叱る依存
叱るのは叱ることで叱る人に報酬があるから(処罰感情が満足される)。その報酬は強いのでだんだん叱るのがやめられなくなる。叱るのは相手のためだと言うが、叱るのは効果がないことがわかっている。とはいえ、叱る人間は自分の報酬のために叱っているのに、相手のためだといって、自己肯定ばかりしている、とんでもないクズだ!叱るのなんか早くやめろ!と言っても「叱る人を叱ることにしかならない。そのためハームリダクションの観点からの支援が必要、というのが村中直人の主張。 村中はそのように明言はしていないが、ある種の反差別なども、ただのしばきしたい人たちの集まりみたいになってるのは明らか。いわゆる正義の暴走も同じような話だろうなと。ただ村中はそれを心理的な依存状態だとした上で、ハームリダクションが大事というプランを提示しており、その点に内実がある。 これらのことから本書では、「叱る」 という言葉を次のように定義したいと思います。 言葉を用いてネガティブな感情体験 (恐怖、不安、 苦痛、 悲しみなど)を与えることで、 相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為。 〈叱る依存〉がやめられない 村中直人 27ページ しかしながら、その後の研究では、処罰行為は規範を維持するためだけのものではなく、 相手にネガティブな体験を与えることそのものが目的となっているような悪意ある処罰(Spiteful Punishment)もまた、報酬系回路を活性化させると報告されています 13 。 つまり単に相手を苦しませるだけの行為でも、人は気持ちよくなったり、 充足感を得たりすることがあるのです。 また、怒りの感情が背景にあって、その行為がなんらかの復讐の機会となっている場合に、 報酬系回路の活動がより高まるという報告もされています 14 。 みなさんも、 意地悪な相手やずるをした人に、仕返しをすることで気持ちがすっと晴れた経験があるかと思います。 〈叱る依存〉がやめられない 村中直人 41ページ 権力格差が、権力者のニーズを満たすための〈叱る依存〉 が発生しやすい環境を生み出し、 自分の思う「正義」の執行のために、 相手を思い通りにコントロールすることがやめられなくなる。 この構造は決して特別なものではなく、ありふれた、 どこにでも発生しうるものです。〈叱る依存〉がやめられない 村中直人79ページ 反差別界隈や人権運動内部でのハラスメントや差別が大量に発生するのも、正義という物差しでもって他者の行動をコントロールしたい人、されたい人がたくさん発生するから。 「私は努力している。 悪いのはこの人だ」 叱ることがやめられなくなっている人は、無意識のうちにこのような発想になっていることが多いのです。 もちろん、いつまでたっても求める結果が得られない状況に、「自分が間違っているのだろうか?」 「こんなことを続けても、何も解決しないのではないか」と疑問に思ったり、強烈な罵倒や罰で相手が苦しんでいる姿を見て、 強い罪悪感を感じたりするかもしれません。 そんなとき、 たとえ「もう叱るのはやめよう」 「もう少し別のやり方はないのだろうか」などと考えたとしても、〈叱る依存〉 におちいっている人は、叱ることを簡単にはやめられません。 特に、自分が「叱ることをやめられなくなっている」 という認識がない中で行う、叱らないための努力は、 そもそも現状に対する認識が間違っているため、 ほとんどの場合で失敗します。 問題は解決しないし、 叱ることもやめられない。 行き詰まりの状況になってしまうのです。 〈叱る依存〉がやめられない 村中直人83ページ みなさんに知ってもらいたい、処罰欲求が暴走するお決まりのパターンがあります。 それは、 本来個人的な欲求である処罰感情が、 「相手のため」 「社会のため」にすり替わってしまう場合です。 もう少しつっこんだ表現をすると、 (私が思う)正義の遂行のために、 この人に罰を与えなくてはいけない」 と感じる場合、 処罰感情の充足に歯止めがかかりにくくなるのです。 しかしながら処罰感情の充足が 「相手のため」 「社会のため」 だと感じることは、素朴理論の一種で誤りです。 私たちは自分が処罰欲求を感じていると自覚し、 さらにそれが正当化された自分自身の欲求の暴走でないかを、 常に自問自答する必要があるのです。〈叱る依存〉がやめられない 村中直人134ページ 単に「自分が気に入らない」「なんとなくいけすかない」「理由は特にないが直感的に苦手」で切り捨てるほうが嫌っていい理由を考えるよりも、暴力性を抑えられる可能性がある。 「叱らずにいられない人」 が 「叱らなくてもよくなる」 ために必要なのは、非難の言葉ではなく、支援や教育です。 もしかしたら本人すら支援の必要性に気づいていないかもしれません。 自分には助けなど必要ないと強く主張される場合もあるでしょう。 そのため、〈叱る依存〉 におちいってしまった人を支援することは簡単ではありません。 しかしながら、 さまざまな社会課題ともつながる、 とても重要なテーマです。 「叱らずにいられない人」をただ否定し責めるだけでは、その人は 「叱る」 をずっと手放せません。適切な支援の手を社会が差し伸べる必要があるはずです。〈叱る依存〉がやめられない 村中直人135ページ なぜこんなにも処罰欲求が暴走してしまうのでしょうか? その理由の一つとして、 人のコミュニティが大きくなりすぎたことが関係していると考えられます。 処罰欲求が人に備わった生来的な本能だとするならば、それによって守ろうとしていたのは相互に見渡せる範囲の小さなコミュニティであったはずです。 もともと人は目や声が直接届く狭い範囲でしか、コミュニケーションする術を持っていませんでした。そのため、もしも誰かの処罰感情が暴走したとしても、そこは必ず周囲の目や手や声があり、お互いを抑制しあうことができたはずです。 そう考えると本来、処罰感情の充足は 「被害者」にだけ許され、 周囲の「傍観者」については抑制されるコミュニティの機能があったのかもしれません。 そしてもし仮にそのコミュニティ全体が「被害者」 となるようなことが起きて、 全員からバッシングを受けたとしても、数千人、 数万人という人数にはなりえません。 同時にコミュニケーションを取ることができるコミュニティの規模が、 そもそもそこまでの人数ではないからです。 〈叱る依存〉がやめられない 村中直人122ページ 「普通はできること」 「常識で考えなさい」 「こうするのが当たり前」 ......こういった発想が出てくると、それが「叱る人=権力者」 が望む未来であるということが覆い隠されてしまいます。 本来、叱る人の願望でしかないことが、 「叱られる人」の問題にすり替えられるのです。 そうなると、 「叱る」に歯止めが利きにくくなって、 〈叱る依存〉 を助長してしまうでしょう。〈叱る依存〉がやめられない 村中直人141ページ すまん。君は怒られなくなって、ストレスなく働いてるね。本当にすまん。/ 怒っても無駄という諦めの境地に至っただけなんだ。 / パワハラと言われる危険を恐れてまで君を叱る価値もないと評価したんだ。/ 叱っても成長しないという事実をやっと僕は受け入れることができたんだ。/ いろいろすまないね。コロン小林@外科医: / X SNSで見つけた投稿。この人は「叱っても効果がないことを理解したから」と言っているが、なぜ叱っても効果がないと認識したかというと叱るのは効果がないのではなく、「お前を」叱っても意味がないと気づいたからと言っていて、叱ること自体は効果があると誤認してるし、自分の処罰感情にも気づいてない。結局「お前は叱る価値すらない人間だ」という形でさらに相手を叱っており、叱る依存の極致みたいになってる。