デリダ
1967 『グラマトロジーについて』(引用)
男根ロゴス中心主義
現前の形而上学
差延とエクリチュール
1967 『エクリチュールと差異』
バタイユ論
1968『差延』
差延概念について
私はここで、ふたつの理由から〔「差延」について〕、「束」という言葉を用います。第一の理由はここで〜この〔「差延」という語がもつ〕エコノミーの一般的なシステムこそが問題になるからです。第二に、「束」という言葉は次のことを書き留めておくにあたって適切であるように思われます。つまり、ここで提案されているこの結果〔「差延」を指す〕が、錯綜、織られたもの、交差の構造を持っていることです。こうした「束」の構造は、さまざまな異なる系や異なる意味の線―あるいは力線―を互いに結びつけうるような状態にあるでしょうが、それと全く同じように、それぞれに分配されたままにしておきもするでしょう。
ここで言われている「束」とは「錯綜、織られたもの、交差の構造」をした差延概念の複数のシニフィエを繋ぎ合わせるという意味で理解できるであろう。つまりコンテクストによって初めて規定されるものであり、厳格な一義的定義はできないのである。更に差異と差延はフランス語では発音上での区別がつかない。差延論文の元は講演であるため、デリダは発音の不可能性を話しながら実践する。これはある意味で音声中心主義の批判でもある。
この表記上の目立たない介入は、〜この差異は書かれ、読まれるのですが、聴き取られることはない。〜差延はパロールとエクリチュールのあいだにある。
1971『署名・出来事・コンテクスト』
耳(パロール)の多様性を「多義性」
パロールはつねに現前的な主体、つまり今ここにある主体と結びつく。
目(エクリチュール)の多様性を「散種」
散種と名付けられたものはエクリチュールの概念だ
そしてこのエクリチュールには「自らのコンテクストとの断絶力」が宿るという。
これは、それを発した主体の不在、極端な場合死んだとしても残り続け、主体の統御を完全に離れたところで自由に引用され、解釈されうる。このエクリチュールの断絶力(引用可能性)こそが、記号に「飽和不可能な」多様性、つまり「多義性」と区別される上での「散種」を与える。
オースティン批判
コンスタティブ/パフォーマティブにおける非寄生/寄生の区別が厳密には維持されないことを指摘する。
すべての記号は〜引用されうるし、また引用符でくくられうる。
引用とは記号や発話をその本来のコンテクストから抜き取り、また別のコンテクストへ接木する、転移の可能性一般を意味する。(インターテクスチュアリティ)
更にデリダの「すべての記号が引用されうる」という表現は、あらゆる言明が寄生的で、或いはパフォーマティヴに使われる可能性に曝されていることを意味する。
1972 『白い神話』
1986『カフカ論』『掟の門前』をめぐって
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日本講演時の質問
「なぜこの田舎の男は掟の門までやって来なければならなかったのか」「それがかつて現在であったことのない過去においてある決定的な呼びかけを聴いてしまった。その原初的な記憶が男を掟の門前にまで召喚したのだ。」
『バベルの塔』(ベンヤミンの翻訳論読解)にて下記ユダヤ的にして、一見時間錯誤的な人間の存在構造感と同一の発想が見てとれたと訳者が語る。
翻訳者を翻訳されるべき原テクストに対して返済しえぬ負債をおった存在、記憶もできない過去に原テクストの本質的翻訳要請の呼びかけを既に聴いてしまった存在
ベンヤミンに即するなら、私的理解としては「原初的−かつて現在であったことのない過去」という図式がオドラデク的な示唆によるものなのではないかと感じる。
1987 『バベルの塔』
ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』における「he war」のwarは英語とドイツ語に同時に属する。これはエクリチュールによってのみ可能である(なぜなら発音すれば所属を定めざるを得ないから)。そんな翻訳不可能性を下記のように記す。
それが同時にひとつ以上の言語で、少なくとも英語とドイツ語で言表されているという少なくともその事実において、そのパフォーマンスにおいて翻訳不可能なものになってしまうだろう。かりにある無限の翻訳行為がこの文章の意味論的な蓄えを汲み尽くしたとしても、その翻訳はいまだひとつの言語で翻訳しているだろうし、それゆえhe warこ多様性を失うだろう。〜同時に複数の言語で書かれたひとつのテクストを、どのように翻訳したらよいのか?複数性の効果をどのように還元=翻訳したら良いのか?もし同時に複数の言語で翻訳したとしたら、ひとはそれを翻訳と呼ぶだろうか?
つまり「he war」がもつ意味論的豊かさをいくらおいかけ(例えば註を充実させるなどして)たとしても、その翻訳がひとつの言語でなされるかぎり、複数性は決定的に失われるということである。
1988『メモワール、ポール・ド・マンのために』
1994 『友愛のポリティックス』(引用)
(引用)
1993『マルクスの亡霊たち』(引用)
フクヤマ批判とデリダ的時間性
フクヤマの冷戦終焉によって自由民主主義が勝利し歴史が終わったとする論の批判
フクヤマは、自由民主主義の理念を出来事ともみなしているのだ。それがすでに到来しているがゆえに、その理念が理念としての形 態のもとですでに現前しているがゆえに、今すでにこの出来事は有限な歴史の終わりを標記してしまったというのである
時間はその蝶番から外れてしまったということ
一般的時間性、あるいは自己同一的であり自分自身と同時間的な数々の現在の連続的連鎖からなる歴史的時間性を信頼する限り、出来事性なるものを思考することはできないだろう
/icons/hr.icon
/icons/bard.icon東浩紀解釈
東浩紀は、デリダ的憑在論の背景にアルチュセールのイデオロギー論があることに注目し、以下のように 述べる。
イデオロギーとは、共産主義に限らず、そもそも 亡霊=死んだ父からの呼びかけのようなものなの ではないか。ここで思い出されるのは、ルイ・アルチュセールの有名な論文「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」です。アルチュセールはそこで、人間は国家に「呼びかけ」られることで「主体」になるのだと述べました。しかし、そこで呼び かける主体が、もはや死に体の亡霊でしかないのだとしたら?
1998『滞留』(引用)
ブランショ論
2004『自己免疫』
ここでいう自己免疫とは下記であり、民主主義の自己破壊的な性質からきているという。
生ける存在者が「みずから」、ほとんど自殺のごとき仕方で、自己自身の防護作用を破壊するように働く、すなわち「自己自信」を守る免疫に対する免疫を、みずからに与えるように働く、あの奇妙な作用
これはつまり、臓器移植に伴う抵抗を緩和するために、自己の免疫機能を破壊して自己防御から身を守る、といったこと。もとは病理学や生物学で用いられる言葉によって、デリダは民主主義の不安定性或いは不完全性を明らかにした。
その事例として、9・11以後のアメリカを例に挙げる。米国は同時多発テロ後、自由と民主主義の敵と戦うという大義のもと、警察の権限を強化し、人々の自由と権利が制限された。則、民主主義を守ると称して民主主義は犠牲にされたということである。『ならず者たち』では民主主義はその敵たちに、その脅威からおのれを保護するために似なくてはならない。おのれ自身を腐敗させ、おのれ自身に脅威を及ぼさなくてはならない。とデリダが言うがまさにこれである。しかしデリダは下記のような両義性を明らかにする。
自己免疫性は、絶対的な悪ではない〜自己免疫性は、他者にさらされること、すなわち到来するものないし者−したがって計算不可能にとどまるにほかないもの−にさらされることを可能にするからだ。もし絶対的な免疫性があるばかりで自己免疫性がないとしたら、もはや何も起こらないだろう。
すなわち、自己免疫性によって公敵や環境問題等との共存を可能とする。そして民主主義はつねにみずからを傷つけては修復し、回転を繰り返す。
2009『ならず者たち』
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民主主義はその敵たちに、その脅威からおのれを保護するために似なくてはならない。おのれ自身を腐敗させ、おのれ自身に脅威を及ぼさなくてはならない。
xxxx『On The Private Lives of Philosopher』(引用)
ハイデガーやカントやヘーゲルのような哲学者についてのドキュメンタリーをみるとしたら、なにをみたいか。というインタビュアーに対して下記のように論じる(訳引用)。
性生活〜なぜならそれは彼らが語らないことだからです。私が好むのは、彼らが語るのを拒絶するような事柄を聞き取ることです。なぜ、こうした哲学者たちは、著作において、自身を無性愛的に(asexually)示そうとするのでしょうか?
なぜ、自身の私的生活を著作から抹消し、個人的なことについてけっして語ろうとしないのでしょうか?〜ヘーゲルやハイデガーのポルノ映画を作る、といったことを話しているのではありません。生において愛が果たしている役割について、彼らに語ってほしいのです