日本のインターネット創世記
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平成の幕開け 1989年 は、このインターネットのスタート地点でもありました インターネットの歴史はそのまま、平成ネット史でもあったとも言えます Unix の話
「はじめに Unix ありき」
ヨハネによる福音書より
1970年 昭和45年
1月1日
1974年 昭和49年
7月
The UNIX Time-Sharing System
Communications of the ACM, 17, No. 7 (July 1974)
1975年 昭和50年
1976年 昭和51年
石田は、ベル研究所で誕生して間もない Unix に触れその素晴らしさに惚れ込み、帰国の際に Unix の入ったテープを持ち帰った しかし東大ではそのテープを読むことができず、筑波大学の板野肯三のところへ行き、そこでPDP-11のディスクにインストールしたものが日本で最初に動いた Unix だった 1977年 昭和52年
9月
石田晴久 情報処理学会 学会誌 情報処理にて Unix を紹介する 情報処理18巻9号 1977-09-15
1980年 昭和55年
メインフレームが主体だった計算センターに Unix を導入したことの意義は大きく、これが発端になって、その後東京大学の研究室には VAX-11 が導入されるようになる。その結果、主要大学の理数系学科や、当時設立されつつあった情報系学科に VAX-11 が導入されることになった 技術の選択(ハードウェア、オペレーティングシステム)、またその普及という意味でターニングポイントとなった
1981年 昭和56年 ~ 1982年 昭和57年
「Unix の受容」
1983年 昭和58年
6月
1983年6月 第1回 jus UNIXシンポジウム開催 1980年代に入ると DEC 以外のコンピューターメーカーからもワークステーションが発売されるようになった(中央電子のCEC8000、東芝のTOSBAC UX-300など) 1985年 昭和60年
12月
1988年 昭和63年
8月
UUCP の話
「三身の綱打ち掛けて引き縫い付けたネットワークは、北は北海道、南は九州まで」
国引き神話より
JUNET は慶應義塾大学、東京工業大学、東京大学を接続したところから始まった 1974年 昭和49年
電電公社の X.25 技術開発と同時に、主要大学のネットワーク構築が始まった その目的はそれぞれのメインフレームのリソース共有のためだった
人々の間のコミュニケーションではなく、マシンの効率的な運用のためのネットワーク
ちなみに JUNET という名前も石田先生が名付けの親である。大学間ネットワークで使おうと JUNET( Japan University Network) という名前を温めておられたそうであるが、大型計算機センター同士を結ぶネットワークでは、電子メールを使うことが出来ず電子メールが使えるようなネットワークが登場するまでしまっておこうと思われたのだそうである。 1975年 昭和50年
1976年 昭和51年
1977年 昭和52年
9月
石田晴久 情報処理学会 学会誌 情報処理にて Unix を紹介する 情報処理18巻9号 1977-09-15
1978年 昭和53年
その後、石田らとともに Unix のソースコードを読む勉強会を行った 1979年 昭和54年
「はじめにバケツリレーありき」
1978年、ベル研究所 にて UUCP (Unix-to-Unix Copy) が実装された 基本的には2台のマシンをシリアルライン(RS-232C)で一対一に接続するものだった
uucp(1): uucp [ options ] source-file destination-file
source-file destination-file はローカルな path 名か system!path という形式で指定された
system1, system2, ...snip... を経由して systemN にあるファイルに対しアクセスする場合には system1!system2!...snip...!system(N-1)!systemN!path という形式で指定する
バケツリレー
uucico(8) 、スプールディレクトリを介するサーバー=クライアントの非同期な実装だった
それはモデムを使用したダイヤルアップ接続でバッチ的に処理する必要があったため
こちらのデータをあちらに移動するだけのコマンドだったが、これが世界を変えることになる
1980年 昭和55年
1980年、Steve Daniel と Tom Truscott によってコンパイルされたプログラムとして公式にリリースされた
Usenetは、最初の1年でオクラホマ大学のReed College、およびベル研究所を含む50のメンバーサイトを獲得し、ネットワークを使用する人々の数は劇的に増加した Usenet の拡大
1983年までに、500を超えるホスト、大学やベル研究所のサイトだけでなく、ますます多くのUnix関連企業からも何千人もの人々が参加した
1984年には、ホスト数は940にほぼ倍増しました。
Usenet はインターネットにおける最初期のソーシャルネットワークになった
1984年 昭和59年
3月
8月
1984年8月に村井氏が慶応を離れ東京工業大学へ移ります。しかし、村井氏との関係は切れることなく、慶応に残された村井氏のファイルを持って行ったり、村井氏が新しく導入したソフトウェアを受け取りに行ったりと、東工大と慶応の往復が繰り返されるようになりました。この移動がだんだん大変になってくるのですが、この年は翌年3月に通信の自由化を控え、雑誌にはモデムフォンの商品比較などが掲載されていました。これを見て、「こいつを使って計算機同士を接続したら面白いかな?」という話になったわけです。20万円弱で300bpsという今となっては信じられない価格と通信速度ですが、予算をひねり出し慶応と東工大を接続しました。これが1984年9月のことでした
9月
10月
この接続についていろいろなところで話していたところ、東京大学(当時)の石田晴久先生が「村井君。3つ以上つながってはじめてネットワークと言うのだよ」と言われ、1984年10月に東大を接続しました。 この挑戦を聞きつけて,強く関心を持った研究者がいた。東大の大型計算機センターにいた石田晴久である。当時石田は,国立大学の大型コンピュータを結ぶ実験に取り組んでいたが,今ひとつ乗り気になれないでいた。「大学間ネットの目的はリソースを共有すること。だけど僕は電子メールをやりたかった」 僕は長い間「石田先生は自分も参加したいのだけど,つないでよとは言いにくいものだから, そんな風に言ったんだ」と勝手に思っていたのだが,実はこの裏には深い意味があったことをずいぶん後になって知った.実は, この時期村井はJUNETにいろんな組織を参加させようと奔走していたのであるが「東京大学がやっていないものは研究じゃないでしょ·そんな実験には参加できないよ」と言われ困っていたのだそうである. そんな話を聞きつけた石田先生が,「じゃあ村井君,東大をつなごう」とおっしゃられたのである 石田と村井は郵政省に対し,“大学がUUCPネットワークを運用するのは通信事業者にあたるかどうか”を聞いてみた。ところが,郵政省側の態度もはっきりしない。前例がない上,さまざまな解釈が成り立つとして,首を傾げるばかりだったという。それでもなんとか,“研究用ならOK”という非公式見解を引き出せた。 北海道大学には慶應の先輩でのちに塾長になった安西祐一郎さんがいて、九州大学には荒木啓二郎さんがいて、「北から南まで、つなぐぞ!」と言って協力してもらった。ところが、電話回線を使ったダイヤルアップ方式だから、かなり長距離の電話代がかかる。東工大と慶應、東大は、同一または隣接区域内は大学が負担してくれる仕組みがあったから気にしないで済むけれど、長距離だとそうはいかない。だから、あまり大声では言えない方法を使って NTTに嫌われていたかもしれないけど(笑)、当時のNTTのなかに数人は仲間がいたんですよ。 それで、NTTの通研[編註:当時の電気通信研究所の通称。現在はNTT武蔵野研究開発センタ]に頼んで、まず三鷹まで引くわけ。そこで中継して、通研から北大や九大にかけると、通研っていうのは研究機関だから「実験」という名目で電話代のチャージを気にしなくて済んだ
1985年 昭和60年
1月
KDD研究所は1985年1月から1995年3月までの10年間、UNIXに標準実装されていたUUCPプロトコルを用いて、海外のインターネットとのメールやNetNewsを中継しました。この間の1987年5月から1994年12月まで、通信実費を回収するInetClub(正式名は国際科学技術通信網利用クラブ)を構成して、約350機関にサービスを提供、これらのユーザーを商用ISPへ引き継ぎました。しかし、民間企業であることから、社外にはボランティア活動と位置づけながら、社内では事業への貢献可能性を述べるという、二面性を維持し続けました。 ITUでの国際標準化に参加した際、OSI標準化に参加している人たちが必ずしもコンピュータに詳しくないことを知りました。さらに、UNIX 4.2BSDにインターネットプロトコルが標準実装されるとの情報も得て、1983年から国際UNIX通信の研究を開始しました UUCPプロトコルの解析等を進めるうちに、会社の特色を活かすには、直接、海外と接続する方が良いと考え、浅見徹氏が中心となり、1985年1月以降、米国、欧州、韓国等に接続を拡大しました。多くの場合は電話回線とモデムを使いましたが、一部にはX.25プロトコルを用いました。当時のメール通数は少なく、NetNewsが主なトラヒックでした。 次に国際回線。これが大変だった。当時のKDD[編註:国際電信電話。現在のKDDI]の研究所に、いまは東京大学名誉教授の浅見徹さんと、のちにJPNIC(日本ネットワークインフォメーションセンター)理事になった小西和憲さんのふたりがいて、一計を案じてくれた。それは、KDDの国際回線とJUNETを接続して、海外のインターネット網からメールやNetNews[編註:電子掲示板システムの一種]を引っ張るという実験で。最初は実験だから通信料金が発生しないように配慮してくれていたけれど、社内で問題になった。それで、実費を回収する「InetClub(国際科学技術通信網利用クラブ)」という会員制クラブをつくってくれて、事なきを得ました。 4月
1985年4月の電気通信事業法施行により通信事業が民間企業に開放された 5月
このとき初めて世界と接続したと言える
1985年5月にJUNETを推進していた村井純さんから相互接続を依頼され、通信料金はそれほど増えないということで、了承しました。 12月
1988年
8月
JUNET という存在は少しずつ変容していく
1994年
10月
TCP/IP の話
「我々のネットワークを繋げよう。イーサネットが地を覆い尽くすほどの。あらゆる地に散って消え去ることのないように」
創世記 バベルの塔の物語より
「いかにして Unix は ARPAnet に寄生したのか」
TCP/IP の始まりは Unix 文化と ARPA 文化の融合の始まりでもある
PDP-10の死とUnixの受容
1981年 昭和56年
1984年 昭和59年
WIDE
WIDEには二つの側面がある
IPネットワーク
開発者集団
The Internet の話
「あなたはつえを上げ手を海の上にさし伸べてそれを分け、インターネットを海の中の深い底を行かせなさい」
出エジプト記 第14章より
イーサネットによるローカルネットワークが広がって
日本のインターネットはハワイ大学への接続から始まる
電信の歴史
海底ケーブルの歴史
イーサネットの歴史
ALOHAnet
1989年 平成元年
TPC-3
書き直す
Linux の話
hogehoge
日本のインターネット創世記、Linux の話までは書きたい
それは win95 登場の手前まで
インターネットの広がり(商用ISP)
Linux は Unix 文化の周縁から起こった(リーナスはフィンランドにいた)
ほぼ同時期に起きていた BSD の PC/AT 対応を知らなかった(386BSD)
最初のリリースは NetNews への投稿だった 1991年 平成3年
日本で一番最初に Linux についてのトピックスが上がったのはニフティサーブだった 1992年 平成4年
伽藍とバザール
日本では歴史的な流れから大学や研究所といった中央にはUnixやBSDがいた。Linuxは所属としてはそういう文化の中にいたと思われる人たちの、個人的な活動だった
オープンソース