2020/05/23-2020/05/27
村社会は解体されたのに、同調圧力はなくならないんだな。もちろん、文化や、個人の考え方が突然変わるものではないけど、相互作用もまたしているはずで、ここまで不変というのも不思議だね。 ⇒新しいことに、興味がないんだよなあ。
⇒学生時代くらいに、安全で暇なときはそうでもなかったけど
⇒生存をかけて仕事しつつ、新しいことにもエネルギー(と時間、労力)を投入ってできない。
ラガードな生きかたの、自分からの肯定と、社会からの承認がいる。
私が文章を本にまとめるとしたら、裏テーマの一つになるかもしれない。
動こうとしない人の存在価値
動こうとしない人の魅力
私が音楽理論とか「物語理論」とでもいうものが好きなのは、ポジティブでストレートな感情なままで、でも分析を深められるから、というのもあるのかもしれないな。
自分が「売れる」上で役に立つとか、そういうことだけでなく。
粗探しで都市伝説を作ったり、作者の生い立ちのなかからその作品のテーマの重さの源泉を探したり、その人の著作の一連の中からの今回の実験要素について語るのも、それはそれで悪くないけども。
自分の感じた素直な感動を肯定してスタート地点にした上で、それがどのように生み出されたのかを分析するほうが、知の使い方として自然なんじゃない?
そういえば昔、歌でも物語でも、読者に強い印象を残そうと思ったら、感情を「強い感情」にすればいいことは、割と簡単に気付く。
で、それにはやはり「怒り」や「悲しみ」が手っ取り早いのもなんとなくわかるんだけど、それってネガティブ感情でもあるじゃん。
ってことを考えたりした。
物語だとなくもないけど、音楽だと異様に難しいよね。バンザイとか? アイデアを捜せ
ネガティブな人生訓
口当たりのいい真理の明かりが照らす世界が、辺境に行くにつれて暗くなる。明度が49以下になるような空間領域を指して、「世の中ってのは暗いものだ」という言及をすることにはニーズがある。
でも、それは真実の全側面では当然ない。
届いている光はあるし、その結果明るさもゼロではない。
弱者でも多数派なら、効率の良いサポートツールを当てがうことで、社会の側から援助されるかもしれない。
強者の少数者には、使途が限定されない形で自由を与えれば、好きにするだろう。
問題は、「弱者でかつ少数者」の人達をどうするかで、それを社会の側から助けようとするのは、どうしたって労力の無駄につながるからだ。
個別ケアが必要で、かつ外部の人からしたら、ケアを提供しても、それを上回るリターンが生まれる見込みがほぼない。
仲間、成長、挑戦、表現、プレイ
間違いを責めない文化であってほしい
win-winは共通利益
僕の感覚だと、「三つくらい言えることあるな」くらいまで育つと、R-style記事候補生に認定されますね。文字数というよりは、概念数。もちろん、文字数も自然とセットにはなるのですが。 どっちの場合もあると思います。縦展開もあるでしょうし。前者は、まずハッシュタグを見つけないといけないので、実際はある程度収集→パターンを発見→次からはそれが意識的に行われる、みたいな工程をとりそうではありますが。
アート型の人は「私の直感によれば〜」
サイエンス型の人は「データの結果によれば〜」
クラフト型の人は「私の経験によれば〜」
あえて「遅い」インターネットに立ち戻る提案をしている。そこでは、安易な情報発信の快楽から一歩下がり、まず良質の読者として成長することが目標とされる。
現代を生きる私たちは、無防備にメディアを利用すると、そのメディアを提供するプラットフォーム企業の一番利益になる形でその利用を促されることになってしまう。たくさんの広告と、たくさんの誘惑と、たくさんの脅しと、とたくさんの方針。そうした誘因に取り囲まれた私たちは、いずれ主体性とは何なのかを見失ってしまうだろう。
⇒そーかー、まあそうなってしまうかー。
じゃあ「普段ものを考えて生きている」ってどういうことかというと、具体性と抽象性のあいだを常に行ったり来たりできているってことなんです。われわれ学者みたいな人間は、日常で見たことなどに対して、メタレベルの価値判断を常に下して、メタレベルとオブジェクトレベルを行ったり来たりしながら生活している。頭のなかで言語化が常時起こっているから、なにか出しなさいと言われたらそれをそのままワープロにインプットすればいいので、出るんですよね。 それをやっていない人は、まず抽象的なメタレベルの思考をやっていない。具体的な経験すら言語化されていない。でも具体的な経験自体はしているから、それを言語化に繋ぐのは第一歩だと思うし、抽象的なことまでは考えていないけれど感情とか価値については多少考えているから、それを言語化して具体レベルと繋ぐことからかな、と思います。 最初の石にはなにか必要以上に念がこもってしまっているというか、自分と分かちがたいものとして据えられてしまっている。周囲には初手の石が物体的に触発してできた連鎖があるんだけど、どうしても最初の石にばかり目が行ってしまう。この念を取り払った瞬間に石組が完成する。
千葉 自分から距離がとられた、他者的なものだけが残る。
千葉 それで思いましたが、Twitterにはなぜあんなにアイデアを書けるのか。ひとつは140字という字数制限が大きいと思っていましたが、オーディエンスがいることの効用についてはいまひとつ結論が出せていなかったんです。でも、取り返しのつかなさだなといま思いました。人に読まれてしまった、少なくとも何人かの人に読まれてしまったという 千葉 ぼくはツイ消し推奨の人なので、消したら忘れてもらえると思っているし、忘れてあげるのが倫理だと思ってます。だからスクショが大嫌いなんですよ。あれほど野暮なものはない。ツイートは消される可能性のあるものなんだから、エビデンスを残すなんて野暮。