2020/05/16-2020/05/22
おもしろさの中心は、無意識の連合と脳がカテゴリ分けしてしまうことの功罪のところだろうか。(カテゴリ分けの功、については、私のかーそる原稿と認識が近しくて親近感を感じてしまった。) 無意識の連合では、黒人ですら、どこか「白人のほうを好もしい」「黒人と暴力性」みたいな連想を無意識に感じやすい、というような話題で、ここで思うのは、やっぱりある種のポリティカルコレクトネスを物語作品に適応させてでも、無意識を薄める必要があるのかもしれない、ってことを考えさせるよね。 目に見える侮蔑的行為が社会からなくなっても、「白人が、より仲間意識を感じやすい白人には、より積極的な親切や援助をする」ということから、絶えず取り残されるということだけでも
や、最小条件集団とか他者からの恨みほど消えにくいとか、名前がついて初めて特色を認識でき始めるとかも。 「分からない」と答えた者はいなかった
老人はヨボヨボだ……、ってことを考えていると、実際に歳をとってから病気にかかりやすくなる。
盲視
偽真実性
逆向干渉
誤情報効果
推定無罪
係留
印象操作→ひっかけの質問
心的連合
解離≠乖離
(認知的)不協和
読了できた(まだ付録が1つと謝辞や訳者後書きは残ってるけど)。コロナ不安な症状で読書がずっと手につかない状態だったので、ちゃんと「読むことができた」ってのがまず嬉しい。
こえー。確かに、媒体を漫画に移すならここまでやるのはある意味正しいんだろうけど、元の本のテイストはどのくらいだったのだろうか。
コロナ禍がピークのころ、自分はこんな顔になっていなかっただろうか、と省みたい。日本に住んでると、「権力者やそのそばにいる人間が、小狡い制度を作って民衆を苦しめようとしている」という側面からしか「制度」や「規則」というものをつい見なくなる。
ただ、明らかに民衆の無責任さや無思慮、暴動や非理性的な判断によって悲劇が生まれる側面もある。そこの恐ろしさがたっぷり描かれている本だ。
未読だけど『デビルマン』とかに近しいテーマを、ある種『進撃の巨人』くらいの残虐描写でやっちゃってる部分があり、かなり恐ろしいし、胸糞悪くもなります。 怪作の漫画化だと思う。この感じ、文字で書いてもなかなか こうはならなかっただろうから。
政治に対する要求が過大って、住民の側がすごくブラック顧客というか、モンスター○○とかクレーマーみたいになってるよなあ。
アメリカでは共和党支持者と民主党支持者の間に、仲間意識の壁があるけど、日本だと庶民と政治家の間にそれがある。のかも。
満員電車に詰め込まれると、ウイルスをうつされるんじゃないかと不安になるよね。そのときに「政府がこんなじゃ、日本終わったな」って責めることのできる対象がいてくれると怒りがまぎれるよね。でも、「電車は3密では(なく、そこを規制してもRtは大きく下がら)ない」とか「休業した事業の損失を補填している国家はどこにもない」というような話を聞いて、『政策は現状このままで仕方ない』ってなると、怒りの持っていきばがなくなるんだよね。その「怒りをどこかに持っていきたい」という願望の醜さに気が付くべきなんだよね。
……とはいえ。
こういうときに、社会の少数派でしかも弱者の人が、社会全体にかかるプレッシャー(しかも下行圧力)をくらったら、「社会の不備のせいで、自分だけが殺される」みたいな気分にはなるだろうし、その見解とその生存欲求と緊急性は正当だ。
でもそこで、「無策の政府は人殺しだ!」と口にしてしまうのは違う。
「動かない俺TUEE」みたいな話があったら読みたいのかなあ、自分。
ドクター・スース(Dr.Seuss、アメリカ合衆国の絵本作家)
The Sneetches and Other Stories
星つき?星なし?さあ、どっち?
見かけは同じSneetchだけど、たったひとつ違う点が。おなかの星印です。自らを誇る星つきは、遊びもバーベキューもピクニックも決して星なしを誘いません。うらやむ星なしの前に意気揚々と現れたのがシルベスターです。自分の機械を使えば星つきになれるとふれこみます。お代は3ドル。次々に星つきが誕生していきます。これに眉をひそめる元祖星つきたち。シルベスターは「10ドルで星なしにできますよ」とにんまり。両者の星合戦はどんどんヒートアップしていき、とうとう...。
今回は目に見える脅威と、目に見えず、取り除けない脅威を差別化するために単純化していますが、この分類下では fear が直接的で解消可能なのに対して、anxiety は解消不能だという違いがあります。
もちろん、恐れと不安とは明確に区別できるものではなく、 「この本を読まなければ」と考えないようにする: ひょっとすると、その本はまさにいまあなたの不安を直撃にするものであって、心理的に無理なものなのかもしれません。「読むべきだ」と自らに縛りをいれるのではなく、迂回路を作ってあとから再挑戦するのでもいいでしょう
読めるものを次から次へと探す: 見えない不安に邪魔されてどうしてもすぐに本を置いてしまうようなら、それを逆手にとって次から次へと別の本を読み始めてみて、たまたま続くものを探すという手も使えます。
そうだ、私にとって「ご無沙汰になって久しいインターネット」とは、世間とは異なった投稿や表現が、世間とは異なった価値基準や評価軸にもとづいて見定められ、自分も周りもその異なった価値基準や評価軸の一部であると感じている、そういうインターネットだったのだと思う。世間とギャップがあり、世間と異なった投稿や表現があり、世間と異なった受け止められ方をしていて、世間と異なった時間が流れている──
⇒郷愁……、は私にもあるかもだけど、それでもツイッターの頃かな。
パイオニア樹種とは、まだ植物が地面を覆っていない空き地や荒地にいち早く適応する、そういう樹木のことだという。火事の跡地などをいち早く緑で覆うのはこのタイプの植物だ。しかし、土地が緑でいっぱいになり、もっと多様な植物が入ってくるようになると、パイオニア樹種はほかの植物との競争力を失い、いなくなっていく
私たちはインターネットという更地に草木が生え始めた頃にやってきて、成熟しきっていない土地を愛し、成熟していない土地に我が物顔で繁栄していた。成熟した土地で栄えている者たちが侵入してくる気になるまでの、つかの間の繁栄。
⇒冷蔵庫に入るツイートとかは私にとっても耳にして不快だったけど、裏話だの汚い本音だのが流れていても許容されるようなところは、あってくれたほうが嬉しかっただろうなあ。
⇒なお、いっきは別名の黒歴史として、“ホームページ”を(ベッコーアメならぬ、アサヒに)持っていたことがあるし、fc2でブログしていた時期もあるので、めちゃくちゃネットに触れたのが新しいわけではない。
それと比べても、初期ツイッターのワクワク感は格別だったということ。
でもって、「その頃のツイッター」というのは、「現実との隔絶感が幸せ」というものではなく、「ネットが現実に一歩踏み出して、ネットが世界を変えるツールにすら、これからはなりうる」という予感でもって広がっていた部分はあったと思う。
オンとオフとか、仕事とプライベートとか、そういうのを分けるようにしていたら、緊張状態とリラックスが分離してしまうと思います。
両者が分離するということは、とくに仕事は、いつも緊張状態だけになってしまいかねません。そうしたら仕事をするのなんかイヤになってしまいそうです。
先送りをすれば、いまは疲れずにすむ。
しかしそれは本当でしょうか?
実行すればいまよりずっと疲れる。
それは本当でしょうか?
実行してしまって、後悔するのではないか?
……彼女達は、古典的な神経症には該当しない。だが、「少女としての正解」「自立した都会の女性」といった「かくあるべし」を強固に内面化し、それに束縛されているさまは、東京というフリーダムな街ならではの神経症的葛藤のようにみえて仕方ない。さしずめ、彼女達は“少女神経症”といったところか。 昔の人は、「家父長的抑圧がなくなれば子ども達は自由になれる」と考えたらしく、実際、家父長的抑圧が緩和されて古典的な神経症が減ったのは事実である。だが、今にしてみれば呑気な考え方だったと言わざるを得ない。父がいなくなっても、よしんば母がいなくなってさえ、なにかが強固に内面化されれば人間はそれに束縛されるし、状況や人生に合わせて人生のギアチェンジをし損ねれば、神経症的葛藤は顕れるのである。
私は、『東京タラレバ娘』に「少女」や「自立した都会の女性」にまつわる自縄自縛をみずにいられない。本作品が示唆しているように、たとえ自由な街に住んでいても、価値観や人生観の融通が利かないのなら、その人は不自由な人である。