2022/04/15-2022/04/21
差異と同一性
転倒
よきこと:本来のもの、本物、オリジナル、直接的なもの≒パロール
自分の人生をエクリチュール的に生きる
すべての決断は……つねに未練を伴っているのであって、そうした未練こそが、まさに他者性への配慮なのです。
私は未練を断ち切るのに、本当に、全力で未練を断ち切るための未練立ち切りを動員しないとならなくて、それゆえに他者に冷たい。
彼らの思想は、「そもそも人間は何も言われなくたってまず行動しますよね」
それこそ原理主義的に断ち切らないといけないくらい。
2022/04/16 21:22
他人が人を傷つける側面があることは、
「赦す」しかないのです。
自己の全体性化のようなものとして私は見る。「自分もいつかヒーローになれる」的な。
国をみんなで社会主義で発展させよう! とかそういう「提唱されるもの」のことではなく。
ドゥルーズの紹介された時代
二項対立的ではない
資本主義を内側から変えていく
固定化されない、見えない絡まり合い
リゾームは地下茎のことで……、ってそうか、樹形との対比を同じ植物メタファーでやってたのか!
拮抗がギリシア悲劇
過剰を切り捨てるほうが動物的でいられる
批評の世界すなわち論壇と大学にはときに対立が生じます
アリストテレスの形相と質料
ショーペンハウアーの表象と意志(と無)
理想的な状態から弾き出されることを「疎外」
死の偶然性と隣り合わせであるような快を、ラカンは「享楽」(jouissance)
介入を、精神分析では「去勢」と呼びます。
⇒日本ではキリスト、カテゴリー、精神分析(うごめきや抑圧)はないよな。
⇒巡り合わせやからくりとしての運命、ならあるかもしれない。
精神分析的に言えば、客観性には憎しみが伴っているのです
根本的な欠如を埋めようとすることが、ラカンにおける「欲望」です。その意味ではラカンには「欠如の哲学」があるのです。
⇒これだと、子供の探究心や好奇心すら「欠如」や「スリル(享楽)」になってしまう。
「鏡像」
端的に言って、自己イメージとは他者なのです。
名前とはドグマです。自分で勝手にものに名前をつけることはできません。
人は規律訓練を求める。なぜか。認知エネルギーが溢れてどうしたらいいかわからないような状態は不快であって、そこに制約をかけて自分を安定させることに快があるからです。
⇒「競争」なんかは分かりやすい例かな?
否定神学とは、「神とは何々である」と積極的に特徴づけるのではなく、神を「神は何々ではないし、何々でもなく……」と
というかカタにはめるために言いたいことをわざと大げさに膨らませたり、大して本質的でないお飾り的な文を増やしたりすることがあります。
人文系の文章は古くは「弁論術」に由来し、人を説得するための技術がいろいろ含まれた文章なのです。
弁論のレトリックとは、たとえば、言いたいことを強く押し出すためにそれと対照的に何かをわざと否定してみせたり、雰囲気を盛り上げるために同じことを違う言い方で繰り返したり……などです。人文系の本というのは、昔のものになるほどそういう傾向が強いということを知っておいてください。
つまり、読みながらツッコミを入れないということです。途中でツッコミを入れ始めると、端的に言って、読めません。
つまりは言い訳を繊細に書くことで、みんなが信じているものへのひじょうに嫌味ったらしい挑発が行われるのです。僕は、これこそが知性だと思いますね。
本書は、「こうでなければならない」という枠から外れていくエネルギーを自分に感じ、それゆえこの世界において孤独を感じている人たちに、それを芸術的に展開してみよう、と励ますために書かれたのでしょう。
読むことは早すぎる
考えることが消化なら、書く動作はある程度消化に関わっている。
「ゼロ衝撃の体験はない」って感じかな。
大豆田とわ子と三人の元夫いうドラマがあった。
その主題歌を松たか子さんが歌っていた。
歌詞とその声が、中年の危機にある自分の背中をしゃんとさせて良き。
流れる時に立ち止まっても、自分の来た道は振り返んな、と。
気合いが入る。
自分の幸せの姿も自分で決める、という強い意思。
そうした意気=粋があることで、中年の危機、そのダークサイドに陥ることなく、日々やっていけるのだろう。
私は何度か自分のことを、
発達障害なのではないか?
と疑ってみたことがあります。何しろあてはまりそうな項目が多いのです。
たとえば私を知っている人は、私のことを「不注意な人」と感じると思います。
小学校時代にはほぼ毎日のように「忘れ物」をしていました。
・しかし、こんなことがそれほど「問題」なのでしょうか?
・ほんとうにどうなのでしょう?
・ 「治す」必要なんか、ないことともいえないでしょうか?
・ 世の中この種の話に細かい視線を向けすぎではないでしょうか?
社会運動(or政治活動)をする人達っていうのかな、社会に疑問を投げかけられる人たちを見て気骨があるなと尊敬することがしばしばあった(その理論の善悪がどうであれ)。彼らなりに合理的な理論を構築して社会に投げかける。受容されようがされまいが、自分を信じて投げかける。尊敬の念と同時に、そんなことを到底できない自分自身にコンプレックスを抱いていたのかもしれない。
社会的なペナルティが利害関係に合わないがために語れない言葉なんて山程ある。 言える言葉と言えない言葉を随時判断して、抑圧だと感じたとしてもうまく社会に擦り寄せてできる限りの無害な言葉を吐き出してしまう。 生活のために必要なバランス感覚だとは思いつつ、とは言えふとした瞬間生じる違和感だったりを飲み込めるほど従順でもなく、どこにも辿り着けずに言葉が浮遊する。
そういう点では文章って適切な媒体なのかもしれない。 月曜日のたわわの事件を思い出してしまったけど、マンガなどはもっと大変だ。 視覚的に短絡的に解釈されて公衆の面前に晒される機会はよっぽど多いだろう。
どーもドラえもんという作品は、こういう風に、作品の意図を無視して一コマだけ切り取られることが多くて、他にも
みたいに指摘される曲解切り取りがなされることがあったりして、藤子・F・不二雄ファンとしてはほんと忸怩たる重いがあるわけですが。
⇒とは言えだ。
Fさんは、一コマ一コマがアトムに振り切れた表現の仕方をしているし、一つ一つのSF短話もまた、アトムに振り切る書き方をしている、できてしまう表現者なので、「本当のところ、個人として戦争についてどう思っていたか」とか「もし生きていたら、今の戦争を見て何と言っていただろうか」ということを、私たちが推測する、それも作品に現れた表象から判断する、ということが恐れ多いという気がする。
あのいたずら好きで面白がりの達人で、同じネタを、尺や年齢層に合わせて料理仕替えて出すことまでできてしまう作品のプロデュース能力みたいなものを見たとき、安直に
「戦争や全体主義への反感」を訴えていたはずだ! というのは読みすぎという気がする。
もちろん、時代背景もあるし生い立ちもあるし、そういう感性を根っこでは持っていたと思う。ただ、「それをメッセージとして作品に乗っけて発信し、多くの人に共感してもらいたい(あるいは賛同させたい)」とまで思っていたかというと、それはわからないと思う。
自分の根っこの感性はありつつも、それと反対の価値観も併せ持った上で、バランスを取りながら生きていた可能性は低くないんじゃないかな。
その典型が「余命もの」が増えたこと。あれは、「別離」の概念が死別でしか成り立たなくなったことの反映だそうだ。そりゃそうだろう。今なら世界中どんな場所にいても、スマホが繋がりさえすれば、メールやLINEがやり取りできるんだから。同じ理由で、歌謡曲・演歌もかなり無効化された部分が多い。