出版の自主規制
年表
ブームが最高潮を迎えるのが1947年(昭和22年)の暮れから翌1948年(昭和23年)の春にかけてのことである。
マンガを敵視する傾向は戦前から強く、赤本マンガのバッシングは、竹内オサムによると太平洋戦争前・戦中の文化統制の延長線上にあるという。 1950
政府内では、社会機運を利用して何らかの方法で、青少年に「有害」な出版物や映画を法によって取り締まろうとする機運が高まっていた。
何を目的に取り締まろうとしていたのか?
政府内では報道や出版物の法規制が検討され、その中には「青少年育成基本法」の制定も含まれていたが、マスコミの強い反対にあい法案上程を断念せざるを得なかった
1954年(昭和29年)になると(略)殺人・暴力シーン、エログロ、粗野な言葉遣いがマンガに多く見られるようになり、(略、以下の組織が)非難を始めるようになった
反対勢力:日本子どもを守る会、母の会連合会、各地のPTA
行政、警察とマスコミ、表現規制推進派の民間団体が協同して起こした
1950年代より各都道府県レベルで青少年保護育成条例等による出版物への規制を行う動きが強まり始めたため、これらの規制強化に対応すべく設立されたのが本団体である。 1965年(昭和40年)5月7日には、前年に制定された東京都青少年の健全な育成に関する条例に基づき指定された不健全図書(他の道府県における有害図書)の取り扱いに関し「出版倫理協議会の自主規制の申し合わせ」を決定し、「年5回、もしくは連続3回有害図書に指定された雑誌類は、小売店から特別な注文が無い限り配本しない」という、出版流通における自主規制措置を開始。 1967年(昭和42年)には、他道府県における有害図書に対しても「要注意取扱誌」の指定制度を開始している。 時期の永井豪の漫画でもある『ハレンチ学園』に代表されるエログロナンセンス漫画の潮流に乗って書かれたが、結果的に性表現ブームの過熱や学園青春漫画における暴力表現などに幾ばくかの諷刺のこめられた内容となっている。
しかし同年8月27日、『やけっぱちのマリア』を掲載したことで『週刊少年チャンピオン』1970年8月23日号が福岡県の児童福祉審議会から有害図書の指定を受けた
1991
そもそも有害コミック騒動前(厳密には沙織事件(1991)前)までは、「絵ならモザイクは一切不要である」というのが常識だったのをご存知ですか。実写のモザイクもクソ緩かったし、エロ絵やエロ漫画であれば好き放題に無修正で見られた時代があったんですよ 「そもそもなぜ性器の絵にモザイクがかかるようになったのか」というのは、有害コミック騒動=青少年健全育成の煽りによってエロ絵全てにバッシングが広まり、そこでエロゲ会社が「スケープゴートとして」「性器表現は諦めるので許して下さい」といって、絵にモザイクをかけ始めたのが始まりなんですよ
そもそも絵の性器にモザイクをかけた原因自体が、有害コミック騒動であり、青少年健全育成なんです。全部繋がってるんですよ。エロ絵に対する有害コミック騒動としての大規模な社会的バッシングの結果なんです
「第3章 言論・表現・出版の自由と責任」が行政の圧力と出版社の自主規制の歴史
p.139-151
1996年4月1日
出倫協は、成年向け雑誌の区分陳列販売を促進するため3月25日に「成年向け雑誌に関する自主規制の申し合わせ」 マーク表示を7月1日から 実施することとした。この新たな自主規制により図書類の指定見直しについて、青少年問題協議会への諮問が見送られた。
一方,東京都は96年から実施している「成年向け雑誌マーク」がCVSを中心に区分陳列が不十分で,都民からの苦情が多いため,8月からマーク付き雑誌も(引用注:不健全図書)指定する方針を発表した。出倫協は「成果が不十分だからといって自主規制の根幹を揺るがすのは行政当局の独断先行である」と抗議文を提出し,マーク付き雑誌の指定は 踏みとどまったが,都の考え方が自主規制型から行政規制型に変わってきたことを 露呈した。
コンビニは成年向け雑誌マークがついていないエロ本を扱っていたが、JFAの自主規制で小口マークどめになった。
その内容もだんだん過激化してきて成年向け雑誌マーク付きと変わらなくなってきたという理由で、都が不健全図書の諮問にかけたがったが出倫協は「封があるから青少年に見えないでしょ」と反対した
業界の自主規制は有害図書の諮問にかけられないようにするための仕組みであることがわかる基素.icon 諮問にかけられて有害図書になった場合、販路が減ってしまうので、出版側としてはそもそも諮問にかけられたくない 規制を強めると青少年育成保護の観点で高い効果が得られるのかよくわからない基素.icon
2017
コミックマーケット、印刷所に性器修正強化の要請をする 出版基準
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参考