2022/04/22-2022/04/30
オタクもまた被差別民だったわけだから、ノイジーにもなるし、防衛的にもなるのだよ。
言葉の選び方を変えても、そこにこもる違いは自分の感情の熱量と、コピーとしてのキャッチーさだけ」という感覚でもあるのかな。
若者にこれがブーム! というとき、それは「若者にモテたい」ということだけでなく、「それこそがこれからのスタンダードとなっていく」という脅威をどこかで感じさせているのだと思う。
と、したときに、日本でこれだけ若者が少なく、かつ貧しくなったら、若者に人気な何か、をリサーチしていく意味ってないんじゃないかな。
妻さんは、結構発達障害に関する本を図書館で借りてきて読む。HSPに関する本なんかも読む。
これは私からするとどこか滑稽で、「あなたが発達障害なら、私は薬物投与が必要だったり手帳が必要だったりするレベルだよ! あなたは全然 “普通” だよ!」と思ってしまう。
であるならば、そういった行動は、わざわざ不安になるための情報を集めに行っている、ように見えてしまう。 それ自体は分かる。ニュースの報告価値はネガティブなもののほうが大きいからね。 でも、それでいちいち落ち込んだら、自分のパフォーマンスを維持できなくなることは、自分に関しては分かっているから、こと自分に関してはそういうものには近づかないようにしている。
それに、占いやキャラクタータイプなんて、気にしたら当たっているような気がしてしまうものでもある。(誤解のある方の「バーナム効果」)自分探しの罠みたいな。 その辺が不満だったので、最初の2行のようなことを聞いてみたことがある。
そうしたら、その回答にあたる会話の中の一部として、「いや、そうとも思うけど、“このもやもやは、それのせいだったのかぁー!”、“今まで生きにくかったのは、それのせいだったのか!” っていう感覚も欲しいじゃん。
納得したい。
よく、お医者さんなんかが、“みんな病気に名前を欲しがり過ぎる” っていうけど、そういいう感覚もあると思うんだよね」
というようなことを確か言っていた。
うん。
そんな風に、「安心するため」みたいなメタ認知が、自分の欲求や自分の行動に対してできていて、それでも必要だというのなら、何も言うまい。 言えることがあるわけでもないし、言うことでもない。
アテンションエコノミーが、ある種、人類のセキュリティーホールを突いて注意を拡散させているのは確かなんだろう。 で、原始の人類と、現代人とが、ともに「周りの」「動き」に気を払いながら生きているとしたら、その間にはさまっていた時期に集中力がもてはやされた、あるいは許されていたのはなんだったのだろうか?
43歳の時、私は中年期の面白さやできることの増えるさまに感化され、『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』という一種の賛歌を作ったが、この時点では、「今ならできる」→「今やらなかったら、もうできない」の感覚がまだよくわかっていなかった。今は、それがビシバシわかる! 中年には、残り時間がもうないのだ!
ここに、私の場合は「今もこれからもすべきこと」が加わる。本業のこと、家庭のこと、物書き以外でなすべきこと、そういった事々を背負った状態で、私は私だけの南極大陸犬橇横断に挑まなければならない、いや、挑みたいと思ってしまう。こういうイカロスの太陽特攻じみたトライアルに心惹かれる感覚は、43歳時点ではほとんど感じなかった。中年期は比較的長い穏やかな時期という人もいるが、いやいや、たった数年でも景色は結構変わるものじゃないですか。
その景色の変化を楽しみにしている、と数年前の私は言ったし、実際これも新鮮に感じるのだけど、心身ともに少しずつ衰えていくなかで、手持ちの、もはや20代の人々からはアナクロとみられるであろう手持ち兵装で全力撤退戦をやる時の景色には、ほろ苦さと、アドレナリンを伴った加齢臭が伴っていて、ちょっといたたまれないものがある。
数年前までの私は、中年期危機のうち、抑うつや空の巣症候群や男性の更年期障害などは恐れていたが、「人生最後の勝負」のたぐいをせせら笑っていた。ところが今の私はそういう心境にシンパシーを感じてしまう。『機動戦士ガンダム』シリーズで言えば、旧式モビルスーツをかき集めて一旗あげようとするジオン残党と今の私はたいして変わらないのかもしれない。
ここでいう「世渡りのための気配り」とは、自分がどういう人間で何をしたがっているのかを無理のないかたちで周囲に伝えて、それをとおして自分の意志決定の差し障りや代償を減らすための気配りのことだ。
私が人生のフラグ管理という時、それは自分自身の意志決定の問題以上に、周囲がその意思決定についてこれるかどうか、受け止めきれるかどうかにかかわる問題とみなさずにいられない。
もちろん、周囲の人びとの理解も許諾もガン無視して、ほとんど唐突に結婚したり転職したりすることだってできなくはない。
けれども周囲の人びとがついていけない・許容できないような決定は、人間関係に波風を立ててしまうし、決定のその後に癒えない爪痕を残してしてしまうことだってある。
トンネルドンを防ぐには、車体の断面積(車体を輪切りにした状態での面積)が一定の割合で大きくなることが望ましいとされています。つまり、鉛筆削りで削った鉛筆の先ような形がトンネルドン対策としては望ましいノーズの形状です。
しかし現実は一筋縄ではいきません。先頭車両には運転台があり、運転士の視界を考えるとある程度出っ張らせる必要があります。しかし断面積の変化を一定にするため、出っ張った分は別の部分を削ることで調整。そのため最近の新幹線では運転台のサイドが若干えぐれたような形になっています。
自動車の運転席や航空機の操縦席は前だけに付いており、車両や航空機の前後の形は非対称です。しかし鉄道車両の多くは終点で折り返してそのまま逆向きに走れるよう、前後が対称になっています。実はこの鉄道ならではの特性が新幹線のノーズ形状に影響を与えています。
700系新幹線のノーズは側面から見ると弧を描いている部分があります。この部分は最後部車両になったとき、航空機の尾翼のように、空気の流れを安定させる意図があります。
時刻を刻む間隔が一定ではない時刻法のこと。 明治6年1月1日に西洋からの定時法に改められるまで使用されていた時間区分法。 「子の刻」「丑三つ刻」はこの「不定時法」の時間の呼び方。 一日を昼と夜に分け、それぞれを6等分して「刻」とし、「刻」に十二支を当てはめる手法を取っていた。
⇒ブラタモリを見ていたら、「昔は日の出から日の入りまでを6等分していて、(だから「時」や「刻」はいまの一時間ではなかった)みたいなことをさらっと話していた。
だから、だいたい2時間、という見立てすら当たらない。
⇒「あれ? それじゃ季節によって “一刻” の幅が違っちゃうんじゃん?!」と思ったら、本当に違うようだ。(上の記事が検索したら出てきた)
⇒まあ、みんなが時計を持っているわけでもなく、時間の概念が大雑把なのであれば、「太陽の角度どけい」のほうがみんなで参照しやすいのかもしれない。
私もパワーポイントだけを使った講義は板書より不人気なことがある。「身体を使わないと死にそうになる学生がいることも知っていてください」と言われたこともあるなあ。大学の授業の教授方法について
“例のプールは”、日本の文化コンテンツの象徴とも呼べる存在です。アニメ作品におけるツインテールのようなアイコンだといっても過言ではないでしょう。
年間平均気温15℃前後、平均雨量約1200mmの茨城県南部では、田畑は20年も放置すれば、藪になり、林になってしまいます。それを耕作地に戻すことは困難で、できたとしても質のいい畑にするには長い時間を要します。耕作可能な田畑が維持されているのは、過去に多くの人が土地を整備し、メンテナンスをしてきたからです。
食べる分だけの米や野菜をつくるにも、機械や道具が要ります。故障すれば修理してくれる人が必要です。タネや資材を買うお店も必要です。肝心なのは、その機械屋や資材屋を自分一人で食わせることはできないことです。地域の他の農業者がその人達にお金を落とさなければ、周辺産業は成り立たず、結局は自分の仕事もできません。交通、医療、ゴミ、福祉などの、人が生きるための公共サービスも、税金によって運営されています。自分はお金を使わずに暮らしている、と豪語しても、それは他の誰かが負担している公共財に「タダ乗り」しているだけで、「自給」でも「自足」でもありません。
⇒「自給自足はもっと減ってよくて、集約して、“産業”(輸出を含む)として成立する規模を残せばよい」と言われたら、反発したくなる心情はある。
やっぱり、「にほんむかしばなし」的な “農家” ってものへの憧れが形としても残っていてほしい的な。
でもそれも、「村落共同体」としてのシステムが外部として存在しなかったら、成立できないのかな……。
子どもは、リアルに殴り合っていると思ってプロレスに熱狂しますよね。ところが、少々知恵がついてくると、「あんなのはショーにすぎない」などと小賢しいことをいって、熱狂している子どもをバカにするやつが出てくる。
けれども、大人になると、プロレスがたしかに一種のショー、つまりある意味ではフィクションであることを理解したうえで、しかしそのフィクションを命懸けで真剣に演じるところにこそ、プロレスの本当の魅力があることがわかってくるわけです。大人はそのへんのことを全部わかってプロレスを楽しんでいるのに、それを「リアルな格闘じゃない」などと批判して、いい気になっているやつこそが、実はいちばん子どもなんですね。
ナショナリズムもまさにそうで、ナショナルな物語を文字どおりの真実として信じ込むのはたしかに子どもですが、それをフィクションにすぎないなどと批判して知的ぶっているのは、もっと子どもです。フィクションをフィクションと知りつつ、あたかも真実である「かのように」真剣に引き受ける、というのが「大人」の態度ではないでしょうか。 嘘だと思って拒否反応を示す人がいるかもしれませんが、そうではない。たとえば祖父母や父母の話を子に伝える時、立派なエピソードや仕事の話をして、子どもが楽しんだり憧れたりします。そこで自分もそうした人になりたいと思って向上するものであって、わざわざどうしようもない性格や失態を話しません。これはある意味「フィクション」ですが、嘘ではない。「あいつもこいつもただの人間だった」では、「自分がこうなのも仕方ねえや」で進歩がない。こんなものは文明ではなく、
彼らがいうには、「国家の戦争で市民が犠牲になるべきではない」と。たしかに、最近の悲惨な虐殺の報道をみていると、そういいたくなる気持ちもわからないではありません。
近代国家の基本的な論理は、国家の主体(主権者)は市民であるということです。だから当然、国家の戦争はただちに市民の戦争でもあります。「戦争は政治家や軍隊だけがやればよい。市民は関係ない」というのは「戦争は王や王の軍隊だけがやればよい。庶民は関係ない」という中世国家の論理です。
「政治の主体は市民だが、戦争の主体は市民ではない」などといった論理は成り立ちません。市民の主体性を否定するなら、それは民主主義の否定ですよ。
大場: 国家や社会の運営に主体的に参加せず、自身の身体的快楽を満たすために、経済的利潤を追求してばかりの人々と言えるでしょうか。
イデオロギーを端的に露呈させていると思います。それは、「国家は市民社会を外部から統治する権力機構であり、したがって国家と市民社会は対立する」という考え方です。