サド
1781/2/20 妻宛の手紙
1782/4『晩禱』:妻宛の手紙の余白に書きつけられた おお神よ、私があなたに乞い求めるお恵みは、たった一つきりです。けれどあなたは、私の 祈りのよしいかに切実であろうとも、いっかな聴き届けては下さりますまい。このお恵み、この至上の恩寵とは、おお神よ、要するに、私を罰するのに私よりもっと悪辣な人間をどうか選ばないでいただきたい、ごく些やかな平凡な誤ちしか犯したことのない私を、どうか罪の中で冷酷無残になった悪党、神の掟を嘲弄し、これに違反することを楽しみとするがごとき悪党に、 お任せにならないでいただきたい、ということです。私の運命を、おお神よ、美徳の手中にとどめ置きください。美徳はこの世におけるあなたの似姿です。悪徳を矯正するには、美徳を尊敬する人たちの手に任せるよりほかありますまい。おお、ありとあらゆる存在のうちの至高至善なるものよ、私の後見人に独占者、貧民を盗む者、破産者、男色家、詐欺師。マドリッド異端料問所の獄卒、還俗したジェスイット坊主、淫売屋の主人などを、どうかお選びにならない で下さい
1782/8 妻宛の手紙
私は自分の悲惨な立場から気を外らそうとするときはいつも、こうしたことどもに助けを求めたものだ。私が空想を彷徨わせさえすれば、それらは私の不幸を小気味よく慰撫してくれることができた
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負わされた孤独のなかでオナニスト・サドは、人間情念というヒドラのような、たくさんの頭の奏でる歌のもとに、その夢を夢見ていたのである。
1783/11 妻宛の手紙
サドは自らを次のように自称する。
それはサドの熟慮の「結果」なのである。
私の考え方は私の熟慮の結果なのだ。それは私の生存、私の体質と切っても切れない関係にある。(...)諸君の非難するこの考え方こそ、私の人生の唯一の慰めなのだ。それこそ私の獄中の苦悩のすべてを和らげ、私の地上の快楽のすべてを構成するものであって、人生よりもっと私が執着しているものだ。私の不幸をつくったのは、私の考え方では毛頭なく、むしろ他人の考え方というべきだろう。 https://scrapbox.io/files/64d7a792bd1c03001b7eff42.png
澁澤龍彦 部分訳:『食人国旅行記』
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ブラモンとその夫人
夫人「ある事の真の性格を自分が納得する、善いことならばそれに専心し、悪いことならそれを憎む。そうするために、私には論証も議論も必要ないのです。」ブラモン「では、その過つことのない導き手とは何なのだ?」夫人「私の心、です。」ブラモン「それ以上に偽りの声はないぞ。自分の心など、自分で好きなようにどうとでもできる。それに言っておくがな、そんな声は押し殺せばすぐに消えうせるものだ。」夫人「それでは、意に反してではあっても一瞬はその声を聞いている、ということになりますね。」ブラモン「たしかに。」夫人「でしたら、その声が自らの考えを知らしめているあいだはその人は有徳だった、それを押し殺そうと努めるや否や有徳でなくなる、ということですね。善と悪にははっりとした違いがある、あなたはそれを定義なさろうとして、逆に違いを無にしていらっしゃる。」ドルプール「奥様のほうが正しいように私には思えます。たしかに悪徳というのは、何かその⋯、それに、他方からすれば、美徳しか存在しないということであって⋯」プラモンー(優笑しながら)「あっ、はつ、はつ⋯まったく、論理学者ドルブールが口を挟むとなると、わたしの負けは決まりだな。(...)」
サンヴィルの冒険物語
食人国「ビュテュア王国」への漂着
許されぬ恋におち、駆け落ちをしてヴェニスにたどりついたサンヴィルとレオノール。二人はこの水の都で離れ離れとなり、サンヴィルはレオノールを求めて各地を巡り歩く。その旅路でサンヴィルはモロッコの港町でオランダの船にのりこむ。ただサンヴィルを待ち構えていたのは不幸にも、「野蛮な未開人たちの住んでいる国」であった。
ギニア湾までは絶好の航海をつづけていたのですが、ちょうど全行程の半ばくらいまで来た頃、おそろしい北風が吹いてきて、わたしたちの船は突如としてサン・マルタン島方面に押し流されてしまったのです。海がこんなに荒れたのを、わたしはそれまでに一度も見たことがありませんでした。霧がひどく深いので、船首から船尾まで見通すこともできない有様です。船は大浪によって雲の高さまで持ち上げられたかと思うと、次には激しい勢いで深淵に落ちこむのでした。甲板は水浸しになり、船内の器物のひっくり返る音、海の咆哮、錨索の軋む音など、ものすごく耳に響きます。猛烈な疾風と怒濤に、船は大きく横ざまに揺れ、わたしたちはもう生きた空もなく、いつ船がひっくり返ってお陀仏になるか、ひやひやしながら待っていなければならない状態でした。こんな状態を哲学者が観察すれば、さだめし人間研究に大いに役立ったろうと思われます。人間というものは情況が変化すると、精神状態もたちまち変ってしまうものです。つい一時間前までは、罰当りなことを喋り散らして、いい気になっていた水夫たちが、いまや天の神に腕をさしのべて、どうかお助けくださいとばかり、夢中になって祈っているのです。ルクレティウスがいみじくも言ったように、たしかに、恐怖こそあらゆる宗教の動機であり、母胎であります。人間がもし至善の身体組織に恵まれ、肉体上の欠陥や障害が極度に少なくなれば、この世で神々の名を口にするものはいなくなるかもしれません。 こうしてサンヴィルはひとりアフリカ海岸に打ち上げられたのだ。その国こそ「食人種の棲む土地」であったのだ。漂着の2日後サンヴィルは彼らの目の当たりにする。
ああ、そこでわたしが見た怖ろしい光景をどうして皆さまにお伝えしたらよいものか!たしかにわたしはこれまでの生涯に、これほど怖ろしい光景を目にしたことは一度だってありませんでした。わたしが見た大勢の人間は、ジャガ国の土人たちでしたが、彼らは隣国のビュテュア王国の土人たちと戦争をして、今しも凱旋してきたところなのでした。土人たちの一隊は、その上にわたしのよじのぼっている木の前まで来て、ぴたりと止まりました。彼らは総勢二百人ばかりで、二十人ばかりの捕虜を連れておりましたが、捕虜たちはそれぞれ木の皮の鎖で縛られているのでした。木の下までくると、土人の隊長は、あわれな捕虜たちを点検し、六人だけ前に出させて、隊長みずから棍棒をふるって、一撃のもとに彼らをなぐり殺してしまいました。すると部下の四人が、殺された人間の身体を切りこまざき、血のしたたる肉片を、隊員一同に分配するのでした。どんな肉屋だって、これほどすばやく牛の肉を切りこまざくことは出来なかろう、と思われました。それから土人たちは、わたしのよじのぼっている木の隣りの木を根もとから引っこ抜くと、枝を取り除き、これに火をつけて、今切りこまざいたばかりの人間の肉片を、その炭火の上でこんがり焼くのでした。ぱっと焰が燃えあがると、さっそく土人たちは、肉片をうまそうにがつがつ食ってしまいました。それを見て、わたしは思わず慄えてしまったものです。食べながら、土人たちは酒のような飲み物を、ごくごく飲みました。この残酷な食事のあとで、彼らがあんなに昂奮して踊り狂ったことを考えれば、どうしてもこの飲み物は、酒のように人を酔い心地にする飲み物だとしか思われません。彼らは、引っこ抜いた木をもう一度砂の中に立て、まだ生き残っていた捕虜のひとりを、その木に縛りつけると、そのまわりで踊りを踊りはじめたのです。踊りながら、彼らは拍子を揃えて、手にした武器で、縛られたあわれな捕虜の肉片を、少しずつ巧みに切り取るのでした。こうしてずたずたに切り刻まれて、捕虜はついに絶命してしまいました。切り取られた肉片は、たちまち土人たちにむさぼり食われてしまいました。しかし土人たちは、肉片を口に運ぶ前に、したたる血を自分たちの顔に塗りたくらねばなりません。これが勝利のしるしなのです。(...)その日は一日中、こんな忌まわしい儀式がつづいておりました。生涯に、これほど残酷な一日を過ごしたことはありません。それでも日の暮れる頃になって、土人たちは行ってしまい、一五分ばかりもすると、もう彼らのすがたは見えなくなりました。
だがサンヴィルは旅ののちに彼ら食人族の捕虜としなってしまった。そうして王ベン・マーコロの前に差し出されたサンヴィルは、約20年ばかり前土人たちの捕虜となり宮廷に仕えるサルミエントの通訳によって、身の上話を話して聞かせた。
自分の身の上話を(...)しますと王さまは、腹をかかえて大笑いして、「この宮殿には、二千人も女がいるよ」と言うのでした、「わしはこの玉座から少しも動かずに、彼女らを自由にすることだってできる。だいたい、お前たちヨーロッパ人は、頭がどうかしているんじゃないかね、女性を崇拝の対象にするなんて。女などというものは、快楽の対象にこそすべきものだ。決して崇拝したりしてはいかん。礼拝は神々に対して行うべきもので、単なる女を礼拝したりすることは、神々に対する不敬行為にひとしい。女に権威を与えるのは愚かなことだし、女に服従するのは、きわめて危険なことだ。それは男の権威を貶しめることであり、自然の価値を下落させることだ。自然は男の下に位置させるべく、女というものを作ったのだからね」(...)王さまはわたしを近くへ呼び寄せて、着物をすっかり剝ぎ取り、わたしの身体を点検しはじめました。肉屋が牛をしらべるようなやり方で、わたしの身体のいたるところに手をふれるのでした。そして最後に、王さまは、この男は食用にするには痩せすぎているし、快楽用にするには年を取りすぎている、と、サルミエントに向って言ったということでした。「快楽用だって!」とわたしは驚いて叫びました、「何ということだ!それじゃ王さまは、女だけで満足してはいないのかね?」「女はあり余っているからね、そうだとも。女には飽きてるんだよ」と通訳は答えました。「ああ、フランス人よ、きみはまだ飽満の結果といらものを知らないんだな。人間は飽満すると、その趣味がだんだん荒んでくるんだよ。それは自然の道から外れているように見えるが、じつは自然に接近しているのさ。種子が土中で芽を出すときも、受精したり繁殖したりするときも、みんな腐敗という現象が起るだろう?つまり腐敗こそ、生殖ということの根本的な法則なのではないかね? きみもこの国にしばらくいて、この国の風俗を知るようになれば、たぶん、もっと哲学的な頭の持主になるだろうよ」
こうしてサンヴィルはこの享楽と放蕩に荒んだ国にサルミエントの後継として仕わされることとなるのだ。そして即座に人肉を食うことを強いられ、サンヴィルは勿論それを断るが、サルミエントはサンヴィルに対して善悪は「習慣」に過ぎないと説く。そしてそれはその後「美徳」論に姿を変え、サルミエントは同様のことを主張する。
美徳の相対性は皮肉にも、ビュティア王国民へのサンヴィルの情けによって自ら証明することとなる。彼はその情けで、即ち自国の情けで満足してしまうのだ。
わたしがひとりで散歩しておりますと、ある光景を目撃したのでした。その光景は、この国の人間のような野蛮な人間でなかったら、誰だって涙を催さずにはいられないような痛ましい光景でした。ひとりの気の毒な女が、重い娜につながれて、彼女の夫が玉蜀黍の種を蒔こうとしている畠を耕していたのです。全身の力で重い鋤を引っぱりながら、彼女はやわらかい肥えた畠の土をせっせと掻き分けておりました。この仕事だけでも骨が折れるというのに、彼女はさらにその胸に二人の子供をくくりつけて、左右の乳房から乳を飲ませていたのです。重い慨の下で身体を二つに折り曲げて、彼女は覚えず泣き声をあげておりました。汗と涙が、二人の子供の頭に滴り落ちておりました⋯するうち、彼女はつまずいてよろめき、ばったり倒れてしまいました。わたしは、彼女が死んだのではないかと思いました。でも乱暴な夫は鞭をもって彼女に飛びかかり、さんざん鞭で叩きのめして、ふたたび彼女を立たせようとするのです。この有様を見ては、もうわたしも黙っていられませんでした。わたしはこの乱暴な亭主に飛びかかって行き、畝溝のあいだに彼を突き倒してやりました。それから、鋤の轅の結び綱を解いて、彼女を起き上らせ、胸にしっかり抱き上げて、とある樹の下に坐らせてやりました。彼女は気を失っておりました。もしわたしが助けてやらなかったら、死んでいたかもしれません。彼女が倒れた時に傷ついた二人の子供を、わたしは膝の上に抱き上げました。やがて、気の毒な女は目をあけて、わたしをまじまじと眺めるのでした。自分を助けてくれる者がこの世の中にいようとは、とても考えられない様子でした。驚きの目をもって、じっとわたしを見つめておりましたが、まもなく感謝の涙がわたしの手を濡らすのでした。わたしの膝から子供を受け取って、嬉しそうに彼女は接吻しました。それから子供をわたしの手に渡すのでした。ちょうど自分の生命を救ってくれたように、子供たちの生命をも救ってほしいとわたしに頼んでいるようでした。この光景を見て、わたしは胸を打たれました。そのとき、彼女の夫が仲間の一人を伴なって、わたしのところにもどって来たのに気がつきました。わたしは立ち上がり、来るなら来いという気持で、身構えました。するとわたしの態度に気押さたのか、彼らはすごすごと行ってしまいました。わたしは女を連れ、子供を抱えて、自分の家に帰り、不幸な三人をそこに住まわせ、彼女の夫を寄せつけないようにしました。それからその日の晩に、王さまのところへ行き、まるで彼女に気があるような振りをして、この女を自分のものにしてくれと頼みました。王さまは、前からわたしが独身生活をしているのを快しとしなかったので、異議なくわたしの要求を認め、彼女の夫に対しては、わたしの家の付近に近づくことを禁止してしまいました。(...)サルミトンは、わたしの行為を少しも理解しようとせず、むしろこれを非難するのでした。彼の主張するところによると、わたしの行為は彼の道徳に反するばかりか、この国の法律にも抵触するというのです。なぜかと言えば、わたしの行為は一人の夫から、その妻に対する権利を奪ってしまったからです。「いったいきみは」とこの酷薄な詭弁家は言うのでした、「いったいきみは、きみの行為に利害関係を有する二人の人間のうち、一方の人間を不幸な立場に陥れておいて、それで善行をほどこしたつもりなのかね?」「不幸になった男は、もともと悪いやつだったのだよ」「いや違う。彼は自分の国の習慣に従って行動したまでだ。しかし、彼がかりに悪いやつだったとしても、それがどうしたというんだ。彼は悪いことをしながら幸福でいたんだぜ。それをきみは、余計なお節介をすることによって、不幸な人間にしてしまったんじゃないか」(...)「うるさいな!きみの議論なんぞ、わたしにはどうだっていいんだよ」とわたしは、とうとう癇癪を起して言いました、「ああした行為に耽ることは、わたしには気持のいいことなんだ。だから、たとえそれが曖昧な行為だったとしても、それを行ったということで心の奥に快適な楽しみが残れば、それでいいじゃないか」「まさにその通り」とサルミェントは答えました、「きみにとって気持のいい行為だったからこそ、きみはそれを行ったんだ。きみはそれを行いながら、きみの体質に適合した一種の快楽に耽ったわけだ。きみは、きみの感じやすい魂を快く慰撫してくれる一種の甘い誘惑に打ち勝つことができなかった。けれども、きみが善行をほどこしたなどと考えたら大間違いだよ。だから、かりにおれがきみと反対のことをやっているように見えようとも、おれのやっていることが悪い行為だなどとは考えないでほしいね。おれもやはりきみと同じように、自分にとって楽しいことをやっているだけなのだからな。要するにおれたちはそれぞれ、自分にとって一番気に入る考え方、一番気に入る感じ方をしようと努めているだけのことさ」
これは酷く皮肉的な出来事である。サンヴァルと夫とサミルエントは誰しも地方的な美徳に耽っていただけなのだ。確かにサンヴァルは女に喜ばれるような行動を起こした。が、次の例で挙げるように「男色」においては拒絶感をサンヴァルは見せるように彼の行動は一貫していないことがわかる。他者から喜ばれることを善行とするなら、男色を拒むことは善行に背く行為である。サンヴァルの最後の発言が決定的であるが、その発言なくしてもサルヴァルは自国の美徳に耽っていただけなのである。
他にもあらゆる面で食人国は、西洋的「習慣」に背く。例えば「男色」は食人国のなかで宗教上の儀式であるわけだが、それに対してサルミエントは国家の観点からも、自然の観点からも遜色ないものだとする。
この男色という罪をヨーロッパでは非常に重大に考えているが、じつはこのことは世間で信じられているほど筋の通ったことではないのだ。どういう風にこの問題を論じようと、それが危険と見なされる点は、ただ一つしかない。つまり、それが人口増殖に害があるということだ。しかし、この害は果たして現実的な害であろうか。(...)おれが思うに、国家において生まれる子供の数が減るということだろう。いったい、生まれる子供の数が減るということが、そんなに大きな悪であろうか?(...)国家には、国家が養い得る市民の数よりも多くの人間が必要だろうか?(...)フランスの民衆は、自分たちの政府が自分たち民衆をあんなに冷淡に扱うのも、自分たちが逃亡したり死んだりしても政府が一向に痛痒を感じないのも、自分たちの国の法律が毎日あれほど残酷に民衆の生命を犠牲にしているのも、すべて多すぎる人口のせいだということに気がついていない。もしこの人口がもっと少なくなれば、民衆は今までとは打って変って、国家から大事にされるだろうし、法律の残忍な制裁を蒙ることも少なくなるだろうと思うのだがね。(...)あえて断言すれば、人口と贅沢の気風とが少ない場所ほど、きみのお好きらしい平等ということがより完全に実施されており、したがって、個人の幸福もより確実に保証されている。人間の身分の不平等と、その結果たるすべての不幸を生み出すものは、人口の過剰と贅沢の気風の高まりにほかならないのだ。人口が少なく質素な気風の国では、人間はすべて兄弟のように仲がいい。贅沢によって虚栄心が芽生え、人口が殖えて人間の価値が低落すると、彼らはたちまち仲違いをはじめる。人口と贅沢が増大すればするほど、少しずつ強者の権利というものが生じてくるのだ。強者の権利が弱者を屈服させると、専制主義が確立し、人民は低い身分に転落し、やがて、みずからの過剰が招いた鉄の重みの下に呻吟せざるを得なくなる。「国家の人口を減らすものは、したがって、国家に損害を与えているのではなく、むしろ国家の役に立っているのだよ。だから政治的に見るならば、この厭わしい悪徳にふけっている連中も、賢明な国家のもとにおいて罪の階級というよりはむしろ美徳の階級と呼ばれるにふさわしいのだ。次に自然の側からこの問題を検討してみようか?(...)地上にたった一人の人間も存在しなくなったとしても、やはり依然として、すべてはあるがままの状態にあるだろう。おれたちは目の前にあるものを享楽する。しかし、おれたちのために創られたものは何もないのだ。その他の動物と同じく偶然に左右されて、この世にひょっこり生まれてきたおれたちは、まことにみじめな存在であるにもかかわらず、自尊心を持とうと懸命になっている。太陽が輝やき植物が成育するのも、みんな人類という貴重な種のためだと信じようとして、懸命になっている。何という哀れむべき迷妄に陥っていることだろう!自然は蟻や蠅などといった種類が存在しなくても困らないように、人類が存在しなくても一向に困らないのであり、したがって、自然にとって何の興味もなく、それが完全に絶滅したところで自然の法則には何の変化もないような一種族の増殖のために、おれたちが自然に奉仕しなければならないといったような義務も全くないのである。だから、おれたちがどんなに無駄使いしようと、それは自然を傷つけたことには少しもならない。いなむしろ、人間という被創造物の一種を殖やさないことによって、おれたちは自然に奉仕することになるのだ。人間の完全な滅亡は、自然にその最初の創造の名誉を返すことになるだろう。自然の寛容によっておれたち人類に譲られた創造の権利を、もう一度自然の手にもどすことになるだろう。(...)この怖ろしい悪徳は、国家に対しても、また自然に対しても有用であることが証明されているわけだ。つまり国家に対しては、多すぎるものを除去してやって、これにエネルギーを与えてやることになり、また自然に対しては、その最初の活動をふたたび行うべき余地を残してやって、これに力を取りもどさせる、というわけである。 美徳の「タモエ王国」への漂着
サンヴァルはレオノールがむかったというイギリス船を追うべく、新たな航海に出る。その航海のさなか再び不運にも嵐にまきこまれる。
遠からぬ距離にソシエテ諸島の島影が見えてくるはずだったので、わたしたちの船の水先案内人は、その方面に船首を向けたのでした。そのとき、西風が怖ろしい勢いで起り、わたしたちの船はたちまちこの島から遠ざかってしまったのです。風はなおも激しさを加え、おまけに雹までが降ってきて、何人かの水夫が傷を受けたほどでした。わたしたちはただちに帆を絞り、第二接橋の帆棺を横に倒して、船の操縦を中止せざるを得ませんでした。そして、ただ帆を張らずに進み、どこかの陸地に到達するのを待つほかありませんでした。ようやく、翌日の朝まだき、陸地の影が見えてきました。もし朝方になっても風が鎮まらなかったら、船はこの陸地にぶっかって、木ッ端微塵になっていたにちがいありません。風が鎮まったので、ふたたび船を操縦することができるようになりました。が、わたしたちの船は嵐のあいだ大いに傷つき、水の漏る孔が三つもあいてしまったので、万一のために、この島に寄って、船を修理しておくことが必要だと思われました。この島はまわり中を岩に囲まれておりましたが、とても美しい島のように見えました。わたしたちの船は惨澹たる状態でしたが、この美しい島で、破損した箇所を修理するのかと思うと、明るい希望も湧いてくるのでした。
この国は澁澤龍彦のあとがきによれば、サドの「ユートピアの理想を凝縮したもの」としたうえで「おしなべて暗いペシミスティックな佐渡の作品中にあって、ほとんど類を見ない不思議な明るさを放っている」。これはサンヴァルが連れられて王のもとに向かう道中の表現に最も表れている。それはサドの表現かと疑うほど明るいものである。
規則正しく計画的に建てられたこの町は、すばらしく見事な眺めでした。町は周囲が二里以上もありました。町の形は正確な円形で、街路はすべて真直ぐにつらなっておりましたが、それらは道というよりもむしろ散歩道といった方がふさわしいくらい立派なものでした。街路の両側には樹が植えられ、歩道に沿って家々が立ち並び、街路の真ん中はやわらかな砂地で、歩けばさくさくと気分がよろしい。家々はみな同じ形をしていて、大きすぎたり小さすぎたりするような不揃いな家は一軒もありません。どの家にも一階と、二階と、さらにその上にイタリア風の屋上庭園とがあって、正面に入口が見え、入口の左右に二つの窓があり、窓の上にはそれぞれ四角な明り取りがあって、二階の部屋を明るくするのに役立っております。家々の正面はすべて 左右対称にきちんと色分けされ、薔薇色と緑色とに塗り分けられておりましたから、街を歩くと、まるでお芝居の舞台にでもいるような気持ちです。家々の門口には島民が大勢顔を出して、にこやかにわたしたちを見物していたので、街の風景はいよいよ華やかな彩りを添えておりました。わたしたちはそれらの家々のあいだを通り抜けて、大きな広場にやってきました。広場は完全な円形で、周囲にぐるりと樹が植えてありました。広場いっぱいに二つの円形の建物が建てられていて、これも同じく色が塗ってありましたが、普通の人家よりは幾らか大きく堂々としておりました。この建物の一つは、この島の頭の宮殿でした。もう一つは公会堂でしたが、この公会堂が何のために使われるのかは、いずれお話いたしましょう。頭の家には、どこといって変ったところが一つもありません。人民の眼から暴君のすがたを隠そうとする、武器をもったむのものいい番兵も全く見当りません。
ザメ
頭と呼ばれた男は、わたしたちを迎えるために宮殿の玄関にみずから姿をあらわしましたが、彼が姿あらわすや、大勢の群衆がわっと周囲を取り巻くのです。誰もが彼に近づこうとし、誰もが彼を見て喜んでいるのです。そして彼もまた、親しげな身ぶりで群衆の歓呼に答えているのです。おのれの美徳のみによって民衆の上に立ち、おのれの叡知のみによって尊敬を集め、民衆に対する愛情のみによって擁護された、この偉大な男をつくづく見ていると、まるで幸福な黄金時代にいるかのような気がされてくるのでした。まるでテーベの町にいる偉大なエジプト王セソストリスを見ているような気がされてくるのでした。
ルイ14世の御代の終わり頃にザメの父がのる軍艦が本島を発見し、未完成ながらユートピアを目指し王としての大義を果たす。道半ばのユートピアを限りなく完成のかたちに導いたのがその息子ザメである。彼はその人生を以て、父の想いを継承し成したのである。ザメは継承者としての素養を得るために旅にでなければならなかった。父はその別れに、言葉を送る。 一隻の大きな船にわたしを乗せると、父は目に涙をためて、わたしを抱きしめ、「お前が帰ってくるまで、わしはとても生きてはいられないだろう」と言うのでした、「国民の幸福のために、わしはお前と別れなければならない。さあ、息子よ、行って世界を見てくるがよい。世界中の民族の許から、お前の民族の幸福のために役立ちそうなものを集めてくるがよい。蜜蜂のように、あらゆる花々のあいだを飛び廻るのだ。そしてお前の国には、蜜だけを運んでくればよい。愚かなことはどこにでも沢山ころがっているが、賢いことはごく少ししか見つからないものだよ。浅ましい馬鹿げたことの中から、幾つかの善い教えを選んでくればそれでよいのだ⋯⋯「うんと勉強するがよい。そして人間を支配することよりも、人間を知ることを学ぶのだ。王さまの栄耀栄華に目をくらまされてはいけない。うわべは華やかでも、その下に人間としての無能や、専制主義や、傲慢などがひそんでいることを見抜かなければいけない。「息子よ、わしは昔から王さまが嫌いだったぞ。だから、わしがお前に受け継がせるのは王座ではない、わしはお前を国民の父としたいのだ。お前が国家の立法者、国家の案内者になることをわしは望んでいる。要するに、お前が国民に与えるべきは美徳であって、無情な剣ではないのだ。ヨーロッパに行けば幾らでも見られるあの暴君どもを、お前は心の底から軽蔑しなければいけない。どこの宮廷でも、暴君どもは大勢の奴隷に取り巻かれているが、奴隷が王さまに真実を伝えたためしはない。もし真実を伝えれば、これらの寵臣たちは、自分の立場が危うくなるのを知っているからだ。王さまは真実を好まない。それというのも、彼らがつねに真実を怖れなければならない立場に身を置いているからだ。真実を怖れなくても済む唯一の方法は、有徳の人間になることだ。卒直に生きている人間、良心に疚ましいところのない人間は、ありのままの事実を語られても少しも怖れない。しかし心の汚れた人間、勝手なことばかりしている人間は、どうしても不正を好み、おべっか使いを好むようになる。不正やおべっかは、自分のしている悪事を自分の目に隠してくれるからだ。自分のしている苛斂隊求をまぎらしてくれるからだ。人民が心のなかで泣いている時でさえ、顔では笑顔を見せてくれるからだ。廷臣がなぜおべっかを使わなければならないか、なぜ君主の目に目隠しをかけてやらねばならないか、その理由をひとたび洞察しさえすれば、お前には、国家の悪徳がまざまざと見えてくるだろう。この悪徳を避けるためには、この悪徳を研究しなければならない。国民の幸福をつくることこそ、いちばん大事な君主の義務なのだ。成功すればまことに楽しく、失敗すればまことに悲惨だ。だから、立法者は自分の努力が功を奏した時にのみ、本当の幸福を味わうことができるのだよ。「この世には宗教というものが沢山あることに、お前はきっとびっくりすることだろう。どこの国でも人間は、それぞれ自分の宗教に心酔していて、自分の宗教だけが絶対に正しいのだと信じている。自分の宗教だけが神の意に適うのだと信じている。もちろん神自身は、どちらの方が正しいなどとは一度も言いはしなかった。お前は、これらの宗教のすべてを冷静に検討してみる必要がある。そして宗教というものは、人間の精神に力を与え、人間が悪の道に走るのを阻止する力を有するとき、はじめて人間にとって有益なものになるということを考えてみるがよい。そのためには、宗教は純粋かつ単純でなければならない。奇怪な教義と馬鹿馬鹿しい儀式ばかりが目にっくような宗教は遠ざけた方がよかろう。そんなものは贋物で、危険な宗教にきまっているからだ。そんなものをお前の国に行らせた日には、罪悪と殺戮の絶え間がなくなるだろう。かつてその宗教を地上に弘めた卑しい山師連中が、悪人と呼ばれてふさわしいように、お前もまた、その宗教をこの絶海の孤島に運んでくることによって、悪人と呼ばれなければならなくなるだろう。だから、そんな宗教は遠ざけ、嫌悪してやるのがよいのだ。ただ詐欺と愚行の所産でしかないような宗教は、この国の人間を向上させるわけには行くまい。「しかしながら、もしその宗教がお前の目に、単純な教義と高潔な道徳とを有し、あらゆる豪奢の誇示を軽蔑し、あらゆる幼稚な寓話を排し、唯一の神の礼拝だけを目的としている宗教のように見えたならば、お前は、その宗教を自分のものとするがよい。それこそ善い宗教にちがいあるまい。ひとが神の意に適うのは、場所によって尊敬されたり軽蔑されたりする猿芝居のためではなく、もっぱらわれわれの魂の純潔、善行のためなのだ⋯⋯もし神の存在するのが真実なら、神を形づくる美徳というものがあるはずであって、人間はこの美徳だけを真似すべきだろう。世の中に法律というものが沢山あることにも、やはりお前はびっくりすることだろう。この法律をも、宗教に対すると同じ冷静さをもって、仔細に検討してみる必要がある。そして、ただ有用な法律のみが人間を幸福にするということを知らねばならない。この原則から外れる法律はすべて、贋物の悪法であると思って差支えない。「人間の一生はあまりに短かいので、わしは自分の計画した目的のすべてをついに果すことができなかった。ただお前のために道を切り開いてやったにすぎない。この目的を受け継いで完成させるのは、お前の役目だ。さらにお前はわれわれの意志を、お前の子供たちに託すがよい。こうして二代三代と受け継がれて行くうちに、この国の人民は、ますます幸福になって行くことだろう⋯⋯では、さようなら、行っておいで」そう言って、父はふたたびわたしを抱きしめました。やがて、わたしの乗った船は波のまにまに遠ざかりました⋯⋯ ザメはその旅で多くを学んだ。それを次のように語る。
わたしは世界中を歩きまわりました。故国を離れて二十年、その間に、もっぱら人間というものを識ろうと努めました。いろいろな姿に身をやつして、さまざまな職業の人間のあいだに出入りしました。ロシアの有名な皇帝のように、職人や農夫の友達にもなりました。職人は船をつくることを教えてくれ、農夫は種子を蒔いたり土地を耕したりすることを教えてくれました。また詩人は、わたしの思想を粉飾することを教えてくれ、歴史家は、事実を後世に伝えたり、あらゆる国々の風俗を記録したりすることを教えてくれました。また司祭は、神々の不可解な学問を伝授してくれ、法律家は、人を向上させるために人間を束縛するという、これまた実に不可思議な学問を授けてくれたものでした。また徴税官は、税金を取り立てる方法を教えてくれ、人民から養分を吸い取ってみずから肥え太り、国民と国家を貧窮の状態に陥れるという、まことに怖ろしい学問を伝授してくれました。また商人は、遠くの土地で得た産物を国家の紙幣によって交換したり、資本を二倍に殖やしたり、あらゆる策略を用いて金持になったりする方法を教えてくれましたし、商人よりもっと順応性に富んだ周旋業者は、王侯貴族たちの利害関係というものに対して、わたしの目を開いてくれました。未来に対して先見の明をもっている彼らは、いろんな国々の風俗や世論をしらべ、それによって、その国にいつ革命が起るかというようなことを計算し推定するのでした。貴族たちのあいだに、いかに醜い利害の対立があるかということを赤裸々に見せてくれたのも彼らでした。自尊心と利益のために人民を踏みつけにし、野心のために到るところで流血の惨事を惹き起すのが王侯貴族たちでした。最後に、この周旋業者よりもっと軽薄で、もっと信用のできない宮廷人が、王さまを騙す術を教えてくれました。結局、わたしは多くの王さまを見れば見るほど、自分が王さまになるために生まれてきたことをつくづく悲観せざるを得ませんでした。 ユートピア原理
ザメはヨーロッパ旅行の教訓をもとに、人間の不幸の源泉を財産と身分の不平等、および人間が情念(欲望)と法律の板挟みになってることにあるとみる。
「いたるところで、わたしは悪徳が大いに栄え、美徳がほとんど跡を絶とうとしている有様を目にしました。いたるところで、虚栄やら嫉みやら、吝嗇やら不節制やらが、強者の気まぐれに弱者を屈従せしめているのでした。いたるところで、人間が二つの階級、いずれにしても歎かわしい二つの階級に分かれているのでした。すなわち一方の階級においては、金持がおのれの快楽の奴隷となり、もう一方の階級においては、不幸な者が運命の犠牲者となっているのです。前者のあいだにも、向上しようという意志は認められなかったし、後者のうちにも、よりよい状態に達する可能性はないようでした。まるで彼らは双方とも、共通の不幸のためにのみ力をつくし、彼らを圧しひしぐ重い桎格の数を殖やそうとのみ努力しているかのようでした。富める者はつねにおのれの欲望の虜になって、却っておのれの自由を束縛し、貧しい者はつねに相手に軽蔑され侮辱されるばかりで、重圧に堪えるに必要な勇気というものをそこから汲み取ろうとはしないのです。「わたしが平等を唱えると、ひとびとは、そんなものは幻想だと主張するのでした。そのうちに、わたしは気がつきました、平等を斥けるひとたちは平等を失わねばならない、ということに。この時から、わたしは平等の実現される可能性を信じるようになりました⋯⋯そうです、この時から、わたしは平等というものが、人民の幸福のためにのみ作られるものだということを信じるに至ったのです。すべての人間は平等の存在として生まれてきたのであって、人間に差別をつけるような意見は、間違っています。人間が平等であるような場所でなら、どこででも人間は幸福になることができます。人間のあいだに差別が存在しているような場所では、人間は絶対に幸福になることができません。この差別というものは、国民の一部を幸福にすることしかできないのであって、立法者たる者は、国民のすべてが等しく幸福になるためにこそ努力すべきなのです。階級の隔たりを無くするのが困難だからと言って、この意見に反対する法はありません。問題は、世論を打ちこわし、財産を均等にすることのみです。この仕事は、租税の制度を確立する仕事ほど困難なわけでは決してないのです。「実際、わたしはそれほど心配してはおりませんでした。わたしの国の国民は、まだほとんど自然状態に近いような暮らしをしており、あの差別という間違った制度によって、堕落させられてはいなかったからです。 ザメは続けて「人間を不幸にする第二の原因」を「人間の欲望」だとするが、これは平等を目指す理由の一つである。なぜなら「平等を実現すれば、すでに虚栄心、貪欲、吝嗇、野心などといった欲望は消えてなくなるはずだったから」である。
ザメの理想は自らの死によって完成されるという。
タモエの王朝の歴史も、永いことはないでしょう。わたしの息子は、きっと王位を継承しないと思います。この国には王は必要ではありません。王位が連綿とつづけば、そのうちには必らず人民を束縛する鎖が生じます。この国には、一人の立法家が必要だったのです。わたしの義務は里たされました。わたしが死んでも、この幸福な島の住民は、いつまでも自由な共和主義的な政府の寛大な政策を楽しんでいられるでしょう。わたしはそのための下地をつくってやったのです。 法と罪と罰
ではその最小法が犯されるとき、ザメはなんとするべきだというのか。近親相姦と男色に対して「わたしはこれらの悪徳を絶滅したいと思っていたので、それらを罰するようなことは、厳に慎しみました。マドリッドの宗教審問所やグレーヴ広場の絞首台は、わたしにとってよい教訓でした。処刑台を立てれば立てるほど罪悪は殖えるものだということを、それらは示していたのです。わたしは世論を利用しました。御存知のように、世論こそは至上の力をもっています。みなが近親相姦を嫌悪し、男色を滑稽視するように、わたしは世論をみちびきました」とするように、タモエ王国の「刑罰は、もっぱら世論にその基盤を置いている」という。
「さて、わが国の刑罰は、もっぱら世論にその基盤を置いています。わたしはこの国民の気質を丹念に研究しました。彼らは感じやすく、誇り高く、名誉を愛するのです。そこで、彼らが悪いことをした時に、わたしは彼らの面目を失わせてやることにしました。市民が重罪を犯した時には、二人のひろめ屋に左右を挾まれて、町中を歩いて廻らねばなりません。ひろめ屋は大声で、彼の犯した犯罪を呼ばわるのです。市民はこのことを肝に銘じて承知しております。でもこんな罰は、重罪の場合だけです。軽罪の場合には、これほどきつい懲らしめ方はいたしません。たとえば、国家から委ねられた財産を粗略に扱う無頓着な夫婦には、家を変えさせて、未開拓の土地に住まわせます。この土地から食べ物を得るためには、二倍の苦労と心遣いが必要です。彼らが働き者になったら、もとの所有地に帰ることを許します。 「道徳的な犯罪については、もし犯罪者がわたしの住む町以外の町に住んでいれば、衣服にある印をつけるこによって懲罰されます。またもし犯罪者が、わたしの住む首都に住んでいれば、彼はわたしの家への出入りを差し止められます。わたしは道楽者の男だとか、姦通した女だとかを決して家へは迎えません。こんな風にして、彼らの名目を失墜させてやると、彼らは非常にがっかりします。 彼らはわたしを愛しておりますし、わたしの家が、美徳を愛する者だけのために開放されているということを、知っているからです。美徳を行うか、しからずんば、わたしに会うことを諦めるかしなければなりません。そこで彼らは心を入れかえ、行いを改めるわけです。このささやかな手段によっ て、わたしがどれほどの市民を改心させたか、あなたはとても御想像にはなれますまい。名誉心こそ、人間の制動機です。こいつをうまく操ることを知ってさえいれば、思いのままに人間を導くことができます。手に鞭をもっていたのでは、人間はいじけてしまい、勇気を失って、駄目な人間になってしまいます。わたしたちは、つねにこの問題に立ち帰るべきでしょう。
こうした態度は彼の王としての美学にある。彼は徹底的に「執行人」としての役目を放棄すべきだとする。それはザメが「国民の迫害者ではなくて、国民の柱石」を目指すことにあるのだ。
わたしは、このすぐれた国民に単純な法律を与えるという話をしましたが、法律を侵した者には、やはり死刑を課すべきでしょうか?いやいや、それはいけません。人間の生命を自由にし得るのは、神のみです。もしわたしが、この権利をあえて奪うなら、わたし自身、罪人になってしまいます。あなた方ヨーロッパ人は、血を好む野蛮な神という観念をつくりあげ、神に有罪を言い渡された者はすべて怖ろしい地獄へ行くという信仰に、昔から馴れ親しんできたものですから、神の裁きの真似をして、人間を苦しめたり殺したりすることが、どんなに不正なことかということに気がつかなかったのです。ただ空想から生まれた幻影を闇雲に信じて、おのれの同胞を殺害するという、罪のなかなかでもいちばん重大な罪を法律として定めていることに、あなた方ヨーロッパ人は、少しも気がついていないのです。(...)「悪が善をもたらすという考え方は、愚者の頭から生まれた最も怖るべき狂気の思想です。人間は弱い者であり、神の手によって、そういう風に創られたのです。どうしてそういう風に創られたのかということは、わたしには分かりませんし、また、そういう風であるからといって、人間を罰することはわたしにはできません。人間をできるだけ善良にするために、わたしはあらゆる手段をつくさねばなりませんが、しかし彼らが理想的に善良でないからといって、彼らを罰するだけの用意はわたしにはないのです。むしろ彼らを啓発してやるべきでしょう。すべての人間が、他人を啓発してやる権利をもっております。しかし他人の行為を裁く権利は、誰にもありません。人民の幸福こそ、神の意志によってわたしに課せられた第一の義務です。(...)「わたしはこの島の誠実な市民たちから、彼らに役立つための権力を委ねられているのであって、彼らを苦しめるための権力はもっていないのです。わたしは国民の迫害者ではなくて、国民の柱石にならなければならない。国民の死刑執行人ではなくて国民の父にならなければならないのです。
「執行人」ではなく「父」であろうとするからこそ彼は、神を模倣し罪人を苦しませることでなく、罪人を「善い人間」にすることに努める。例えば彼は牢による罰を否定する。ザメに言わせてみれば牢屋とは「陰惨な孤独、危険な無為、不吉な自暴自棄に陥って、(...)悪徳の種が芽生え、血が騒ぎ出し、精神がさまざまな妄想に沸き立つ」と同時に「欲望を満たし得ないということが、罪の動機をいよいよ強固」にさせ「牢屋から出た時、彼は前より一層の悪人、一層の危険人物になっている」ものなのだ。そこでかれは「むしろ社会に出してやるべきです。本当の罰は、彼が社会から毎日受けなければならないので、彼が少しでも善い人間になり得るのは、この社会という学校の中以外にはありません」とするのである。彼はアリステイデスに基づき「犯人を憎むべきでも罰すべきでもなく、ただやさしく教え諭し、改心させるより仕方がない」とするのだ。 「人間の自然状態は、野生の生活です。人間は熊や虎のように、森のなかで生まれたのですが、その欲求を洗錬させて、必要な生活手段の多くを得るためには、お互いに結ばれ合うのが有効だと考えたのです。ですから彼らを文明に導くためにも、つねにそこから出発して、彼らの最初の状態、自然に生まれたままの自由の状態を考えてやらねばなりません。改善するにしても、あの昔のような幸福な状態を補い得るもののみを、付け加えるべきです。いろいろな便宜を与えてやるのは結構だが、束縛を課してはいけません。欲望の達成を容易にしてやるのは結構だが、彼らを屈従させてはいけません。彼ら自身の幸福のために制限を設けるのは結構だが、愚劣な法律の山で彼らを圧しつぶしてはいけません。国民の快楽を二倍にするように努力しつつ、彼らができるだけ永いあいだ、確実にその快楽を楽しめるような方法を考えてやるべきです。
こうした自然状態の美学は市民の裸体での生活にも現れている。「乳房を完全に露出しているという習慣」に対してびっくりするサンヴァルにザメは「毎日のように見ているものによって昂奮する人はありません。羞恥心などというものは、因襲的な美徳にすぎないのです。自然はわたしたちを裸のまま生み出したのですから」という。更に「自然は種の繁殖のための期間をわずかしか女性には与えていない」ことを参考にザメは婚姻法を制定している。また最小法の対象は自然として描かれる。
すべての法律のうちでいちばん根本的なものは、自然の法則です。人間が本当に必要とするのは、これだけです。悪人というのは、その魂のなかに「自分にしてほしくないことを他人にもするな」という自然の金言の刻み込まれていない人間のことで、そういう人間は法律の恐怖によって、ある程度、その行動を掣肘されることがあるかもしれません。しかしこの自然の根本的な制約を、みずからの魂のうちに断ち切ってしまうためには、法律を破る努力よりもはるかに大きな努力を必要とするはずです。自然の法則によって十分に抑制された人間は、したがって、自然の法則以外の法律を必要としないでしょう。そしてまた、この第一の自然法則によって抑制されていない人間は、第二の法律によっても、やはりそれ以上に抑制されるはずはないでしょう。
ザメはモンテスキューを引用しながら、ヨーロッパの反自然的法律を批判する。「均衡を保つため」だとか「政治的自由を市民のために」だとかは、理念的なものにすぎず実状は、強者が更に強者となり、弱者をさらに抑圧する機械でしかなかったのだ。だからこそ自然の体系をザメは重んじるのである。 経済
ザメはヨーロッパ的過剰生産・消費を徹底から批判し、自給自足を最もよい経済システムとする。
あなた方ヨーロッパ人の植民地の商業は、わたしにはぞっとするほど厭なものでした。どんな必要があって、あんな遠くへ市場を求めに行くのだろう、とわたしは考えたものです。われわれの真の幸福は、あんなに遠くへ求めに行かなければ得られないような品物によって成立しているのだろうか、と、あなたのお国の作家の一人が言っております。われわれは不自然な趣味を永遠に守っていなければならないのだろうか、と。「砂糖だとか、煙草だとか、香料だとか、コーヒーだとかいうものは、貧困のために人間を犠牲にしてまで、獲得しなければならないものなのでしょうか? 外国貿易などというものは、わたしの意見によれば、国の資源があり余っているか、或いは足りな過ぎるかするような場合でなければ、決して役に立つものとは言えません。あり余っている場合には、国内の余分なものを売って、装飾品や奢侈品を買うこともできます。金持が贅沢をすることもできます。また足りない場合には、必要なものを求めに行くのは当り前のことです。けれども、あなた方のお国フランスの場合は、どちらの場合にも当てはまりません。余分なものはほとんどなく、不足なものも全くありません。つまり、国内に産するものだけで国民を幸福にし得るという、ちょうどよい立場にあるわけです。自給自足の恵まれた立場にあるわけです。さらに幸福になるために獲得する必要も、交換する必要もないのです。「なにも植民地を経営したり、世界の隅々に船を送って国家の福祉を増進したりしようと躍起にならなくても、このフランスという恵まれた国は、必要以上のものを国民に得させてくれるのではないでしようか?ヨーロッパのいかなる国よりも恵まれた場所にあるので、ちょっと工夫をすれば、世界中の産物を手に入れることだって出来るはずです。プロヴァンス地方の南部、コルシカ島、スペインの近隣地方では、砂糖だって、煙草だって、コーヒーだって容易に産するはずです。これらは余分なもののなかでは、いちばん無駄でないものと見なし得るものです。香料などは、なしで済ませばそれに越したことはありません。第一、その方が健康にもよいのですから、惜しがる必要はありますまい。こう考えてみると、あなたのお国には、市民の安楽に役立つもの、さらに金持の贅沢に役立つものが、ことごとく揃っているのではありますまいか?⋯⋯「それなのに、いったいどうして外国貿易をする必要があるのでしょう? あなたのお国に余分なものがあるならば、外国人にあなたのお国の港までそれらを取りに来させればよいのです。そしてそのお返しには、お金を受け取るか、もしくは何か安っぽい品物をもらっておけばよいのです。でも、それ以上のものを求めて、こちらからわざわざ外国へ船を出すなんてのは、やめた方がよろしい。そういうことをすれば、他人の気まぐれを満足させるために自分の生命を危うくする人が、たくさん出ます。人間の生命を犠牲にして快楽を勝っているのだと思えば、どんな人だって、後悔せずにはいられますまい。失礼しました、お友達。でもこういうことを、世の中の人はあまり考えていないらしいのですな。どうもわたしには、そうとしか思われないのです。「あなたのお国がお返しとして提供するものを得るために、いろいろな国がいろいろなものを持ってくるでしょう。でも、植民地をつくることだけはいけません。植民地は無駄なものですし、費用倒れになる恐れもありますしね。だいたい、母親から遠くへ子供を離しておけば、どうしても監督不行届きになるのは止むを得ないことです」ここで、わたしはザメの話をさえぎって、イギリス植民地の話を一くさり聞かせてやりました。ザメは大きく頷いて、「たぶん、そんなことだろうとわたしも思っておりましたよ。いや、大いにあり得ることです。ワシントンの共和国は、かつてのロムルスの共和国のように、だんだんと膨脹して行って、まずアメリカを制圧し、やがては地に乱を呼ぶことでしょう。あなた方フランス人も、専制主義の束縛をゆすぶって、共和国民になられたばかりではありませんか。あなた方のような元気と誇りにみちた自由な国民には、共和国という政体こそ、唯一のふさわしい政体です。「繰り返して申しますが、とにかく、自国内で必要なものの一切をまかなえるほど仕合せな国民は、自国内に産するものを消費すべきであって、かりに余分なものがあっても、外国がそれを譲ってほしいと言ってきた時以外は、やたらに輸出すべきではありません。
所有権を国家に還元することで、財産の平等を示し欲望〔贅沢〕とそれによる格差を是正すること。これはまさに共産主義的ヴィジョンであるといえよう。そしてそれゆえに上記で論じたような過剰生産の防止にもつながると言えよう。
「所有に関することの一切が、これであなたの前にさらけ出されたわけです。さらに細かいことを 述べれば、人民はすべてのものを個人の所有とせず、国家から借り受けているので、彼が死ねば全財産が国家に返還されることになるのです。でも生きているあいだは、完全に落着いた心境で、自分の財産の恩恵に浴したいと思うのが人情ですから、彼は自分の所有地を耕さないで放っておくような馬鹿な真似はいたしません。所有地の手入れをよくすれば、それだけ安楽な暮らしができるので、誰でも所有地に気を配らないわけには行かないのです。夫婦は年を取ったり、配偶者に先立たれたりすると、昔若い者の面倒を見てやったお返しに、今度は若い者から面倒を見てもらうことになります。その場合、老人や病人や寡婦たちの家とか領地とかが、以前と同じようにきちんと管理されていなければ、面倒を見ている若者は非難されます。 「もちろん、若者たちは老人の所有地を管理することに、直接の利害関係をもつものではありません。彼らに必要な財産はすでにちゃんとあるので、老人の所有地を受け継ぐわけには参りません。でも彼らは祖国に対する感謝と愛着とから、こういった仕事を引き受けるのです。それに、彼らは自分も年寄りになったら、やはり同じような援助を受けなければならないことを感じておりますし、もし 現在自分たちが他人につくしてやらなければ、将来自分たちも世話をしてもらうわけには行かなくなることを感じているのです。 「この財産の平等が、いかに徹底的に贅沢を追放するものであるか、あなたにわざわざ御注意申しあげるまでもありますまい。国家においては、奢侈取締令ほど確実有効な法律はありません。他人よりも多く所有し得ないということ、これが、ヨーロッパのあらゆる国々に見られるあの破壊的な悪徳を、徹底的に消滅させるのです。もっとも、他人よりも上等の果物、他人よりも美味しい食料品をつ くろうという気持は、認められております。これは、ある目的に到達するために必要とされる苦労や 丹精の結果でありますから、贅沢ではなくて、競争心というものです。競争心は、人民の幸福に寄与するものなので、政府もこれを支持しでおります。
こうした方途の結果、タモエでいかなる効果を及ぼしたのか。つぎのように語る。
「財産の平等とともに、盗みが消えてなくなります。盗みとは、自分が所有していないものを所有したいと思う欲望、他人がもっているものを見て、自分も欲しいと思う欲望にほかなりません。しかるに、おのおのが同じものを所有していれば、この罪の欲望はもはや存在し得なくなります。「財産の平等は国民の団結を助長し、穏和な政府の基礎を固め。国民の一人一人がひとしく国家を愛するような風潮をつくり出しますから、国家に対する犯罪、革命などは起こりようがなくなります。(...)地位と財産の平等によって、国内の分裂を防ぐことができるので、あらゆる殺戮の根源が絶たれます。
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パンテモンの修道院ならびに院長テルベーヌ夫人のこと
テルベーヌの恥辱概念
羞恥心なんて、根も葉もない感情です。それはただ風俗や教育の賜物であって、いわゆる習慣というものの一形態にすぎないのですからね。裸の男や女を創り出した自然が、同時に裸になることの嫌悪や羞恥を人間に与えようはずがないじゃありませんか。もし人間がつねに自然の原理に従っていたのだったら、人間は羞恥心などというものを決して知らなかったでしょう。 つまりこの宿命的な真理が証明している通り、この世には、自然の法則を完全に忘れ去ることを以て初めて成立つある種の美徳というものがあるのね。こんな風に、キリスト教道徳を構成しているすべての原理を吟味してみるというと、実に驚くべき人間性の歪曲が見つかりますよ!
そしてジュリエットに悪徳の種子を植え付ける
お前さんたち、もう遠慮することはないよ。自然は人間の美しさを隠しておくために人間を創ったわけじゃないのだからね、あたしたちの目を蔽いかくしているようなものは、ひとつ残らず悪魔にでもくれておやり!
テルベーヌ哲学の基礎づけ
あたしの哲学の第一歩はね (...)世間の思惑など物ともするな、ということよ。あなたなど想像もつかないかもしれないけれど、あたしは自分が他人に何と言われようと、一向平気なの。だいたい、卑しい俗物たちの意見が、あたし自身の幸福をどう左右することができて?そんなものは、結局あたしたちの感受性の持ち方によって、あたしたちに影響するものでしかないのよ。もし智識と反省を積んだおかげで、あたしたちがこの感受性というやつを鈍磨させて、もっとも感動的な出来事においてさえ、その効果を感じなくなるほどになったとしたならば、良かれ悪しかれ他人の思惑などというものが、あたしたちの幸福に何ごとか影響を与えるなんてことは、まった くあり得ないことになるでしょう。人間の幸福というのは、あたしたち自身の裡にこそ在るべきもの、あたしたちの良心や、さらにもっとあたしたちの思想に依存しているもので あって、良心のもっとも確実な勧告といえども、この思想の支持を仰がねば無力でしょう。
続いて良心を紐解く
なぜかと言うに良心というものは (...)型にはまった一様なものではないの。殆んどつねに風俗の結果ないし気候風土の影響であって、だから例えば、あたしたちフランス人を慄えさせるような行為が支那人にはぜんぜん嫌悪の情を起させない、というようなことも事実として有り得るわけよ。従って、もしこの順応しやすい器官が、ただ単に気候風土の違いだけによって、 極端にまで走り得るものとしたならば、この場合、真に賢明なことは、不条理と幻影とのあいだから道理にかなった中庸を選び出すことであり、また、ひとが自然から享けた性向にも自国の政府の法律にも同時に適合する思想を、みずからの裡につくり出すことでしょう。そしてそういう思想こそ、あたしたちの良心を形成するものでなければならないわ。 ひとがあまりに若いうちは、みずからの行為の指針としての哲学を採用することが容易に出来ないのは、こういったわけなのよ。哲学のみが、あたしたちの良心を形成するのであり、またあたしたちの人生のすべての行為を決定するのは、あたしたちの良心なのですからね
テルベーヌの哲学への批判と回答
「それではあなたは、御自分の評判などどうなったって構わないほど、無頓著でいられるというのですか?」「その通りよ、あなた。本当のことを言うとね、あたしは自分の評判がわるいという確信をもてば、ますます内心で愉快を覚えるの。そして評判が良いと知れば、まあそんなことはないでしょうけれど、きっとがっかりするでしょうね。いいこと、ジュリエット、このことをよく覚えといてちょうだい、評判なんてものは、何の役にも立たぬ財産なのよ。 あたしたちが評判のために、どんなに犠牲を払っても、決して償われはしないのよ。名声を得ようと躍起になっている者も、評判のことなど気にかけない者も、苦労の多い点ではどちらも同じよ。前者はこの貴重な財産が失われはすまいかといつもびくびくしているし、後者は自分の無関心をいつも気に病んでいるの。そんなわけで、もしも美徳の道に生えている茨が、悪徳の道に生えている茨と同じほどの量だとしたなら、いったいなぜこの 二つの道の選択にあたしたちは頭を悩ますのでしょう、あたしたちは自然のままを、思いつくままを、そのまま素直に信用していればよかりそうなものじゃありませんか?」
(上記)評判の元の美徳と悪徳の比較
「でも、そんな道徳を採用していた日にゃ(...)あんまり東縛がなさすぎて、何だか怖いような気がしますけど」 (...)「あんまり楽しみが多すぎて心配だって言うのね。でも、よく考えてごらん、いったいこの束縛というのは何のこと? 冷静に考えてごらんなさい⋯⋯人間社会の慣習なんてものは、殆んどいつも、あまねく社会の成員の認可なしに広められてしまうものなので、多くの場合あたしたちの憎悪の的であり⋯⋯世の良識とは相容れぬものよ。馬鹿々々しい世間の慣習は、唯々諾々とそれに従おうとする阿呆な人の眼にしか現実性をもたず、叡智と理性の眼にはただ軽蔑の対象でしかないものよ (...)」 テルベーヌのコンパス
「本当に、デルベーヌ、あなたは心から放蕩好きな⋯⋯残酷な方です」 「いいえ、そんなもんじゃないわ。あたしはただ、激しい情欲を有っているというだけなのよ。情欲の声しかあたしは聴かないのよ。それが人間のいちばん忠実な声だということを確信しているもんだから、恐怖もなく後悔もなく、その声が示唆するところにあたしは従うのよ。 (...)」
上記「あたしたちは自然のままを、思いつくままを、そのまま素直に信用していればよかりそうなものじゃありませんか?」に基づいており、『ナジャ』の情念引力に通ずるものを感じる。 /icons/白.icon
大泥棒ドルヴァルのこと
ドルヴァルの盗哲学
社会というものが出来た初めから、人間を区別するものはたった一つしかない。それは何かと言えば、それこそ力である。自然は人間のすべてに住むべき土地を与えたが、 しかしこの土地を分ける時に拠りどころとなるべき力は、人間に等しく分け与えなかった。 いったい、力のみが分配を支配するという時に、平等などということがあり得るだろうか。すなわちここに、すでに明白な盗みがあるのである。というのは、この分配の不平等ということが、必然に弱者に対する強者の侵害を想定するので、この侵害、つまり盗みはすでに明確であり、自然の認可を受けているものでさえあって、自然が人間に、必然にこの盗みという行為に赴かしむるべき動機を与えているのも道理なのだ。また一方弱者は弱者で、力によって奪われた土地に何とかして喰い込むために、術策を弄して復讐をはかるので、ここに盗みの妹であり自然の娘であるところの、詐欺という行為が成立する。もしも盗みが自然を怒らせるような行為だとしたら、自然は人間にこの行為を犯させないため に、力も性格もひとしい人間を造ったことだろう。分配の平等は力の平等の結果なのだから、そうなったら、他人を犠牲にして金持になろうなどという欲望は一切影をひそめるだ ろう。ここにおいて、盗みは不可能になるべきである。しかるに、人間は自分の親であるこの自然の手から、分配の不平等と、この不平等の確実な結果である盗みとをどうしても犯さないではいられないような構造を享けているのである、それなのにいったいどうして、盗みが自然を怒らせるなどということを信じるほど馬鹿になり得ようか? 自然は動物の本能の中にも盗みの本能を一枚加えることによって、それがいかに自然の法則に大切なものであるかをちゃんと証明しているではないか。動物がその種族を保持するのも、一にこれ永遠の盗みによるのであれば、またそれが個々の生命を維持するのも、数知れぬ横領強奪といった行為によるのである。自分自身が動物の一種族にすぎないのに、そもそも人間はどういうわけで、自然が動物の心の奥ふかくに滲込ませた本能が、自ら許では罪になるなどと馬鹿な考えを信ずるに到ったのだろう?
所有権というものの発端にさかのぼってみると、どうしたってわれわれは横領剥奪にぶつからざるを得ない。しかるに盗みが罰せられるのは、もっぱらそれが所有権を侵害するという理由による。ところがこの権利そのものが、元来盗み以外のものではないのだ。だから結局法律は、盗みを攻撃するという理由で盗みを罰し、権利を回復しようとしたという理由で弱者を罰し、また自然から享けた力を利用して、自らの権利を確立し増強しようとしたという理由で強者を罰しているのである。いったいこれ以上滅茶な関係があるものだろうか?正当な理由で確立された権利というものがどこにもない以上、盗みが一つの罪であることを証明するのは極めて困難であろう。けだし盗みというものは、一方から見れば秩序を乱すものであるが、他方から見れば乱れたものを回復するものに他ならないのであって、自然は前者よりも後者をとくに喜ぶものではないのだから、一方よりも他方を優遇して自然の法則を無視するというがごときことは、許さるべき筋合のものではないのである
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遊蕩児ノアルスイユのこと
正/不当性の均衡について
(...)あらゆる情欲には二様の意義があるのだよ〜ひとつは犠牲者に関して言うことで、これは大へん不当であり、他はこの情欲を行使する者に関して言うことで、これはまったく以って正当である。 (...)われわれにこの情欲を授けるのは、自然の手のみであり、われわれに情欲を吹き込むのは、自然のエネルギーのみなのだからな。とはいえこの情欲は、自然界において必要な不正をしかわれわれに犯させはしない。そして、その動機のみわれわれに未知である自然の法則は、少なくとも美徳の総和にひとしいだけ悪徳の量を要求するね。美徳への傾向を有たない人は、従って、彼を支配する悪徳の手の元に盲目的に身を屈さねばならないのだが、この手が自然の手であり、自然によって平衡を維持するために選ばれたものであることは、疑いを容れないのだよ」
悪徳と美徳の脱構築
「快楽の興奮が消えた時、あなたは美徳のひそかな衝動のようなものをお感じにはなりませんか (...)」 (...)「俺の内部で悪徳と抗争してるものは、果たして美徳であるか?また然りとするならば、俺は美徳の勧奨に従わねばならないのか?〜世間のひとびとが、美徳と呼んで称揚しているものは、 (...)ひたすら社会の幸福に向かって進む時 (...)自分に関することをすべて忘れて、他人の利益になることしか考えてはならない、ということ
上記美徳の定義に対して、美徳の曖昧さを下記にて唱える
もしおれという人間のあらゆる性情が、おれの内部でこうした生き方に異を唱えるとしたら、いったい他人と同じように行動しなければならない理由がどこにあろうか? (...)もし社会に役立つものをひとが美徳と呼ぶなら、定義を離れて、その社会の個々の成員に役立つものをまた同じ名前で呼んでもいいわけで、その結果、個人の美徳はしばしば社会の美徳と相反するものだ (...)けだし個人の利益はほとんど常に社会の利益と折合わないのである。
つまり二項は個人の美/利益と社会の美/利益という対立関係であり、美徳のもとに生きるというのは相反する二つの概念を同時に指令しており、自家撞着である。
すなわち、おれの内部で抗争しているものは、美徳なのではさらさらないのであって、つまりこの、束の間おれの耳をわずわらす弱々しい声は、教育ないし偏見の声でしかないのだと。
とすると無味乾燥で人工的な「美徳」概念は最も味気なく、自然のエネルギーによる「情欲」は激甚な刺激をもたらす
おれの精神は逸楽と一つのものとなり、おれはもはや肉欲のため にしか呼吸をしなくなるのだ。
上記論の整備化
自然の手がわれわれ人間の魂の中に永遠に刻みつけた、この美徳の衝動に水をさすものは、つねに情欲のみである。 (...)どうして美徳が自然の第一の衝動の結果であって、悪徳は第二の結果でしかないと一途に決め込んでいるのだろう? (...)美徳は人間の恒常的な道徳では全くなくて、単に社会生活の義務が人間に尊重することを強いた、不自然な犠牲的感情でしかない。 (...)悪徳の勧奨は、これは確かに自然の声である。だが法律というものがあるので、必ずしも完全な幸福を得られるかどうかはわからない。 (...)美徳の技巧的な世界は、これは自然のものでは全くないけれども、おそらくある種の損失を強いつつも、自然の声を心中で圧し殺せねばならなかった無惨な犠牲に対する埋め合わせだけは、確実につけてくれるだろう。 (...)悪徳こそわれわれ人間に固有なもの、つねに自然の第一法則なのであって、 (...)自然の組織の本質なのだ。 善行はインセンティブのもとに生起する
ノアルスイユへの愛
ラ・デュラン夫人
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ドルマンセの哲学
それから諸君、愛すべき遊蕩児よ、若い頃から欲望だけを頼りとし、気まぐれだけを掟としてきた君たちは、あの厚顔無恥なるドルマンセを手本とするがよい。遊蕩生活の華々しい道を進もうとするならば、諸君もドルマンセのように、徹底的にやらなければいけない。ドルマンセの教えを拳々服膺して、次のことを理解しなければいけない、すなわち、いやしくも男一匹として、このみじめな地球の上に誕生してしまったからには、せいぜい己れの趣味と気まぐれの範囲を拡大し、あらゆるものを快楽のために犠牲にして、辛い人生に幾らかでも薔薇色の彩りを添えようと努力すべきである、と。(Et vous, aimables débauchés, vous qui, depuis votre jeunesse, n’avez plus d’autres freins que vos desirs et d’autres loix que vos caprices, que le cinique Dolmancé vous serve d’exemple ; allez aussi loin que lui, si, comme lui, vous voulez parcourir toutes les routes de fleurs que la lubricité vous prépare ; convainquez-vous à son école que ce n’est qu’en étendant la sphère de ses goûts et de ses fantaisies, que ce n’est qu’en sacrifiant tout à la volupté, que le malheureux individu connu sous le nom d’homme, et jeté malgré lui sur ce triste univers, peut réussir à semer quelques roses sur les épines de la vie.) サドは上記のように序論にあたる箇所でドルマンセを紹介する。「みじめな地球の上に誕生」した因果を次のように語る。
サン・タンジュ夫人
では、いいこと、ウージェニイ。娘が母親のお腹から外へ出るやいなや、その瞬間から両親の意志の犠牲になって、最期の息を引き取るまでそのままの状態でいなければならないというのは、どう考えても馬鹿な話だわ。だいたい人間の権利が幾多の努力の末にようやく確立され、地球の上も狭くなったというこの御時世に、若い身空の娘さんが相も変らず、自分たちは家庭の奴隷であると思いこんでいなければならないって法はない。娘たちに対する家庭の圧力が、ぜんぜん根も葉もないものであることは、分り切っていることなんですものね。こういう面白い問題については、自然の意見を聴いてみるのが早道よ、自然に一層近い動物同士のあいだの法則が、差し当ってあたしたちのよいお手本になってくれるでしょう。いったい動物のあいだでは、父親の義務というものが、最初の肉体的要求の後までも永く及ぶものかしら? 雄と雌との享楽の結果として生まれた者は、それぞれの自由と権利の全面的な所有者ではないかしら? 子供がひとり歩きできるようになり、ひとりで食べて行けるようになれば、もう親たちは子供を忘れてしまうのではないかしら? そして子供の方でも、自分たちを生んでくれた者に対して、何らかの義務を感じているものかしら? いいえ、そんなことはない、もちろんよ。それでは人間の子供たちだけが、どんな権利で、自然の義務でない義務を強制されているのかしら? もしそれが父親の貪慾ないし野心でないとしたら、いったい誰がそんな義務をこしらえあげたのかしら? さあ、そこで訊くけれど、感情の上でも理性の上でも一人前になりはじめた若い娘が、こうした束縛に服従させられているというのは、果して正しいことであるかどうか? そうした鎖を縛りつけるのは、したがってただ偏見のみではないかしら? 十五、六にもなったいい娘さんが、抑えつけなければならない欲望の焰にわが身を焼かれて、地獄のそれよりもっとひどい責苦のなかで身悶えしながら、あたら青春を不幸にしてしまうと、さらに女盛りの年頃までも醜い親の欲得のためにこれを犠牲にして、ついには愛される価値のまるでない男や、嫌われるためにのみ生きているような男と本意ならずも結婚して親を悦ばそうとしている姿ほど、あわれにも滑稽なものはないわ。おお、いやだ、いやだ! でもウージェニイ、こんな窮屈な関係は、もうじき消滅してしまうでしょうよ。女の子も分別がつく年頃になったら父親の家から解放して、国家的教育を与えた上で、十五になったらもう自分の好きなことは何でもさせてやらなければいけない。悪徳に陥ったからって、それが何なのさ、構うことはないじゃないの! (...)ですからね、ウージェニイ、これらの公認済みの道徳原理から早く脱け出しておしまいなさい、そしてどんな代価を払っても、あなたの鉄の鎖を絶っておしまいなさい。愚かな母親のくだくだしい忠告なんぞは、てんから軽蔑してやるがいいわ、当然憎悪と軽蔑を感じてしかるべき相手ですものね。 デステルヴァルは、日々の殺人をジュスティーヌに非難され、以下のように答える。