ゲーテ
1772『ドイツの建築』
1773『若きウェルテルの悩み』
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忘我・無垢・ノスタルジー、そして労働
ヨーロッパ各地でセンセーショナルな流行をもたらし、ついには自殺までをもひき起こした本書は、ロマン主義の先駆けとして文学史に位置づけられる。後期に、ロマン主義へと決別を示したニーチェはその典型的な傾向として「忘我」を論じるが、本書では一貫して忘我への当為あるいは傾倒がみられる。第一に、母の遺産相続の問題を解決するため、そして同時に不幸な恋を断ち切るために故郷から逃避したウェルテルは、画家という本分からの忘却を志向する。
ぼくはときどきなにもかも忘れて、この人たちと他愛もない娯楽に興じるようにしている。ご馳走が並ぶ食卓を囲むとか、言いたい放題おしゃべりするとか、頃合いを見計らって遠出や舞踏会を催すとか。じつにいい気晴らしだ。こんなことをしていたら自分の中にまどろむいろいろな能力が錆びつくかも。だけど、気にするものか。どうせ楽しんでいるときは、そんな能力は表にだすものじゃないからね。ああ、考えただけで、心が締めつけられる。──でも、それでいいんだ! 誤解されるのは、ぼくらみたいな人種には致し方のないことだからね。
そしてウェルテルはこのような忘却こそが、幸せの一形態であるとまでし、幼少期へのノスタルジーを謳う。
子どもってのは、自分がしたいことに理由なんて問わない。その点について、お偉い学者先生や教育係の意見は一致している。けれども大人だって、子どもと同じだ。この大地をうろつきまわるだけで、自分がどこから来て、どこへ行くかも知らないじゃないか。真の目標を立てて行動することなどほとんどなく、ビスケットやケーキや白樺のムチづくりに血道を上げている。だれも信じようとしないけど、そうに決まっているとぼくは思っている。 きみの言いたいことはわかっているさ。喜んで白状するけど、[だれよりも幸せなのは、子どものようにその日その日を生きていける連中だ。人形を連れ歩いて着せ替えをしたり、母親がいつも菓子パンをしまっておく引出しのあたりを虎視眈々と歩きまわって、望みのものを手に入れたらすかさず頰張り、「もっとちょうだい」と声を上げたりする。こういうのが幸せな人種さ!
このようなノスタルジーは随所より現れており、幼少期に現れる忘我、無知、無垢がどれだけ幸せかと論じている。ここで重要なのは、それが幼年と成年あるいは老年における非対称性に晒されており、ノスタルジーに留まることに他ならない。野心と大義に晒され、禁断の果実を喰らい、親から楽園を追いだされた僕たちは再びその地に足を踏み入れることはできない。野心の情熱と糧を喰らった僕たちは無知、無垢に向けたノスタルジーでしか祈ることができないのだ。
ヴィルヘルム、ぼくは考えているんだ。人間には、自分を開花させたい、新しい発見をしたい、放浪したいという願望がある。かと思うと、自分に制限をかけ、習慣という通い慣れた道を進み、よそ見をしたくないという内なる衝動もある。 思えば不思議なものだ。ここへ来て、丘の上から美しい谷を眺めて、このあたりの風景に心惹かれるなんて。森を見れば、その暗がりに分け入ってみたくなる! 山の頂を見れば、そこから広大な大地を見渡してみたくなる! 連なる丘と親しみ深い谷。あの中に溶け込んでしまいたい!──ぼくはいそいそと行ってみる! そして取って返す。期待したものなど見つからないからだ。遠いところというのは、未来と同じだ。全体が大きくかすんで、ぼくらの心の前に漂っている。ぼくらの感情も目も、その中に溶け込む。そしてひたすら願うんだ! 自分の全存在を委ね、大きな素晴らしい喜びに浸りたいと。──ところが勇んで行ってみると、彼方は此方となり、すべては元のまま。こっちはみすぼらしいままで、限界を感じる。そして魂は、飲みそこねた清涼飲料を欲して渇する。 だからだろうな。あてもなくさすらう放浪者であっても、いつか故郷に帰りたくなる。そして自分の小屋に戻り、妻の胸に抱かれて休み、子どもたちに囲まれ、生計を立て、かつて荒涼とした広大な世界で探し求め、ついに得られなかった喜びをそこに見いだす。ぼくは毎朝、日の出とともに家を出て、ヴァールハイムに向かう。例の店の庭でえんどう豆を摘み、すわって筋を取りながらホメーロスを読む。それから小さな台所で鍋をひとつ選び、バターを溶かして、えんどう豆を火にかける。蓋をして、傍らにすわり、ときどきえんどう豆をかき混ぜる。そういうとき、ペーネロペー(22)に求婚した誇り高い者たちが牛や豚を切り裂き、焼いたという故事を思いだす。思いだしながらぼくが静かに実感したのは、たしかに家父長時代の暮らしの面影だ。しかもありがたいことに、いまのぼくの暮らしぶりなら、それをなんの衒いもなく織り込むことができる。
第二章でも同様のことが以下のように論じられている。
ぼくは菩提樹の下に立った。その菩提樹は、ぼくが少年だった頃、散歩の目的地であって、終着点だった。それにしても、なんという変わりようだろう! 無知とは幸せなもので、当時のぼくは未知の世界に憧れていた。そこには心の糧がいくらでもあって、楽しいことに満ちていると思っていた。ぼくの胸中にはそういうものが欠けていると感じていた。そしていま、遠い世界から帰還したというわけだ──それにしても、どれだけ当てがはずれ、挫折したことだろう!
では忘我とは、ウェルテルにとってただ感傷にふけるだけの存在であるのか。幼年期をとうに過ぎた彼らはある一つのオルタナティヴを見出すそれが労働である。
不幸なことだ、ヴィルヘルム! すっかり空回りしているよ。だらだらしているわけにはいかないのに、なにもする気が起きない。想像力が働かず、自然への感性も希薄で、本という本がぼくに唾を吐きかける。人間は、自分を見失うと、すべてを失ってしまう。じつはいっそのこと日雇い労働者になりたいと思うことがある。そうすれば、朝目覚めたとき、その日の予定があって、やる気を起こし、希望をつなげられるだろうから。書類の山に埋もれて仕事に没頭しているアルベルトが羨ましい。代われたらいいのに! 何度か例の公使館の口にありつくため、きみや大臣に手紙を書こうとした。断られはしないってきみが書いてきたからね。ぼくもそう思う。大臣はしばらく前からぼくに目をかけていて、職につくべきだと忠告してくれた。それもいいかも、とぼくも一時は思ったけど、考え直してみると、馬の寓話が脳裏をかすめた。ほら、自由がいやになって、自分から鞍と馬具をつけさせ、乗りつぶされたという馬の話さ。
このようにウェルテルはその選択に苦悩するが結局、第二章では、そのような道を選び、労働としての忘却へとふけるのだ。
なんとかこっちでもやっていけそうな気がしてきたよ。一番いいのは、やることが山ほどある点だ。
忘我、獲得しえぬ無垢、無知へのノスタルジー、幼年期への郷愁。そして至る労働。すなわち、忘我は一つの幸福の条件であるとウェルテルがいったことにしたがうならば、資本主義とは、労働とは、幼年期が過ぎ去ってしまった人間の数少ない幸福への手立てなのかもしれない。そしてそれは幼年期も、成年も老年も同様である。我々は忘我によって幸せを獲得することができるのだ。
理性による忘我の決壊、そして感情による理性の決壊へ
しかし、ウェルテルは忘我に留まることはできなかった。いや、それは不可避であった。そこに存するは理性に他ならない。
人とはなんだろう? 誉れ高い半神だというのか! 力をもっとも必要とする肝心なときに、脱力してしまったりしないか? うれしくて舞い上がっているときでも、苦しくて沈んでいるときでも、人間はそこにとどまることはない。忘我の境地にいたいと願っても、毎度毎度、冷たく鈍感な意識に引きもどされる。
一方でこの理性的な手続きも、一つの幸せを獲得できると説明している。そしてそれをゲーテは牢獄に例えているのだ。
だけど、謙虚になって、こんなことがいったいなんになるんだと考えてしまう人もいるだろう。そういう人なら、自分のささやかな庭を夢の楽園にしようと勤しみ、運に見放されても不平を言わずに重荷を担いで自分の道を歩く幸いなる市民がいて、一様に少しでも長くお天道様を拝もうと汲々としていることに気づくはずだ。そうだろう! そういう人は黙って自分だけの世界を作りあげる。これまた幸せなことだ。それこそ人間なのだから。自分を狭めることにはなるけど、自由という甘美な感覚を味わい、心は錦でいられる。そしていざとなれば、いつでもその牢獄から出ていくことができる。
ここでプラトンを彷彿とした人はなんと素晴らしい慧眼をお持ちか。おそらくそれは正しい。なぜならゲーテにとって理性とは感情を牢獄のうちに閉じ込めるもの、そして感情とはいずれその牢獄を決壊して溢れだすもの。いわばプラトンの反転、深化である。理性以前の忘我が、理性によって引き戻されたように、理性もまた感情によって決壊するのである。すなわち、肉体という檻から解放される魂の如く。
自然はそれだけで限りなく豊かで、偉大な芸術家を創りだす。規則の長所はいくらでも挙げることができる。市民社会のいいところを誉めるのと同じだ。規則に従う人間は、悪趣味なものや、粗悪なものを決して作りだしはしない。法や安寧によって人格を形成した人が、我慢のならない隣人や極悪人にならないのと同じさ。だけど規則というものは、だれがなんと言おうと、自然に生まれる本当の感情や表現を損なってしまう! 「それは言い過ぎだ。規則は枠にはめるだけ。繁茂したブドウのツルを刈り込むためのものだ」きみならそう言いそうだな! ここで比喩をひとつ。恋愛をめぐる比喩だ。ある青年が女の子に思いを寄せたとしよう。一日中、彼女にかまけて、好きだと伝えるために精力を注ぎ、お金を使う。そこへたとえば役人をしている俗物がやってきて、こんなことを言う。「お若いの、人に心を寄せるというのは人間らしいことだ。ただし、人間らしく愛さなくてはいけない! 一日の時間を按配して、仕事に時間を割き、息抜きに女の子と交際するのがよろしい。自分の財産をちゃんと数えて、必需品を買った残りで彼女に贈り物をする。そうやって誕生日や命名日などの機会にほどほどにする分には、わたしも止めはしない」──この忠告に従うなら、使える若者ができあがるだろう。どこの領主にもこの人物を任用するよう推薦できる。ただし若者の恋愛は台無しだ。若者が芸術家なら、その人の芸術は地に堕ちる。なにもかもだ! 天才という川がなかなか決壊しないのはなぜだと思う? 洪水となって、きみたちの心を揺さぶることがほとんどないのはなぜだ。沈着冷静な紳士が川岸に住んでいるからだ。紳士は、四阿やチューリップの花壇や野菜畑が洪水でだめにならないように、あらかじめ堤防や誘導水路を作って、来たるべき危険に備えているんだ。
そう、その決壊こそが、ウェルテルとシャルロッテの出会いに他ならないのだ!
ぼくらは窓辺に立った。遠くで雷がまだ鳴っていた。気持ちいいほどに雨が大地に降り注いでいた。さわやかな香りが温かな大気に乗ってこっちまで立ち上ってきた。ロッテは窓枠に肘をついて佇むと、あたりを見渡し、一度空を見あげてから、ぼくに視線を向けた。ロッテの目は潤んでいた。そして手をこっちの手の上に乗せて、こう言った──クロプシュトック。 この合言葉でいわんとする感情が、激流となってぼくを押し包んだ。我慢できなくなって、ぼくは身を屈め、歓喜の涙を流しながら彼女の手にキスをした。それからもう一度、彼女の目を見た──崇高なる詩人よ! この眼差しにこもったあなたへの崇敬の念を見せられないのが残念だ。今後はあなたの名前が冒瀆されるところを聞きたくない!
物語の終盤、死を目前にしたウェルテルが残す次のような言葉は、まさに本書の主題の象徴である。すなわち、忘我への郷愁と傾倒という無垢の時代から、理性の時代へ、そして感情と確信へ。理性以前と理性以後。これはまさに中世から、啓蒙の理性、そしてロマン主義への歴史にも対応する図式に他ならないのである。
──天にまします神よ! これがあなたの定めた人間の宿命か。理性をもつ前か、理性をなくしたあとでなければ、人間は幸せになれないのか!
感情、内的確信、狂気、そして忘我の高次元での回復
感情とはついぞ、理性以降のものとしてではなく、それ以前のものとして、もはや忘我と接近するものとして扱われてきた。この感情、内的確信とは時に狂気として扱われる。現に、ニーチェは忘我と狂気をどちらもロマン主義的営為として一括りに扱っている。しかし、ゲーテはこの修正を試みた。すなわち、本書では理性を超える存在として、啓蒙主義の次なる世紀としてのロマン主義として、感情が位置づけられているのだ。それは何故か。ここで重要なるはゲーテも、そしてウェルテルも感情の儚さを知っていることにある。それでなお、彼らはそれを選ぶ。
ヴィルヘルム、ぼくらの心にとって、愛なき世界とはなんだろう? 明かりがともっていない幻灯機と同じだ! ところが明かりを入れると、たちまち白い壁に色とりどりの像があらわれる! それがほんのつかのまの幻影であっても、その前で無邪気な子どものように不思議な映像に魅了され、いつだって幸福を味わえるじゃないか。(...) 。──どうか笑わないでくれ。ヴィルヘルム、ぼくらを幸せにしてくれるのは幻影ってことでいいだろう?
こうした態度は物語の終盤においても変わらない。ウェルテルは次のように言う。
人生の花なんてどうせ幻だ! どれほど多くのものが跡形もなく消えていくことか。わずかなものしか実を結ばず、たとえ実を結んでも、完熟するものはもっとすくない。それでも充分に実はできる。だけど──兄弟! 熟した実をほったらかしにして相手にせず、食べずにしなびさせたり、腐らせたりしていいものだろうか?
確かに、理性とは客観的で、感情のそれに比べれば普遍的だ。論理とは絶えず、いかなる状況においても同様の終着点を用意してくれる。しかし、理性が幸福を与えることはあるのだろうか。確かにそれは間接的な機能を果たすかもしれない。しかし、直接的な役割はなし得ない。感情とはこれに反し、幸福を感じた時点でそれ以上の説明は不要であり、その意味で直接的な条件たり得る。すなわち、どこまで行っても幸福とは内的な確信にすぎず、それがたとえ微かな時間をしか生存できないとしても、それでも幸福とは我々が欲してやまない対象なのである。
ぼくは幸せな日々を送っている。神が聖者に恵んだような日々と言ったらいいだろうか。この先、自分がどうなろうとかまわない。もっとも純粋な生の喜びをたしかにこの身で味わっているんだ。(...) 彼女のところで、ぼくは自分に立ちもどり、人間に与えられる幸福感のかぎりを味わっている。
ここではもしかすると感情という言葉は著作でも度々登場する「確信」という言葉に置き換えた方が良いかもしれない。第一章でウェルテルは次のようにいう。
やはり、間違いない! ロッテの黒い瞳を見れば、彼女がぼくのこと、ぼくの運命を気づかっているのがわかる。たしかに感じるんだ。ぼくは確信している。ロッテは──こんな天の至福とも言えることをはたして口にしていいものだろうかと思いつつ──ロッテはぼくを愛してくれているんだ。 これは思い上がりかな? それとも真実の関係が生む感情ってことかな? これでもうロッテの心の中にだれがいようと、ぼくは怖くない。それでもロッテが愛情のこもった温かい口調で婚約者のことを話すと、ぼくは名誉と尊厳を奪われ、剣を取りあげられてしまったような気分になる。
しかし、なぜ確信という言葉が重要か。それはウェルテルの最後の決断に求めることができるだろう。それを説明するには、まずはじめに第一章でウェルテルがアルベルトに対して、愛の挫折が死へと至ることを論じている箇所を理解しなければならない。
「やめたまえ」アルベルトはそう叫ぶと、ぼくからピストルを取りあげた。「なんの真似だ?」「弾は入ってないんだろ?」「入っていなくたって、そんなことをするもんじゃない」アルベルトはいらだって言った。「自分を撃とうとする馬鹿な人間がいるなんて、考えただけでぞっとする」「きみのような人間は」ぼくは大声をだした。「なにかにつけすぐ、それは馬鹿げている、それは賢明だ、それはいいことだ、それはよくないと決めつける! 一体なんなんだ? 裏にどんな事情があるか、どのくらい調べてみたんだい? それがなぜ起きたか、なぜ起こらねばならなかったか、その原因をきちんと説明できるのかい? そうするなら、そんな性急に判断を下したりしないはずだ」「きみも認めることだろうが、ある種の行為は、動機の如何にかかわらず、罪悪たりうるものだよ」 ぼくは肩をすくめて、同意しつつこうつづけた。「けれども、そこにも例外はある。たしかに盗みは罪悪だ。しかし自分と家族を餓死から救うために盗みをはたらいた人間には同情すべきだと思うが、やはり罰するのかい? 不実な妻と不届きな間男に当然の怒りをぶつけて死に追いやった夫に、だれが石を投げるかな? 歓喜に満ちたひと時に、愛の喜びを抑えきれずに我を忘れた娘がいるとして、それを責められるだろうか? 法律という冷酷な代物だって、心を動かされて、罰することを控えるだろう」「それは別の話だ。激情に駆られた人間は自制心を失ってしまう。自分に酔っていたり、正気をなくしたりした者と同じだ」「分別のある人間はこれだからな!」ぼくは微笑みながら叫んだ。(...)「また虫の居どころが悪くなったようだね。きみはなんでもおおげさに考えるからな。自ら命を絶つことを偉大な行為と同列に置くのは、いくらなんでもむりがある。自ら命を絶つことは人間の弱さのあらわれだ。辛い人生に耐えて生きるよりも死ぬほうが簡単だからね」 ぼくは話を打ち切ることにした。なにが嫌って、こっちが本気で話しているのに、ありきたりの常套句で応じる手合いほど頭にくる奴はいない。けれども気を取り直した。耳にたこができていたし、さんざん腹立たしい思いをしてきたからね。そこでぼくは少し語気を強くして言い返した。「それを弱さと呼ぶのか! いいかい、見かけに騙されちゃいけない。暴君のひどい軛に喘ぐ民衆がついに反乱を起こし、鎖を断ち切ろうとするとき、それを弱さと呼んでいいものかな。家が火事になった人が馬鹿力をだして普通なら動かせないようなものを楽々と運びだすことがある。あるいは侮辱された人が怒りを爆発させ、六人を向こうにまわして、こてんぱんにのしてしまうこともある。それを弱さと呼ぶのかい? 頑張ることが強さだとするなら、頑張りすぎることはどうしてその逆になるんだ?」 アルベルトはこっちを見て言った。「こう言っては悪いが、きみがあげた例はいまの場合に当てはまらないと思う」「そうかもね。ぼくの発想はときどき突飛すぎるって批判される! それなら、背負って楽しいはずの人生というお荷物をかなぐり捨てる人間がどんな気持ちでいるか、別の方法で探ってみようじゃないか。だって、同じ気持ちになれなければ、語る資格なんてないからね」 そしてこうつづけた。「人間の本性にはおのずと限界がある。喜怒哀楽も苦痛もある程度までは耐えられる。けれども限度を越えるともうだめだ。だから問題は弱いか強いかじゃないんだ。苦しみにどこまで耐えられるかが問題なんだよ。これは道徳上の限度でも、肉体的な限界でも言えることだ。というわけで、熱病で死ぬ人を弱虫呼ばわりすることがおかしいなら、自分の命を絶つ人を弱虫だと言うのも妙な話になる」「詭弁だ! 詭弁もはなはだしい!」アルベルトが大声をだした。──「そうでもないさ。病に侵されて気力を失い、体が言うことを聞かず、自力で立ち上がることもできず、一縷の望みに懸けても元気になれないとき、それを死に至る病と呼ぶ。それはきみも認めるね。ではこれを精神に当てはめてみよう。人間はいろいろな制約に縛られ、いろいろな印象に影響され、いろいろな観念に取り憑かれているものだけど、熱情が沸き上がって、冷静に考える力をことごとく奪い去り、人間を破滅させることがある。 落ち着き払った分別のある人間がそういう不幸な人間の状態を把握しようとしたって土台むりな相談さ。そういう人間が不幸な人を慰めたって、やるだけ無駄。健康な人が病人の枕元で元気づけようとしてもできないのと同じさ」 アルベルト相手ではあまりにありふれた譬えだった。そこで少し前に水死体で発見されたある娘の事件を持ちだし、その顚末を話した。「気立てのいい娘で、狭い環境で家事という毎週決まった仕事をするだけで育った。楽しみと言えば、日曜日に仲のいい女の子たちと散歩に出かけたり、大きなお祭りのたびにダンスをしたりするのが関の山だった。あとはいざこざやひどい噂を耳にすると、近所の子といっしょに何時間も我がことのようにおしゃべりするくらいのものだった。しかし熱い心を持っていたので、そのうちに男たちに言い寄られたいと夢想するようになり、それまで楽しいと思っていたことがだんだんつまらなくなった。そしてついにひとりの男に出会う。これまで感じたことのない気持ちのまま、どうしようもなくその男に惹かれ、期待に胸ふるわせ、まわりが見えなくなる。なにも耳に入らず、なにも目にとまらず、なにも感じず、欲しいのは彼ひとりだけ。その場限りの見栄を張って、虚しい喜びに興じることになるなど及びもつかず、娘は男の心を射止めたいと一途に思う。男のものになり、永遠の契りを結んで、いままで得られなかった幸福をつかみ、憧れていた喜びをたっぷり味わいたいと望む。繰り返される口約束に期待は募り、大胆な愛撫に欲求は高まるばかり。心はめろめろになり、うっとりしてあらゆる喜びの予感の中に漂い、これ以上ないほどに心を張り詰めさせて、すべての望みを我がものにしようと腕を差し伸べる。──そして恋人は娘を捨てる。──娘は愕然とする。感覚を失って、奈落の前に佇む。まわりはすべて闇。希望もなく、慰めもなく、復讐心すら湧かない。一心同体だと思っていた男に捨てられたのだからむりもない。娘にはもはやなんの希望もない。心にぽっかり空いた穴を埋めてくれる人ならおおぜいいそうなのに、ひとりも目にとまらない。そして孤独を感じ、寄る辺ない存在だと思う。──目がくらむ。自分の心を痛めつける恐ろしい苦痛に苛まれ、身を投げる。死の懐に身をゆだね、死によってすべての苦しみの息の根を止めるために。──どうだい、アルベルト、こういう憂き目にあう人はけっこういるものさ。これも病気と言えないかな? 放っておいても、こうしたもつれ合い、矛盾する力の迷路から脱けだす出口が見つかるわけがない。そうなると、人間は死ぬほかなくなる。『馬鹿な女だ! じっと待って、時に解決させればよかったものを。そうすれば、もうだめだって気持ちも収まり、慰めてくれる相手もあらわれるだろう』そう言う傍観者に災いあれ。 それって、『馬鹿だよ、熱病で死ぬなんて! 待っていれば、体力が回復し、四体液も改善し、血行不良も治まり、元気になって、いまでも生きていられただろう』と言うのと同じだ!」 ]
さらに続けてウェルテルは「ヴィルヘルム! 僧房でひとり暮らしをして、ごわごわの僧服を身にまとい、茨の冠をかぶるのが、ぼくの魂には一番の慰めになるだろう。さらばだ。この惨めさの行きつく果ては、墓場以外にない。」という言葉をも残している。にも関わらず、ここで重要なことはウェルテルが愛の挫折として、すなわち死に至る病としての絶望において、死を選ばなかったことにある。上記では自殺には類型として、弱さとしての自殺、あるいは「人間は死ぬほかなくなる」という意味での強迫的な自殺があると論じられているわけだが、ウェルテルは前者も後者をも選ばなかったのである。ではウェルテルはいかなる死を選んだのか。それは内的確信としての自殺、すなわちシャルロッテを愛したあのこころと同じ領域を指すのだ。
「決めましたよ、ロッテ。ぼくは命を絶ちます。あなたに会う最後の日となるきょうの朝、感傷的に気を高ぶらせることもなく、淡々とこれを書いています。あなたがこれを読むとき、落ち着きのない不幸な男の硬直した体はすでに冷たい墓の中でしょう。男は死ぬ間際まであなたと語りあうことをなによりも楽しみにしていました。昨夜は恐ろしい一夜を過ごしました。いや、慈しみ深い一夜だったとも言えるでしょう。ぼくのぐらついていた心を固めさせてくれたのですから。ぼくは命を絶ちます。きのうはあなたから身を引きはがし、ひどく気が高ぶっていました。あらゆるものがぼくの心に一気に押し寄せ、あなたのそばにいても、ぼくにはなんの望みも喜びもないと自覚して、心が冷え切ってしまいました。自分の部屋に辿り着くなり、我を忘れてくずおれてしまいました。神よ! あなたが最後にくれた慰めが、これほど苦い涙だったとは。ぼくの心の中を無数の計画や展望が駆け巡りました。そしてひとつの結論に達しました。ぼくは命を絶ちます!── ぼくは体を横たえました。朝になって静かに目覚めたあとも、心変わりはしていません。もはや心が揺らぐことはないでしょう。命を絶ちます!──これは絶望ではなく、確信です。耐え抜いたのだという確信。あなたに身を捧げるのだという確信なのです。そうなんです、ロッテ、もはや黙っている必要はないでしょう。わたしたち三人のうちのだれか一人が消えなくては。そしてそれはぼくがいい。この千々に乱れた胸のうちで、繰り返し怒りにあおられて、とんでもない考えが首をもたげるのです。──あなたの夫を亡き者にしよう!──いっそあなたを!──それならぼくを!──これでいいのです!──夏の美しい夕べにあの山に登ることがあったら、ぼくのことを思いだしてください。ぼくがよく谷から登ってきた、と。そしてぜひ墓地で眠るぼくの墓石に目を向けてください。きっと夕日の中、背の高い草がゆらゆらと風にそよぐことでしょう。──この手紙を書きはじめたときは落ち着いていましたが、いまは子どものように泣いています。身のまわりのものがすべて生き生きとして見えるからです。──
弱さの自殺ではなく、強迫的な自殺でもなく、確信としての自殺。ウェルテルの物語を決定づけるこの選択とは内的確信の有する、いやロマン主義的態度の有する重要な問題を明らかにしている。ロマン主義的態度は時折悲劇を呼びこむ。しかし、決して主体においてそれが不幸であるとは限らないことが重要であるのだ。いやもはや、悲劇でありながら、主体の不幸を伴わない、むしろその非対称性こそが本作の傑作たる所以なのではないか。これはまさに内的確信による選択と、他者から見える客観的、客体的な視座における幸不幸の非対称性そのものである。なぜならば宗教において典型であるように。内的確信とは他者からすれば狂気そのものなのである。すなわち、死に至る病とは絶望ではなかったのだ!死を決定的なものとしたのは、主体の内的確信に他ならないのである。
「激情! 自分に酔う! 正気をなくす! きみたち聖人君子は涼しい顔で、我関せず、自分に酔ってる者を叱りつけ、思慮に欠ける者を蔑んで、聖職者みたいに知らんぷりを決め込み、パリサイ派のように、自分をそんな連中とは違う人間にこしらえてくれたことを神に感謝する。ぼくは何度も自分に酔ったことがあるし、ぼくの激情はいつも狂気と紙一重だった。だけど後悔なんてしていないよ。すごいことやありえないことをする非凡な人間は、えてして自分に酔っているとか、正気をなくしていると昔から言われているからね。 だけど、自由で気高く、予想を覆す行動に出た者を自分に酔っている愚か者だと陰口を叩くのは、普段の生活でも聞くに耐えないことだ。きみたち理性のある者は恥を知るべきだ。きみたち賢者は恥を知るべきなんだよ」
時にして、内的確信とは他者からみれば狂気である。ウェルテルの自殺しかり、ナチズムにおける民意しかり、戦争で死を肯定させるナショナリズムしかり、カルト宗教の熱狂しかり、それが不幸のように我々には映るがしかし、それは我々が主体自身でないからである。すなわち、内的確信を持たないからである。そして皮肉なことに、幸福とは、内的確信以上のものではないのである。客観とは、その材料や支柱に過ぎず、直接的な条件にはなり得ない。したがって、それはいわば、ある種の無垢さ、忘我をその基盤とする。わたしは先に、忘我が決壊し、理性が立ち現れ、理性が決壊し、感情が立ち現れると説明したが、この感情とは忘我の高次元の回復であるのだ。
ロッテはぼくにとって神聖だ。彼女の前ではどんな欲望も鳴りをひそめる。彼女のそばにいると、気が動転して、我を忘れてしまうんだ。ロッテがピアノで弾いてくれる曲がある。天使の御業かと思わせるような弾き方で、シンプルでありながら、才気に溢れてる。よほど好きな曲らしく、彼女が最初の旋律を弾くだけで、ぼくは一切の苦しみと迷いとふさぎの虫から解放される。 昔の音楽には魔力があったと言われるけど、まんざら噓でもなさそうだ。素朴な曲がこれほど胸を打つんだからね。しかもロッテは、ぼくが頭に銃弾を一発撃ち込みたくなるときにかぎって、よくその曲を弾いてくれる。すると心の迷いが晴れ、闇が霧散して、ぼくはほっと息をつくことができる。
したがって、忘我の起源たる無垢の黄金期の郷愁に耽ったあとに、ウェルテルから発せられる以下の言葉は、内的確信、狂気、そして忘我の高次元の回復を決定づけるロマン主義的命題そのものを意味する。
これこそ、名にし負う古の族長たちが味わった感覚じゃないだろうか!はかり知れない海原と果てしない大地についてオデュッセウスが語るときほど真実に近く、人間的で、切々としたものはない。いまどきの生徒が地球は丸いと教わり、そう言えるから自分は賢いと思ったからって、なんだと言うんだ。
1787/2/1-3 シュタイン夫人宛 書簡
自分の手を用いず見ることを学ぶのはなんと困難なことか
これはコンラート・フィードラーの芸術家の精神的・芸術的生のより高次な展開が始まるのは、芸術家の表象衝動が自らの身体の外的諸器官を動かす瞬間において、目と脳の活動に手の活動が付け加わる瞬間においてのことであるを参照するとわかりやすい
シラーとの共著
1799/5『ディレッタンティズムについて』
本書ででてくる美的陶冶とは『人間の美的教育について』と密接に結びついている。
「素描(Zeichnung)」におけるディレッタンティズムの効用
見ることを学ぶこと(Sehen lernen)。われわれが見る際に従う法則を知ること(Die Gesetze kennenlernen, wornach wir sehen)。(...) あらゆる人々は全体印象(Totaleindruck)(区別のない)から始まる。区別(Unterscheidung)が続く、そして第三の段階は区別から全体の感情への回帰である。この感情は美的感情である。
見ることは「あらゆる人々は全体印象(Totaleindruck)(区別のない)から始まる」。そしてそこから区別(Unterscheidung)に至る。つまり〔第一段階〕見えること(受動的)から〔第二段階〕見ること(能動的)に移行する。続く〔第三段階〕は単なる回帰ではない。受動的な印象を超えた能動的な関与を持って初めて全体を獲得できる(この三段解説はシラーに由来する)。これを元にゲーテは下記のように論ずる。
芸術作品は人間がそれを享受するように要求するが、〔そのために〕芸術作品はさらに〔人間が〕芸術作品にさまざまな仕方で関与すること(Teilnahme)を要求する。(...)芸術作品により緊密に関与する者こそが、芸術作品を十分に生き生きと享受するところの真の愛好家(Liebhaber)であろう。
そして通常の「非活動的観照者」に対して下記のように語る。
この利点〔見ることの三段階〕をディレッタントは、単なる非活動的観照者とは異なって、芸術家と共有する。
1816~29『イタリア紀行』 1786年から88年のゲーテのイタリア旅行での自伝的作品
1787/2/17
美術家達は好んで私に教えてくれる。私の理解が早いからである。とはいえ、理解した事柄が直ちにうまくいくとは限らない。何かを素早く捉えることはたしかに精神の特質であるが、何かを正しく行うには、一生にわたる訓練が必要である。だが愛好家(Liebhaber)は、うまくいかないところがあっても、怯んではならない。私が紙の上へ引く少数の線は、しばしば性急で、正確なことは稀であるが、感覚的事物の表象を容易にしてくれる。というのも、対象をより精確により綿密に観察するとき、人はよりすみやかに普遍的なものへと高まるからである。
ここでいう「愛好家(Liebhaber)」とはディレッタントをドイツ語にした語。