石田晴久
https://gyazo.com/2f3fffd5f3b835c4f55d4298c96b189e
石田晴久
1975年-1976年 AT&T Bell Labs 客員研究員
日本にUNIXが初めて入ってきたのは, 1976年に石田先生がベル研究所からお戻りになられたときのことだったそうである.先生は1975年に研究員としてベル研究所に行かれ, そこでUNIXに触れられ, そのすばらしさに惚れ込まれたとお聞きしている.そして、それを日本に帰っても使いたいと思われ、帰国の際にUNIXの入ったテープを持ち帰られたということである. しかし,当時東大ではそのテープを読むことができず、筑波大学の板野先生のところへ行き、そこでPDP-11のディスクにインストールしたものが日本で最初に動いたUNIXだったそうである.
実は, この東大でテーブを読むことができず筑波大学でインストールをしたことが, その後の日本のUNIXコミュニティを形成する上で重要だったということは今回の村井から聞き出した重要な話題の1つである.と同時に、石田先生の人柄をあらわした一件であったとも考えている.
石田先生は,東大だけでUNIXを使うことはせず、筑波大学の板野先生の周辺、
そしてちょうどその頃筑波大学から慶應義塾大学に移られる斎藤信男先生とその関係で声をかけられた村井らをまきこみ,
UNIXのソースコードを読む勉強会を開催されたのだそうである.
https://gyazo.com/df58a5a5d530d47a053ab564ae2472d0
やがてある日村井が石田先生が,"2っがつながっただけではネットワークとは言わないのだよ. 3つ以上にならないとだめだよ』っていうから東大をつなぐことにした」と言うので,東大のVAXも接続してしまう. 1984年10月のことであった. これがJUNETのはじまりである.僕は長い間「石田先生は自分も参加したいのだけど,つないでよとは言いにくいものだから, そんな風に言ったんだ」と勝手に思っていたのだが,実はこの裏には深い意味があったことをずいぶん後になって知った.実は, この時期村井はJUNETにいろんな組織を参加させようと奔走していたのであるが「東京大学がやっていないものは研究じゃないでしょ·そんな実験には参加できないよ」と言われ困っていたのだそうである. そんな話を聞きつけた石田先生が,「じゃあ村井君,東大をつなごう」とおっしゃられたのである
https://gyazo.com/50d3a08a26fa6d30549e11b851ee8bda
そして、3月に急逝した石田晴久氏のことに言及。砂原氏は比較的最近になって、日本にUNIXが入って来たころの話を知ったという。それは、石田氏の葬儀の後に村井純氏から聞いたもので、日本で最初に稼働したUNIX 6th Edition(V6)は、1970年代半ばにベル研究所に研修に行っていた石田氏が持ち帰ったものだったとしている。
「石田先生が偉かったのは、ソースコードが読めるから中身がどうなっているか見ようと呼び掛け、勉強会を始めたこと。こうした文化を創ったのは初めてではないか。つまり、みなさんとオープンソースだとか、情報を共有する礎を築いたのは石田先生だった。石田先生がやってきたことがあるから、我々は今ここにあるんだということを共有したい。」
掲載誌名 大阪大学大型計算機センターニュース
巻 17
開始ページ 1
終了ページ 14
刊行年月 1975-05
雑誌名 情報処理
巻 18
号 9
発行年 1977-09-15
https://gyazo.com/cccc2d6afa570fbdb4a863b80961856f
終りにUNIXに接する機会を与えて頂いたベル研究所の藤村靖氏や Peter Denes氏を始めとする関係者の方々に謝意を表したい. 雑誌名 情報処理
巻 19
号 1
発行年 1978-01-15
雑誌名 情報処理学会研究報告マルチメディア通信と分散処理(DPS)
巻 1979
号 10(1979-DPS-001)
ページ 1 - 10
発行年 1979-06-27
雑誌名 情報処理学会研究報告計算機アーキテクチャ(ARC)
巻 1981
号 1(1981-ARC-041)
ページ 1 - 8
発行年 1981-04-15
https://gyazo.com/04b572441c0f168acfce4e1e3ab05268
1980 VAX-11/780 を導入 BSD UNIX
1983 日本UNIXユーザー会(jus)設立