2022/04/06-2022/04/14
#採掘場
思った感想を、会った人なら誰でも話しちゃうくらい社交欲求の強い人と、誰にも話さなくても特に内圧で困らない人との、間の人
怒涛のように入ってくる→自分にはできないんじゃないかとテンパる↓
やれることをのみこみ→疲れること・怒られることがわかり落ち込む→次にやることを整理する(「これ以上やめてくれ」とうめきつつ)↓
また、「やれている自分」に戻る
板坂元さんの文庫を図書館で借りてきた読んでるけど、テンポや文体に関しては、むしろ「昔のダメだったビジネス書(当時はそういう言葉はなかったわけだから、「実用書」? 「啓蒙書」もなかった?)」と既視感がある。
そういう意味では、やっぱり時代感があるのかなあ。
すごい人のすごい方法
桜の皮
ガラスの天井
これらの価値変化は、「時代の変化」などの外的な影響を受けたものではあるのだけれど、「政治体制や憲法を付け替えられた」あるいは革命を起こした結果起きたわけではない。
ということは、それまでの自分達が、閉鎖環境で洗脳されて育てられたわけでもないし、情報統制やプロパガンダしか見せられずに生きてきたわけでもないのに、そのときまではちゃんと信じていたということなのだ。
人間は間違える。
言論の自由
弱者への配慮と治安の維持とのバランスで語られるようになった
民意は正しい
弱者の味方
詰め込み教育は悪
反復練習
テスト時間割
規律
ネットのどこかに自分の文章を位置付ける技術
独善性、排他性、狂信性を裏側に含んだ語としての「正義」
「言い分」とか「正当性」という意味ではないと思う。
←2022/04/01-2022/04/05/2022/04/15-2022/04/21→
https://www.sfc.keio.ac.jp/deans_diary/016182.html
紛争勃発前夜まで、私は「侵攻はない」と自信を持って主張していたのだ。しかし、侵攻は起きてしまった。その時、「私が知っている」ロシアは消滅し、私が構築してきた議論も崩壊した。自分の長年の研究は何だったのだろうか、そして人間は戦争を防げないのか、という絶望的な気持ちに苛まれた。
だが、この戦争勃発で、茫然自失となっている社会科学研究者は少なくないらしい。たとえば、相互依存論で平和が維持できるとしていた論者は、相互依存状態が戦争を防がないという現実に衝撃を受けているという。また、核抑止論者は、核は戦争の抑止にならないばかりか、核を持つ好戦国が戦争を起こせば、その核が他国の介入をも抑止してしまうという現実に打ちひしがれているという。このような例は枚挙にいとまがないだろう。
https://togetter.com/li/1814687#matome
https://twitter.com/niwako_towa/status/1469232216966561793
クズとしか付き合わない友人が「まともな人は段階を踏んでくれるけど、クズは後先考えずにその瞬間欲しい言葉をくれるんよ。私が欲しいのはそれやねん。だからクズはコスパがいい」と言っていて知らない宇宙たくさんあるな〜って感心した。
https://mobile.twitter.com/yontengoP/status/1286716620824403968
実際に本人が取ったノートってのも見せてもらったけど、
・多分話の内容を拾いきれてない
・そして聞き取った内容も多分理解してない
・あとノートの取り方ってのも多分知らない
→とにかく耳に入った単語のうち聞き取れたものだけをノートのあちこちに雑にメモしただけ、
って印象だった
https://bunshun.jp/articles/-/3073?page=1
たとえば、素面において私たちは、あの「大東亜戦争」が罪悪ではなく失敗だったということを知っている。
満州事変から敗戦まで十四回も首相が交代している日本の国家的指導者と、開戦から敗戦までを一貫して指導したナチスとを同列に論じること自体が、そもそも無理を孕んでいることなどは誰の目にも明らかだろう。いや、もし本気で「人道に対する罪」を問うなら、東京大空襲と広島・長崎への原爆投下を実行したアメリカをも裁かなければ、そもそもフェアな裁判と言えないことは自明である。
その一方で戦後日本は、東京裁判の結果を織り込んだサンフランシスコ講和条約に調印することで再出発を期したのだった。つまり、戦後日本は、形の上では東京裁判の正統性を認めているのであり、その効力によって国際社会に復帰したという過去を持つのだ。とすれば、他国に対する仮面において私たちは、あの戦争が「共同謀議」の「侵略戦争」であったことを一度は認めているのであり、
西欧列強の帝国主義的膨張政策に対抗するために、あるいは適応するために被られた西欧近代化の仮面の裏には、常に日本国家の自主独立という素面が隠されていたのだった。
自国の主権線は言うまでもなく、その周辺の「利益線」をも確保する必要を言いながら、「我邦利益線の焦点は実に朝鮮にあり」と説いていた。そして実際、朝鮮半島という「利益線」をめぐって戦われた日清、日露の二つの戦いに勝利した日本は、西欧近代化を実現することによって、東アジアの中で唯一自国の独立を守り抜くことに成功したのだった。
「利益線」が確保された瞬間、その「利益線」をより磐石なものとするために、更なる「利益線」が求められ、ついに日本は何が「主権線」で何が「利益線」なのかが皆目分からないといった危機的な事態を迎えてしまうのである。
当時の日本が何を守るべき素面とし、何を敢えて被っている仮面としているのかが見えなくなってくる。そして、そんな自己喪失の果てに唱えられたのが、あの「大東亜戦争」の理念だったのであれば、やはりそこには近代日本の無理が凝縮されていたと言うべきではないのか。
だとすれば、日清、日露は肯定するが、大東亜戦争は否定するといったような議論がナンセンスであることは明らかだろう。既述したように、近代日本は日清戦争から大東亜戦争までの歴史を、一つの“切りのない”“運命”として生きたのであり、そうである以上、大東亜戦争が「罪」ならば、日清・日露も「罪」であり、果ては日本近代史そのものをも「罪」とせねば収まりがつくまい。しかし、それは同時に、日本という小さな島国が、西欧近代という途方もなく大きな力に直面せねばならなかった宿命それ自体を否定することであり、
「東亜共同体論」の空想性に対しては常に批判的だった小林秀雄は、しかし、黙って事変に処した「国民の智慧」だけは信じ続けたのだった。それは言ってみれば、「大東亜共栄圏」の理屈は信じなくとも、その理屈を必要としてしまった日本の宿命だけは「我事」として引き受け続けたということである。そして、この態度は、そのまま戦後直後の小林の発言、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」(『近代文学』昭和二十一年二月号、座談会にて)という言葉へと一直線に繋がっている。
〈何もかも正しかつたと彼は考へる。何も彼も正しかつた事が、どうしてこんなに悩ましく苦しい事なのだらうか〉(「『罪と罰』についてII」昭和二十三年十一月)
小林が描くラスコオリニコフと共に、この「悩ましく苦しい」感覚を今度こそ手放してはならない。なぜなら、その感覚だけが、私たち自身の「掛け替へのない命の持続感」を支えているのだから。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20220408/1649383200
たとえば同書には「ゲームはリセットできるが人生はリセットできない」的なフレーズが何度も登場するが、そうしたフレーズも、思考を積み重ねる過程のなかで以下のように変わる。
そこで、浮上してくるのが、「その外があるかないか」です。ゲームには、リセットできるものもある一方、リセットできないものもありました。だけど、リセットできるゲームにせよできないゲームにせよ、いずれにしても「終わり=目的」はありました。で、ゲームが終わると、そこはゲームの外の世界。
ところが人生の場合は? そう、人生の場合には、人生の外の世界なんていうものはないのです(厳密にいえば、そんなものを前提にして考えるわけにはいかないのです)。
ゲームと人生をわけるポイントとしてリセットできるかどうかを採用するのでなく、外側があるか/ないかをもってすることで、もっと広範囲のゲームが射程に入るようになる。それだけでなく、人生についての思考も深まっていく──その手続きをこの本は記している。
https://togetter.com/li/1870072
https://twitter.com/tweeting_drtaka/status/637624632799989760
ウチでは、行っている研修の前後で知識や技能の水準を自己申告して頂くんですが、どの研修でも一定数「研修後にレベルが下がる方」がいて、毎回話題になります。今度から「ダニング=クルーガー効果ですね(ドヤァ」ってやってみる。
RT 能力の低い人ほど根拠のない自信に満ちあふれている
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/22/040500154/?ST=m_news&P=2
痛みについて考えたり、痛みの程度を誇張したり、痛みに対して無力感を抱いたりすると、痛みが悪化するという考え方は、何十年も前から存在している。こうした思考のレベルを評価する「疼痛破局的思考尺度(PCS)」が1995年に開発され、現在も広く使われている。しかし、学術界の外側にいる医師の大半は、破局的思考の影響についてよく知らないままだと専門家は言う。
⇒こういう研究をなんとか積み上げることで、よりあやしいものをあぶり出せるようになっていくかもしれない。
痛みを感じたときに極端な思考になることは、生物学的に理にかなった自然なプロセスだとケネディ・スペイエン氏は説明する。「私たちの脳は、自分を守るために、危険を察知し、より悪い事態を想定するようにできているのです」
しかし、身体的な負傷が治癒した後もずっと警報が鳴り続けてしまう場合もある。
医師が患者の状態を説明する際に、恐ろしげな響きの医学用語を使うせいで、破局化を悪化させてしまうことがあると氏は言う。例えば、関節炎を説明するときの「骨と骨がぶつかる」という表現や、「椎間板ヘルニア(必ずしも痛みを引き起こすわけではない)」といった病名などだ。
⇒強すぎるアラーム
⇒表現や病名
平均して、黒人は白人に比べて破局的思考になりやすいという。「黒人には、痛みを真剣に取り合ってもらえなかった長い歴史があります。そのため結果的に、話をきちんと聞いてもらえるように強く説明するようになったのかもしれません」
⇒日本社会における女性や発達障害の人なんかにもおきる可能性がある?
p1
有望な研究分野の一つが、痛みに対する「破局的思考」に関するものだ。つまり「もう良くならない」「最悪だ」「人生が台無しになる」といった考え方が、現実に果たす役割を探る研究だ。
これは、医師が身体的原因を特定できないときに、患者をあしらうように言うことのある「気のせいだ」というコメントとは全く異なるものだと、米ワイルコーネル医科大学の心理学者で、ウォルドリップ氏が参加した治験論文の著者の一人であるヨニ・アシャール氏は説明する。
だが文献によれば、認知行動療法は痛みにはそれほど有効でないようだと氏は言う。2019年10月に学術誌「PLOS ONE」に発表された、慢性筋骨格系疼痛に関する総説論文では、身体運動と併せて認知行動療法を使っても、追加的な効果はほとんどないとの結論が出されている。
別のアプローチとして、医師はもっと時間をかけて、患者と痛みの頻度や重症度について話すべきかもしれないと、シュナイダー氏は考えている。
(中略)
「子どもたちは、今までで一番ひどい痛みだとか、痛みがずっと続いている、と言うのです。しかし、私がもう少し質問をすると、バランスのとれた答えが返ってくるようになります」。子どもたちは、以前はもっと痛みがひどかったことや、過去の痛みがもう消えたことに気づくのだという。
p4
また、「感情認識・表現療法(EAET)」という治療法もある。これは、慢性的な痛みの原因とされる“未解決の感情”を明らかにすることを目的としたものだと、この治療法の研究の草分けであるラムリー氏は言う。幼少期の虐待や、完璧な子どもになれという重圧などのトラウマにより、怒りや恥などの感情が「脳の警報機構を駆動させ」、身体的な痛みを誘発するとラムリー氏は言う。
また、専門家たちは、この疼痛破局化尺度(PCS)が、長く苦しんでいる疼痛患者の評価だけでなく、疼痛が慢性化する危険性のある人々を事前に特定するために使われることを望んでいる。
「デューク大学では、手術前に患者を特定することができるようになりました」とグルール氏は言う。「予防的、積極的な対策に資源を投入すれば、そうしなかった場合と比べて、この人にとっての結果は大きく異なるものになるだろうということが、このスコアを見ればよくわかるのです」
⇒あっ、そうか!
https://anond.hatelabo.jp/20210802163055
現実の無差別殺人犯の98%が男性なのに、あえて無差別殺人犯として女性を描いたら、事実に逆らうミソジニストみたいだな。
でも現実に即して男性の無差別殺人犯にしたら、統計をもとに偏見を助長するステレオタイプだな。
もう悪者を漫画に登場させないようにしよう。
https://nordot.app/885680134922829824?c=491619008454902881
「違法薬物の自己使用」という行為自体には被害者はおらず、むしろ自分自身を傷つける点で「自傷行為」の一種だと説明する。
そして、違法薬物を自己使用した場合、ほかの自傷行為ではみられない非難が集中する要因について、次のように分析する。
「違法薬物の自己使用は『犯罪』として法律で禁止された行為です。たとえば、芸能人の不倫も民法で『不法行為』とされています。いずれもバッシングされる傾向にありますが、法律で禁止されていたり、してはいけないと規定されていたりするからこその言いやすさもあるのだと思います。その意味で、法的制裁と社会的制裁は連動しているようにもみえます」
https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2022/04/11/125710
議論が読者たちに見させる夢のリアリティを増すためには、「正しい」議論に並び立って反論を行なったりする「議論」の形式をとりながらもっともらしさをキープすることが重要なのであり、「わたしたちのやっていることは議論ではなく気休めなんですよ」と公言した時点で、気休めとしての効果が失われてしまう。
そのために、「優しい」議論を本気で真に受けてそれに一生を捧げてしまう人もいるし、才能や知能を持つ個人や税金とかの公的なリソースが「優しい」議論に吸収されてしまう。それらの個人やリソースが「正しい」議論のほうに投入されていたら、世の中はもっとよくなっていたかもしれない。
https://toyokeizai.net/articles/-/581168?page=2
ラファエルは、寅さんの性格が大好きで、「寅さんは、自分の思ったことをとても自由に言うので、多くの日本人の行動様式に反しているように見えます」との驚きを口にします。
そして、日本文化の大ファンであり、この人気キャラクターを発見してとても喜んでいる別のフランス人は、こう話します。「自由、個性、個人の幸福が強調されています。また、寅さんは流れに身を任せるといった才能を持っています。彼には計画がありません」。
彼はあの有名なスーツケースを持って、いつでも旅立つ準備ができています。
寅さんは心の拠り所である東京・柴又の家族のもとへしばしば戻りますが、彼は家族との時間を楽しむ達人でもあります。そして、1人でいること、独りでいることを心得ています。
時々おかしな失敗をしたり、変な行動をとったりしますが、どんな状況にも、どんな人にも、どんな場所にも順応することができます。しかし同時に、とても 「反体制的」です。彼は社会からはみ出した存在なのです。
寅さんは自由人であり、社会に対する反逆者のようなものです。一方、彼は「和」を愛し、調和が彼の基本であるようにも見えます。この矛盾によって、このキャラクターとこのシリーズはこれほど長く日本人に愛されたのではないでしょうか。
寅さんは思ったことをよく口にします。日本社会では、思ったことを口に出すことはあまり好まれません。「本音」と「建前」は、日本人の精神性の重要な部分です。自分が感じたこと、思ったことを素直に言ってはいけません。
また、寅さんはすぐに怒ります。怒ることで、何が問題なのかがはっきりとわかります。日本では、怒りを表に出すことは非常に稀で、あまりよく思われていません。
本音と建前
しかし、他の人のために時間を割くことができ、その人が誰であるかを知らなくても、自然に手助けをすることもできます(目の前にいる人の格に合わせて行動する日本社会とは大きく異なります)。
無計画の、特に偶然の出会いが好きなのです。この 「可用性」が、私は個人的にとても好きです。
彼は自分自身の人生を生きています。 しかし同時に、彼は他の人々の世界をよりよくします。自分の時間とエネルギーを使って、人々を幸せにするのが好きなのです。人間味あふれる 「下町」の男です。MCJPを訪れたフランス人が言うように、「この映画では、幸せと悲しみを同時に体験することができる」のです。
https://toyokeizai.net/articles/-/580505?page=6
ざっくり言って「正社員の解雇を含む広範な規制緩和にベーシックインカムと公的職業訓練」のようなシステムだ。
いささかギスギスした優勝劣敗を伴う競争社会になるが、経済は現在よりも格段に活性化するだろう。
なお、再分配政策と能力主義的資本主義の導入は、同時ないし前者が先に行われるべきだ。セーフティーネットなしに、いきなり競争だけを解禁するのは、手順が違う。
https://blog.tinect.jp/?p=76136
しかし世の中というのは不思議なもので「絶対に研究なんかやるもんか!」と思っていたはずの僕が、今では実験、パワポにエクセル、統計解析を日々の診療と並行してやる有様である。
一般的には研究というと青色発光ダイオードだとかiPS細胞のようなミラクルな業績を思い浮かべる人が多いだろうが、研究と言うのはそのようなものばかりではない。
例えばである。A, B, Cと来たら、次に続く文字は何かと言われれば、多くの人は「D」と答えるであろう。
しかし研究的な意味では、Cの次が本当にDなのかは予測でしかない。
「たぶんDだろうけど、それを確かなものにするためにはキチンとした実験や解析をする必要がある」という事だ。
世の中にはこんな感じの解決一歩手前の問題が結構ある。
そしてこうした解決一歩手前の問題は、それが解決される事でまた新しく増え続けるという性質を持っている。
先ほど例ならA, B, C, Dと来たら次は「たぶんEだろう」というような感じだ。
こういう解決一歩手前問題の多くはとても地味だ。
既知の事実なら、本を読むなり勉強するなりすればいくらでも学べるのだが、未知の事実は誰かが解明しない限りまったくわからない。
研究という視点を持つ前までは知識は本に書かれているもので、割と万能なものだと思っていた。
だが研究者の端くれにもなると知識というのは意外と穴だらけで、端々にホツレのようなものが意外と沢山あるという事に気がつくようになった。
このような視点を持てるようになった結果、僕は日々の仕事を一段下のレイヤーに置く事が可能になった。
それまでは知識に使われていたのが、知識を使うようになったとでもいえばいいだろうか。
知識に使われる立場から知識を使う立場になるというのは、まさにコペルニクス的転回で、不思議な事にそうなると今までインストールするだけで四苦八苦していたはずの知識取得が、とても楽になる。
知的裁量権の獲得とでもいえばいいだろうか。とにかく研究というモノの見方には特殊な有用性があるように思う。
この二点だけでも研究というメソッドを素人が学ぶのには十分すぎるほどに価値があるものなのだけど、個人的に研究で最も有用だと感じる機能は知の”排泄”としての機能である。
最近実に思うのだが、人間の持つ能力の中で最も過小評価されているのが排泄行為なのではないかと思う。
仮に排泄器官が全く働かないとしたら、どんな美食であれ全て身体には毒だ。
恐らくなのだけど、この知識の排泄のやり口として一般的によく用いられているのが学校や職場における井戸端会議だ。
あれは悶々としていた思考を言葉として口に出す事で形にして、自分の外に排泄しているのだ。だから喋り終わるとスッキリするのである。
その他にも、例えば創作もまた脳に溜まった知識を上手に排泄する為の一つの手段である。
僕は結構たくさんの本を読むのだけど、本を読み終わった後に記事として形にすると自分では思ってもいなかったような形で思考回路がスッキリまとまり次の本を頭を軽くして読むことができる。
知識はこのように形として外に排泄できると、有用なエッセンス部分だけを取り出して、無駄な部分を排泄する事が可能となる。
どのようにして排出するかは様々な業界にその業界にあった方法が転がっているはずだから、狂いから上手に距離を取っている人に真摯に教えを請うべきである。
自分は論文を執筆しはじめて、確かに知識がキチンと排泄されるようになったなと思うようになった。
⇒しかし、なんで人間、あるいは脳、は情報にも排泄が必要なのだろうか? 形がないものなんだからいいじゃないか……
⇒いや、そうか。反作用なのか。「ゼロ衝撃の体験はない」って感じかな。
⇒ちゃんと溶かすのには、胃も痛む、とか。
そして、逆に、こちらのアクションに対する、世界の側の排泄を処理することをしないといけない。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20220414/1649925057
プレイヤーとして語れそうにない言葉の多くは、それを語るとプレイヤーとしての私が大小のペナルティを被ると予測される言葉で、かつ、一部は功利主義や危害原理に抵触するから語るべきではなさそうな言葉でもある。もちろん、そういう言葉を語れそうにないとて、そこまで気落ちする必要もない。そういう言葉だったら慎んだほうがいいだろう。
他方、弱音や溜息のような言葉を書ききれない、吐き出せないと感じる場面も結構ある。
もし、ペナルティを被らなくても良い立場になれば、語れる言葉も増えるだろう。けれども、およそ、プレイヤーとして計算が必要な現代人は皆、その計算に対応した語れる言葉と語れそうにない言葉をもっているはずで、きっとまあ、今の私に似た思いを持っているのだろうと想像する。
だとしたら、社会のなかで語ってもペナルティにならない言葉を見つけること・作っていくことは重要だし、本来ならペナルティになりかねない言葉を技芸をとおしてペナルティになりにくいかたちで言葉に翻訳していくことも重要ってことになる。
社会運動な人なら、この壁を壊せないものか考えるのだろうし、社会学な人なら、この壁について精査するのだろう。で、現代社会の男性プレイヤーの一人としての私は、この壁に面従腹背の姿勢をとりながら、この壁を利用し、この壁に利用されながら、一番うまいことやっていく道を模索するのだろう。
功利主義、機会主義
人それぞれに思いと立場があり、思いは伝え合えず、立場は譲り合えず、そうやって大人同士が肩ひじ張りながら生きていくこの世界で、私たちは壁に抑圧されるといいながら壁を使って誰かを抑圧し、壁に塞がれると当時に壁に守ってもらいながら暮らしている。たとえその営為のひとつひとつが、抑圧を、壁を強化する結果になりかねないとしても。
ってことは、わかりあえないし、わかりあわないってことだよね?
社会に適応