問題も提供している。
そしてそのインターフェイスとしての「デザインの美学が重要」として、「現代の金融業界で使用されている」ヘッドアップディスプレイや、「複雑なシステムへの介入を可能にする制御室や、その他の物理的インフラストラクチャー」としてサイバーシン計画を挙げる。
インターフェイスと制御室は共に、行動が企画されうる基礎として働いている現在の世界についての認知地図について、そして技術的にもたらされたカタログ図についての美学を具現化する。
④ 複雑なシステムにおける行動
最後に、複雑なシステムにおける行動の美学がある。複雑なシステム分析とモデリングに結合しなければならないのは、新しい行動様式である。
そこで古代ギリシアのメーティス概念を導入する(補足)←諸累計の差異がわかりやすい
マルセル・ドゥティエンヌとジャン=ピエール・ヴェナンはポイエーシスあるいはテクネーと対比して、メーティスを「ある種の狡猾な知性によって導かれた物質を扱うスキル」として定義している。これは遠回りでそしてタイミングを計った行動を通した作為の様態であり、即興的な方法で素材のダイナミックな傾向を引き出す物である。
そうして「これは複雑なシステムによって課せられる認識論的制約と一致している」として「メーティスは我々に実践についての新しい形への通り道を与える。この実践についての新しい形とは、地理社会的芸術性や狡猾な合理性についての政治である。」とする。