フランクル
一時、フランクルは、アドラー学派の中でかなり重要なポジションにいた。そればかりか、もしアドラーからの縁切りがなければ、ひょっとすると自分は最後までアドラー派のままでいたかもしれないとフランクル自身述懐しているほどである しかしフランクルは哲学的病理は哲学的治癒によってしか治療不可能であると言う。それはまさにティリッヒやレジンスターのニーチェ解釈のように、生理学的デカダンスと混同することへの批判たりうる。 しかし、神経症の抽象的な支えや虚構を取り除き、より簡単に改善するためには、まず上部構造を攻撃することが、状況によっては必要な場合があることを忘れてはならない。これは、失敗した人生計画を頭でっかちに語る傾向があって、しかし、その他の点では、入ろうと思えば社会の中で最も優れた人の中に確実に入ることができる人たちの場合に、重要となるだろう。それゆえ、彼らに対しては、哲学的な反論をしなければならないだろう。なぜなら、他のすべての反論は無意味だからである。非常に知的で意識の高い悲観主義者に、よく食べてスポーツをするように助言しても助けにはならない。というのも、健康全般と同様、そのような助言は、当然のごとく彼の哲学にまったく響くことはないからである。総じて、治療の進展のための地盤、すなわち神経についての論議の可能性を作り出すためには、私たちはここではまず、彼が下す価値判断に影響を及ぼさねばならないのだ! ユングはすでに、神経症者は「その意味を見出すことができなかった、魂の苦悩」であると指摘した。レオンハルト・ザイフが神経症治療について主張していることもそれとまったく一致している。「医師と患者による神経症から治療への協働の出発点と目標は、人生の意味への問いである」としかしここにおいてすでに本来的な価値評価の問題が始まっている。(...)我々精神科医は日々の実践の中で、患者たちの全体的な精神の苦悩や世界観的な無定見さを押し付けられるが、我々には彼らを助ける資格や能力があるのだろうか?我々はしかし医師としての権限を越えることはないのだろうか?我々はいったい魂の医師と魂の世話人との境界をぼやかすことはないのだろうか?この問題の切実さと困難を知り、しかも日常的な問診の具体的な姿を知っている者は、魂について苦悩し、精神的に葛藤している患者たちを気にかけ、尽力している心理療法家たちにとって、誤りがなく公正な行動を可能にする普遍的な指針がいかに重要であるかを理解している。 それゆえ我々は、心理療法において、それが評価しなければならず、評価するべきであるかぎり、一つのディレンマの前に立っている。すなわち一方には世界観とそれにともなう価値評価の問題を持ち込むことが必要不可であり、しかしもう一方には同時に、あらゆる押し付けを回避するという避けがたい要求があるのだ!私自身は、このディレンマを解消しようといま試みている(「心理療法の精神的な問題性について」、『心理療法および境界領域についての中央誌』、一九三七年を参照)。そのために必要なことは、純粋に形式的、倫理的な価値としていまだ具体的な価値評価の方向性を含意していないような一つの価値を引き合いに出すこと、つまり、責任性という価値をである!いかなる価値体系も、いかなる個人的な価値位階秩序も、いかなる私的で、責任性を基本的な価値として認めることのない世界観も、内容的に異なった決定に対する形式的な価値として、考えることはできない。どんな世界観的な条を患者が持っているか、どんな価値評価を彼らが選ぶか、すなわち患者が何を必要としているか、しかし彼らが世界観をまさしく持っていること、そもそも彼らが価値に対して責任を感じている限りにおいて、我々心理療法家は、これらのことに左右されてはならない。どのような意味のある尺度が、精神的に苦しんでいる人をそのように自身の責任性へと誘導することが、まさに治療的な支点となりうるのかについては、この場ではまだはっきりと取り上げることはするべきではないし、できない。 フランクルの十戒のなかで最も重要に思える一説
かつて「魂なき心理学」が存在したことはよく知られているが、それはすでに克服されている。しかし、現代の心理学はそれがおうおう精神なき心理学だという非難を免れるわけにはいかない。精神を欠いた心理学は、精神を欠いているかぎり、人格の尊厳ならびに人格そのものにたいして盲目であるだけでなく、価値にも盲目である。つまり人格的存在にたいして相関し世界をもつあの価値にたいして盲目である。すなわち意味と価値の世界にたいして、価値の序列、秩序づけられた世界、つまり宇宙としての価値にたいして、要するにロゴスにたいして盲目である。
本書は邦訳にて『苦悩する人間』と訳される。しかし原題は"Homo Patiens:Versuch einer Pathodizee"であり、これは邦訳するべき語に該当しないように思える。これまでさまざまな思想家が、人間の本質についてさまざまな学説を唱えてきた。リンネは「人間は考える存在(ホモ・サピエンス)である」と言い、一九~二〇世紀のフランスの哲学者ベルクソンは、「人間は工作する存在(ホモ・ファーベル)である」と言った。オランダの歴史学者ホイジンガ(一八七二─一九四五)は、「人間は、遊戯する存在(ホモ・ルーデンス)である」という説を唱え、その書の題を『ホモ・ルーデンス』とする。フランクルはこうした文脈でもって、人間存在の本質、「人間が人間たるゆえん」を「苦悩する」という点に見出して、「人間は苦悩する存在(ホモ・パティエンス)である」と言ったのであり、それゆえ私は下記を原題のまま登用したい。 原題: Ärztliche Seelsorge
第三章
医師と司祭
本章の標題は「心理的告白から医師による魂の癒しへ」である。魂の治療、それは古代より宗教の領域に位置していた。ではロゴセラピーとはその補完にあたるのか?フランクルは次のように答える。
心理療法が、特に精神分析が求めていたものは、いわば心理的告白であった。そしてロゴセラピーが、特に実存分析が求めるものは医師による魂の癒しなのである。この命題は誤解されてはならない。すなわち医師による魂の癒しは決して宗教の「代用品」でもなければ、また従来の意味での心理療法の代用でもなく、すでに述べられたように従来の心理療法の単なる補充であろうとするのである。かくれた形而上学的なものの中にかくまわれていることを知っている宗教的な人間に対してはわれわれは何も言うべきものをもたず、何の与えるべきものもない。
では魂の治療としてのロゴセラピーの価値はどこにあるのか。神なき現代、ニーチェは嘆く。「新しい魂の医師はどこにいる?」。すなわち神なき時代の魂の医師である。 しかし、われわれの前には価値づけの原則的な正しさの問題、世界観的なもの、精神的なもの、糖神の世界への進出が「その名によってなされる法廷」(プリンツホルン)の問題が存している。この問題は世界観的な秩序正しさと方法的な明確さの問題である。認識批判的な見識をもった医師にとっては魂の癒しが重要であり、提出された問いに答えを与えねばならないことは明らかである。ヒポクラテスは、医師が同時に哲学者であれば神々にも似ていると述べたが、しかしわれわれは世界観を-必要な場合には-医学的行為の中にとり入れるというわれわれの努力において決して司祭と等しくなろうとするわけではない。われわれはただ医師であることの究極の可能性をことごとくくみつくそうとするだけなのである。われわれはこのことに敢えて挑まなければならないのであり、プロメテウス的なことを始めることだと解せられる危険を犯しても、敢行しなければならない。なぜならば、医師はその臨床に際して常に患者の世界観的な決断に対決させられているからである。われわれはそれに目をそむけて治療することはできない。われわれは常に繰り返し態度をとることを強いられるのである。 フランクルの思想形成と、『夜と霧』に記された強制収容所体験を必ずしも同一視してはならない。フランクル自身、強調しているように、フランクルの思想の骨格は第二次世界大戦以前に、したがって彼が強制収容所に捕らえられる以前に既に形づくられていた。フランクルは戦前に四本の論文を発表しているゆえ、そこに彼の初期衝動があるのだ。ジョセフ・ファブリィは曰く「やはり強制収容所の体験はロゴセラピーに決定的なインパクトを与えている。ただし、その基本概念にではなく、その開拓領域に対してである。(...)ロゴセラピーの開拓領域は、最も極限的な状況において見出されていった。意味によるセラピーは、想像しうる限り、最も意味のない状況において開花したのだ」。(Joseph B.Fabry, The Pursuit of Meaning;Victor Frankl, Logotherapy, and Life, Lightning Source Inc., 1987)
introduction
「心理学者、強制収容所を体験する」。これは事実の報告ではない。体験記だ。ここに語られるのは、何百万人が何百万通りに味わった経験、集の体験者の立場にたって「内側から見た」強制収容所である。だから、壮大な地獄絵図は描かれない。それはこれまでにも(とうてい肩じられないとされながらも)いくたびとなく描かれてきた。そうではなく、わたしはおびただしい小さな苦しみを描写しようと思う。強制収容所の日常はごくふつうの被収容者の魂にどのように映ったかを問おうと思うのだ。
実存の問題
収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的をもたせなければならなかった。被収容者を対象とした心理療法や精神衛生の治療の試みがしたがうべきは、ニーチェの的を射た格言だろう。「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」したがって被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。ひるがえって、生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。「生きていることにもうなんにも期待がもてない」
したがって、生の意味とは苦難と悲惨によってその本質を問われる。絶望こそが意味を要請し、現前の苦しみにその先へと向かう価値を与えることで初めて我々は初夜の苦しみに耐え抜くことができる。ゆえに生の意味とは苦しみによって激しく要請され、主題として浮上する。そしてそれを獲得した者とそうでない者との非対称性はさらにその必要性を強固とする。言葉を孕み、意味に惑う人間とは苦しみと不可分なのである。
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を素することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。だがすべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。(...)このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きっづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。 生存の偶然性、そして運命論。ここにフランクルは実存主義的責任論を問う。我々は数多ある可能性のなかで僅かな確率を乗り越えて存在しているのであり、その美しさ、かけがえのなさにこそ価値がある。フランクルはそう考えた。したがって、生きる意味を誰かに求め、その不在性に嘆くような「生きることから」の「期待」ではなく、人類を育む大いなる連鎖が可能にした我々の「生」対し、生は「なにを期待しているのかが問題なのだ」。唯一で偶然的な我々は、そのオリジナリティに責任が伴う。ゆえに運命に抗い、なぜ苦しむのかと嘆くのではなく、苦しむ運命なのであるからしてどう「苦しみ尽くす」のかであるのだ。こうした地平はなによりもフランクルに勇気を与えた。
苦しむことの意味が明らかになると、わたしたちは収容所生活に横溢していた苦しみを、「抑圧」したり、安手のぎこちない楽観によってごまかすことで軽視し、高をくくることを拒否した。わたしたちにとっては、苦しむことですら課題だったのであって、その意味深さにもはや目を閉じようとは思わなかった。わたしたちにとって、苦しむことはなにかをなしとげるという性格を帯びていた。詩人のリルケを衝き動かし、「どれだけ苦しみ尽くさねばならないのか!」と叫ばせた、あの苦しむことの性格を帯びていたのだ。リルケは、「やり尽くす」というように、「苦しみ尽くす」と言っている......。わたしたちにとって、「どれだけでも苦しみ尽くさねばならない」ことはあった。ものごとを、つまり横流する苦しみを直視することは避けられなかった。気持ちが萎え、ときには涙することもあった。だが、戻を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることのだからだ。しかし、このことをわかっている人はごく少なく、号泣したことがあると折りにふれて告白するとき、人は決まってばつが悪そうなのだ。たとえば、あるときわたしがひとりの仲間に、なぜあなたの飢餓浮腫は消えたのでしょうね、とたずねると、仲間はおどけて打ち明けた。「そのことで涙が涸れるほど泣いたからですよ...」 1957年のザルツブルクの大学週間に際した講義より
フロイトとアドラーとユング
ユングについて
しかしそこには厳しい批判が絶えず寄せられる。たとえばその代表格はシュミットである。
医療上の司牧
そのような症例において問題となっているのは、司牧と呼ばれるべきものでありましょう。しかも、この司牧は、医師が毎日、診療時間にあって直面させられ、したがって、医師の領域内での正当な任務なのです。「医療上の司牧」は、不治の病人にかかわる内科医や、癈疾者にかかわる老人病専門医や、醜い変形者を扱う皮膚科医や、不具者を扱う整形外科医のなすべき務めであり、まして、しばしば手術で人間の身体の一部分を切断せざるをえない外科医にとっての本務であります。彼ら医師たちはみな、変更しようもない、おそらくは避けようもなくなった宿命に自分が立ち向かわされていることに気づいている患者たちにかかわるのであります。医師がもはやなおすことができず、いや、もはや軽くすることさえもできないそのような状況にあっては、医師たちにとって、慰さめること以外には何も残されていないわけです。この慰めることもなお彼らの職務であることについては、ウィーン総合病院の正門の上にかかげられている稗銘がひとつの感動的な証言であるといえましょう。この銘は、皇帝ヨーゼフ二世がこの病院を公共のために捧げたときのものであり、 saluti et solatio aegrorum−病人の癒しばかりでなく、慰めのためにも−と書かれているのです。ところで、アメリカ医学協会の規約の中でも、それと対応する指摘が見出されます。すなわち、「医師は心をも慰めなければならない。これはけっしてひとり精神科医だけの課題ではない。それはまさしく明らかに、すべての臨床医の課題である。」もちろん、そのようなことを気にしないでも、ともかく医者であることはできます。しかしながら、その場合には、同じような連関でポール・デュボアが述べたことがあてはまります。すなわち、その場合にはただ一つの点−つまり扱うお客−を別とすれば、獣医と区別されないことになります。
ケンタッキー州、レキシントンにおける現象学協議会で発表された論文
どんな種類の治療法の場合にもそうであるように、ロゴセラピーにもその適用を裏づける理論がある−この場合の理論とは、即ちビジョンであり、世界観である。そこで他の数多くの治療法に比べて、ロゴセラピーは、はっきりした生の哲学に基づいている。
ロゴセラピーにおける宗教との位置関係
第一にフランクルは実存分析と宗教的手立ての混同を真っ向から否定する。彼の理論はこうした混同にしばしば出会す。しかしそれは彼の本意ではない。
ロゴセラピーはプロテスタントの、カトリックの、あるいはユダヤ教の心理療法ではない。宗教的心理療法というものは、正しい意味では考えられない。なぜなら、心理療法と宗教の間には本質的相違、次元的相違があるからである。両者の目的は初めから異なっている。心理療法は精神的健康を目指している。宗教は救済を目指している。
下記にも記したように「ロゴセラピーは心理療法と宗教の境界線を横切るものではない」。ゆえにそれは全くもって交わらず、区別される。ではフランクルとって宗教とはどういった存在なのか。それは魂の治療における忌むべき敵であり、過去の負債であるのか。
ロゴセラピーは、たとえ患者の世界観が有神論であろうと不可知論であろうと、あらゆる患者のために使用可能でなければならないし、すべての医師が利用できるものでなければならない。(...)心理療法家は患者の宗教生活にかかわってはならない。ただし、意図せざる副次的な結果として、患者の宗教生活に貢献することはありうる
すなわちロゴセラピーとは宗教と異なり、ニュートラルで透明である。それはあらゆる信仰と調和しつつも、互いの空間を侵犯する方はなく、相互に浸透しつつも、越えられない種別が存在するのだ。
ロゴセラピーは心理療法と宗教の境界線を横切るものではない。けれどもロゴセラピーは宗教にドアを開いたままにしておくし、患者がそのドアを通るかどうかは患者にまかせる。責任性を人間性に対する責任という点から解釈するか、社会に対する責任とか良心に対する責任という点から解釈するか、それとも、神に対する責任という点から解釈するか。これを決定しなければならないのは患者自身である。何に対して、誰に対して、何のために責任があるかを決めるのは、患者自身なのである。