コンテクスト闘争の前面化
倫理研第3回で北田暁大の講演において、「CMCにおける公共圏の不可能性」を論証するために提出された、CMCコミュニケーションの特性。電子空間においては、多様な価値観という内容水準での衝突が起こるというよりも、「行為の適切な解釈を暴力的にでも保証する「第三者の審級」が失効し、多様なコミュニケーション様式が無媒介に交差してしまう」ことにあると論じた。 倫理研第3回: 北田暁大 講演(2):CMCの構造と「公共性の構造転換」――「電子公共圏」の不可能性 (現実空間では、)「文脈を互いに共有しているということ」をある程度アテにできているがゆえに、「ありえたかもしれない」多くの行為接続の可能性に目をつぶることが可能となっています。しかしCMCにおいてもっとも問題的なのは、なにがいま我々の行為における文脈であるのか、その見解を異にする人々が無媒介に接してしまうことです。 となると、CMCにおけるコミュニケーションの賭金となるのは、伝達内容の「妥当性」そのものではないということになる。もちろんそれも重要なんだけれども、むしろそれはコンテクストのオペレーションと深い関係をもってくる。つまり自分が内在していると信じている文脈の「妥当性」をどう操作していくのか、どうやって相手が前提としているコンテクストについての信念を改めさせていくのか。こういったことが、困難な課題であると同時にクリティカルな問題として現れているのではないか。 (中略)
コンテクスト・オペレーションが前面化するということを、別様にいいかえておきましょう。それはつまり、コミュニケーションというものが「何 what」の次元というよりも「いかに how」の次元によって統制されていくということなんですね。
といっても、この「状況定義の一次性」――我々の行為の文脈は現在こうであるといったことをあらかじめ定義・提示すること――には「ほつれ」がつきまとうといった議論は、すでに日常的なコミュニケーションに関しても示唆されてきたことです。たとえば「言語ゲーム」論も同様の議論だと思います。つまり、それぞれの行為の意味は、文脈によって一義的に決定されるのではなく、文脈そのものが絶えず個々の「指し手move」によって構築されるものである、と。つまり、発語内行為と発語媒介行為の区別とは、なんらかのアプリオリなかたちではなく、その都度occasionalに構成されていかざるをえないというわけです。
CMCはこの状況構築の逐次性を非常に露骨なかたちで前面化していくようなものではないか。私の言葉でいえば、「秩序の社会性」に対して、「繋がりの社会性」が前面化していく状況ともいえます。 「繋がりの社会性」はCMCをどのような空間にしているのでしょうか。たとえばCMC上の「フレーミング」や「炎上」では、内容云々についての批判というよりも、ブログ管理人の「対応のマズさ」に対する言及が多く観察されますね。この点については「ユリイカ」のブログ特集に寄せた『「ブログ作法とは何か」とは何か』というエッセイで扱ったのですが、どうもCMC上の炎上の経過を見ていると、「発火」したときには内容レベルでの対立であったものが、次第に「語り口」「作法」をめぐる闘争に変容するといった「自然史」があるように思えてくる。争点が「作法」になった頃には炎上の経緯を「まとめサイト」的なブログがあらわれ、あちらこちらで「作法」言説が紡ぎ出される。状況構築の逐次的性格が前面に出てしまった結果、「内容」よりは「状況、コンテクスト定義」の方法をめぐる闘争が重要性を帯びてくるわけです。「ブログ作法」について語るメタブログが存在するのも、コンテクストの政治学がCMCでは重要な課題になっているからだと言えるでしょう。誰かが文脈を強引に統制しようとすると、問題が起きる。CMCは構造的に文脈感応的であるがゆえに、文脈の多元性が作り出す複雑性を一挙に解消、あるいは制御しようとする振る舞いは、きわめて「暴力」的なものと映ってしまう……。 倫理研第4回で高木浩光による指摘。「炎上」や「サイバーカスケード」というものは、必ずしも観光地での「記念足跡落書き」的にコメント欄に殺到するような、動物化したケータイ世代によるモブ的・祭り的なものだけではないと指摘した。 そこで高木は、むしろリテラシーの高いはずの、ネット古参ユーザーが原因の場合もあるという。かつてfj時代に養われた「理想的な討議の作法」という理想が、新興世代や初心者の「まずい作法」に助言や叱責をしたくなる欲望を喚起してしまい、結果的に現場に介入するあまり、かえって状況が悪化するというもの。
東:
高木さんがおっしゃったのは、むしろ古い世代のネットワーカーこそが、いまの若いブロガーの無知に対して突っ込みを入れてしまうということですね。お前たちのその議論の仕方はいかがなものか、という突っ込みから始まって、ディスコミュニケーションのレベルがどんどんあがり、発言がどんどん発言を過激化していくような現象も、炎上の一要因になっている。 (中略)
炎上は、実は、議論がメタレベルになってしまったときこそ炎上になる。この指摘は重要だと思います。前回の北田さんの発表に即していえば、内容の問題ではなくて語り口や議論の作法の問題、つまり背景のコンテクストをめぐる争いこそが、炎上を加速化するという議論です。 となると、それこそ、ケータイメール世代からfj時代のツワモノまで、多様なネットワーカーの存在する現在のブログ空間においては、もはや共通地平を探ることはできず、どこまでも炎上が拡がっていくことになる。 (中略)
整理すると、炎上は、動物的な脊髄反射だけではなく、むしろコンテクストをめぐる争い、作法をめぐる争いとして起きているということですね。そして、ブログは作法やコンテクストをめぐる争いを顕在化させてしまうシステムである、と。