ゲーテ
https://scrapbox.io/files/6a511373be32792658d8d45a.png
忘我・無垢・ノスタルジー、そして労働
ヨーロッパ各地でセンセーショナルな流行をもたらし、ついには自殺までをもひき起こした本書は、ロマン主義の先駆けとして文学史に位置づけられる。後期に、ロマン主義へと決別を示したニーチェはその典型的な傾向として「忘我」を論じるが、本書では一貫して忘我への当為あるいは傾倒がみられる。第一に、母の遺産相続の問題を解決するため、そして同時に不幸な恋を断ち切るために故郷から逃避したウェルテルは、画家という本分からの忘却を志向する。
そしてウェルテルはこのような忘却こそが、幸せの一形態であるとまでし、幼少期へのノスタルジーを謳う。
このようなノスタルジーは随所より現れており、幼少期に現れる忘我、無知、無垢がどれだけ幸せかと論じている。ここで重要なのは、それが幼年と成年あるいは老年における非対称性に晒されており、ノスタルジーに留まることに他ならない。野心と大義に晒され、禁断の果実を喰らい、親から楽園を追いだされた僕たちは再びその地に足を踏み入れることはできない。野心の情熱と糧を喰らった僕たちは無知、無垢に向けたノスタルジーでしか祈ることができないのだ。
ヴィルヘルム、ぼくは考えているんだ。人間には、自分を開花させたい、新しい発見をしたい、放浪したいという願望がある。かと思うと、自分に制限をかけ、習慣という通い慣れた道を進み、よそ見をしたくないという内なる衝動もある。 思えば不思議なものだ。ここへ来て、丘の上から美しい谷を眺めて、このあたりの風景に心惹かれるなんて。森を見れば、その暗がりに分け入ってみたくなる! 山の頂を見れば、そこから広大な大地を見渡してみたくなる! 連なる丘と親しみ深い谷。あの中に溶け込んでしまいたい!──ぼくはいそいそと行ってみる! そして取って返す。期待したものなど見つからないからだ。遠いところというのは、未来と同じだ。全体が大きくかすんで、ぼくらの心の前に漂っている。ぼくらの感情も目も、その中に溶け込む。そしてひたすら願うんだ! 自分の全存在を委ね、大きな素晴らしい喜びに浸りたいと。──ところが勇んで行ってみると、彼方は此方となり、すべては元のまま。こっちはみすぼらしいままで、限界を感じる。そして魂は、飲みそこねた清涼飲料を欲して渇する。 だからだろうな。あてもなくさすらう放浪者であっても、いつか故郷に帰りたくなる。そして自分の小屋に戻り、妻の胸に抱かれて休み、子どもたちに囲まれ、生計を立て、かつて荒涼とした広大な世界で探し求め、ついに得られなかった喜びをそこに見いだす。ぼくは毎朝、日の出とともに家を出て、ヴァールハイムに向かう。例の店の庭でえんどう豆を摘み、すわって筋を取りながらホメーロスを読む。それから小さな台所で鍋をひとつ選び、バターを溶かして、えんどう豆を火にかける。蓋をして、傍らにすわり、ときどきえんどう豆をかき混ぜる。そういうとき、ペーネロペー(22)に求婚した誇り高い者たちが牛や豚を切り裂き、焼いたという故事を思いだす。思いだしながらぼくが静かに実感したのは、たしかに家父長時代の暮らしの面影だ。しかもありがたいことに、いまのぼくの暮らしぶりなら、それをなんの衒いもなく織り込むことができる。
第二章でも同様のことが以下のように論じられている。
では忘我とは、ウェルテルにとってただ感傷にふけるだけの存在であるのか。幼年期をとうに過ぎた彼らはある一つのオルタナティヴを見出すそれが労働である。
不幸なことだ、ヴィルヘルム! すっかり空回りしているよ。だらだらしているわけにはいかないのに、なにもする気が起きない。想像力が働かず、自然への感性も希薄で、本という本がぼくに唾を吐きかける。人間は、自分を見失うと、すべてを失ってしまう。じつはいっそのこと日雇い労働者になりたいと思うことがある。そうすれば、朝目覚めたとき、その日の予定があって、やる気を起こし、希望をつなげられるだろうから。書類の山に埋もれて仕事に没頭しているアルベルトが羨ましい。代われたらいいのに! 何度か例の公使館の口にありつくため、きみや大臣に手紙を書こうとした。断られはしないってきみが書いてきたからね。ぼくもそう思う。大臣はしばらく前からぼくに目をかけていて、職につくべきだと忠告してくれた。それもいいかも、とぼくも一時は思ったけど、考え直してみると、馬の寓話が脳裏をかすめた。ほら、自由がいやになって、自分から鞍と馬具をつけさせ、乗りつぶされたという馬の話さ。
このようにウェルテルはその選択に苦悩するが結局、第二章では、そのような道を選び、労働としての忘却へとふけるのだ。
なんとかこっちでもやっていけそうな気がしてきたよ。一番いいのは、やることが山ほどある点だ。
忘我、獲得しえぬ無垢、無知へのノスタルジー、幼年期への郷愁。そして至る労働。すなわち、忘我は一つの幸福の条件であるとウェルテルがいったことにしたがうならば、資本主義とは、労働とは、幼年期が過ぎ去ってしまった人間の数少ない幸福への手立てなのかもしれない。そしてそれは幼年期も、成年も老年も同様である。我々は忘我によって幸せを獲得することができるのだ。
理性による忘我の決壊、そして感情による理性の決壊へ
しかし、ウェルテルは忘我に留まることはできなかった。いや、それは不可避であった。そこに存するは理性に他ならない。
一方でこの理性的な手続きも、一つの幸せを獲得できると説明している。そしてそれをゲーテは牢獄に例えているのだ。
ここでプラトンを彷彿とした人はなんと素晴らしい慧眼をお持ちか。おそらくそれは正しい。なぜならゲーテにとって理性とは感情を牢獄のうちに閉じ込めるもの、そして感情とはいずれその牢獄を決壊して溢れだすもの。いわばプラトンの反転、深化である。理性以前の忘我が、理性によって引き戻されたように、理性もまた感情によって決壊するのである。すなわち、肉体という檻から解放される魂の如く。
そう、その決壊こそが、ウェルテルとシャルロッテの出会いに他ならないのだ!
物語の終盤、死を目前にしたウェルテルが残す次のような言葉は、まさに本書の主題の象徴である。すなわち、忘我への郷愁と傾倒という無垢の時代から、理性の時代へ、そして感情と確信へ。理性以前と理性以後。これはまさに中世から、啓蒙の理性、そしてロマン主義への歴史にも対応する図式に他ならないのである。
感情、内的確信、狂気、そして忘我の高次元での回復
感情とはついぞ、理性以降のものとしてではなく、それ以前のものとして、もはや忘我と接近するものとして扱われてきた。この感情、内的確信とは時に狂気として扱われる。現に、ニーチェは忘我と狂気をどちらもロマン主義的営為として一括りに扱っている。しかし、ゲーテはこの修正を試みた。すなわち、本書では理性を超える存在として、啓蒙主義の次なる世紀としてのロマン主義として、感情が位置づけられているのだ。それは何故か。ここで重要なるはゲーテも、そしてウェルテルも感情の儚さを知っていることにある。それでなお、彼らはそれを選ぶ。
こうした態度は物語の終盤においても変わらない。ウェルテルは次のように言う。
人生の花なんてどうせ幻だ! どれほど多くのものが跡形もなく消えていくことか。わずかなものしか実を結ばず、たとえ実を結んでも、完熟するものはもっとすくない。それでも充分に実はできる。だけど──兄弟! 熟した実をほったらかしにして相手にせず、食べずにしなびさせたり、腐らせたりしていいものだろうか?
確かに、理性とは客観的で、感情のそれに比べれば普遍的だ。論理とは絶えず、いかなる状況においても同様の終着点を用意してくれる。しかし、理性が幸福を与えることはあるのだろうか。確かにそれは間接的な機能を果たすかもしれない。しかし、直接的な役割はなし得ない。感情とはこれに反し、幸福を感じた時点でそれ以上の説明は不要であり、その意味で直接的な条件たり得る。すなわち、どこまで行っても幸福とは内的な確信にすぎず、それがたとえ微かな時間をしか生存できないとしても、それでも幸福とは我々が欲してやまない対象なのである。
ぼくは幸せな日々を送っている。神が聖者に恵んだような日々と言ったらいいだろうか。この先、自分がどうなろうとかまわない。もっとも純粋な生の喜びをたしかにこの身で味わっているんだ。(...) 彼女のところで、ぼくは自分に立ちもどり、人間に与えられる幸福感のかぎりを味わっている。
ここではもしかすると感情という言葉は著作でも度々登場する「確信」という言葉に置き換えた方が良いかもしれない。第一章でウェルテルは次のようにいう。
しかし、なぜ確信という言葉が重要か。それはウェルテルの最後の決断に求めることができるだろう。それを説明するには、まずはじめに第一章でウェルテルがアルベルトに対して、愛の挫折が死へと至ることを論じている箇所を理解しなければならない。
弱さの自殺ではなく、強迫的な自殺でもなく、確信としての自殺。ウェルテルの物語を決定づけるこの選択とは内的確信の有する、いやロマン主義的態度の有する重要な問題を明らかにしている。ロマン主義的態度は時折悲劇を呼びこむ。しかし、決して主体においてそれが不幸であるとは限らないことが重要であるのだ。いやもはや、悲劇でありながら、主体の不幸を伴わない、むしろその非対称性こそが本作の傑作たる所以なのではないか。これはまさに内的確信による選択と、他者から見える客観的、客体的な視座における幸不幸の非対称性そのものである。なぜならば宗教において典型であるように。内的確信とは他者からすれば狂気そのものなのである。すなわち、死に至る病とは絶望ではなかったのだ!死を決定的なものとしたのは、主体の内的確信に他ならないのである。
時にして、内的確信とは他者からみれば狂気である。ウェルテルの自殺しかり、ナチズムにおける民意しかり、戦争で死を肯定させるナショナリズムしかり、カルト宗教の熱狂しかり、それが不幸のように我々には映るがしかし、それは我々が主体自身でないからである。すなわち、内的確信を持たないからである。そして皮肉なことに、幸福とは、内的確信以上のものではないのである。客観とは、その材料や支柱に過ぎず、直接的な条件にはなり得ない。したがって、それはいわば、ある種の無垢さ、忘我をその基盤とする。わたしは先に、忘我が決壊し、理性が立ち現れ、理性が決壊し、感情が立ち現れると説明したが、この感情とは忘我の高次元の回復であるのだ。
ロッテはぼくにとって神聖だ。彼女の前ではどんな欲望も鳴りをひそめる。彼女のそばにいると、気が動転して、我を忘れてしまうんだ。ロッテがピアノで弾いてくれる曲がある。天使の御業かと思わせるような弾き方で、シンプルでありながら、才気に溢れてる。よほど好きな曲らしく、彼女が最初の旋律を弾くだけで、ぼくは一切の苦しみと迷いとふさぎの虫から解放される。 昔の音楽には魔力があったと言われるけど、まんざら噓でもなさそうだ。素朴な曲がこれほど胸を打つんだからね。しかもロッテは、ぼくが頭に銃弾を一発撃ち込みたくなるときにかぎって、よくその曲を弾いてくれる。すると心の迷いが晴れ、闇が霧散して、ぼくはほっと息をつくことができる。
したがって、忘我の起源たる無垢の黄金期の郷愁に耽ったあとに、ウェルテルから発せられる以下の言葉は、内的確信、狂気、そして忘我の高次元の回復を決定づけるロマン主義的命題そのものを意味する。
自分の手を用いず見ることを学ぶのはなんと困難なことか
「素描(Zeichnung)」におけるディレッタンティズムの効用
見ることは「あらゆる人々は全体印象(Totaleindruck)(区別のない)から始まる」。そしてそこから区別(Unterscheidung)に至る。つまり〔第一段階〕見えること(受動的)から〔第二段階〕見ること(能動的)に移行する。続く〔第三段階〕は単なる回帰ではない。受動的な印象を超えた能動的な関与を持って初めて全体を獲得できる(この三段解説はシラーに由来する)。これを元にゲーテは下記のように論ずる。
芸術作品は人間がそれを享受するように要求するが、〔そのために〕芸術作品はさらに〔人間が〕芸術作品にさまざまな仕方で関与すること(Teilnahme)を要求する。(...)芸術作品により緊密に関与する者こそが、芸術作品を十分に生き生きと享受するところの真の愛好家(Liebhaber)であろう。
そして通常の「非活動的観照者」に対して下記のように語る。
この利点〔見ることの三段階〕をディレッタントは、単なる非活動的観照者とは異なって、芸術家と共有する。 1816~29『イタリア紀行』 1786年から88年のゲーテのイタリア旅行での自伝的作品 1787/2/17
美術家達は好んで私に教えてくれる。私の理解が早いからである。とはいえ、理解した事柄が直ちにうまくいくとは限らない。何かを素早く捉えることはたしかに精神の特質であるが、何かを正しく行うには、一生にわたる訓練が必要である。だが愛好家(Liebhaber)は、うまくいかないところがあっても、怯んではならない。私が紙の上へ引く少数の線は、しばしば性急で、正確なことは稀であるが、感覚的事物の表象を容易にしてくれる。というのも、対象をより精確により綿密に観察するとき、人はよりすみやかに普遍的なものへと高まるからである。
ここでいう「愛好家(Liebhaber)」とはディレッタントをドイツ語にした語。