今日のスピノザ3
2022.4.24
第九回 激動のオランダと『エチカ』の行方 ースピノザの生涯5
この回の前半のエピソードにライプニッツが登場します。この人たち同じ時代に一緒に生きていて親交があるんだ!というのを読むのは楽しいですよね。(むかしある伝記を読んでいたらわたしの師匠の師匠の師匠が出てきて、世界って繋がっていて、そしてこの人は確かに存在してたんだなと実感したのを思い出しました) さて、『神学・政治論』で哲学する自由、思想や言論、表現の自由を訴えたスピノザですが、世の中は残念ながらそれと逆行します。 海上交易の覇権をめぐって第三次英蘭戦争がおこり、外敵という存在がオランダをぐっと軍国化に傾け、総統派が勢いを増しました。そんな中、議会派の大物ヤン・デ・ウィットが暴徒化した民衆に取り囲まれ、兄とともになぶり殺しにされます。
普段平静なスピノザもこの事件を聞いてはいてもたってもいられなくなり、夜にこっそり犯行現場に行って「ULTIMI BARBARORUM(お前たちは最低の野蛮人だ)」と書いたビラを貼ろうと考えました。
もしそんなことをして見つかったら殺されてしまいます。しかしハーグの下宿先の大家さんがとてもいいひとで、スピノザの愚行を阻止すべく家から出ないように閉じ込めてしまったそうです。
というエピソードを事件から4年がたった1676年にスピノザは彼の下宿を訪れたある人物に一部始終を語りました。
その相手というのがライプニッツで、彼がそのとき聞いたことを書きとめていたので今日まで伝わっています。
デ・ウィットの事件後、宗教や思想統制に向かう中央集権的な支配体制のオランダにおいて『神学・政治論』は発禁処分がくだされます。匿名での出版ですがスピノザの作であることは見当がついていて、スピノザがまた新しく好ましくない内容の著作を出版しないかスピノザを監視するよう命じる文書が残されています。
ところでエチカは1662年ごろには他人に読ませることができるくらいにはまとまった文章ができあがっていて、親しい友の間で読まれていたようです。(書簡8,9などに言及されている)
しかし1665年以降まる10年ほど手紙などの記述がぷっつり途絶えます。この間は『神学・政治論』を書いていたようです。
そして1675年の夏にスピノザは出版する話を進めようとアムステルダムに赴きますが、「神が存在しないことを立証しようとした、神についての著作をわたし(スピノザ)が印刷しようとしている」という噂が立っていてとてもそんな雰囲気ではなかったようで、結局生前に出版することはできませんでした。
出版はできなかったものの、一部の信頼のおける人たちの間だけで手書きの写本が読まれていました。
その一つが2011年にも見つかっています。
これはスピノザの文通相手のチルンハウスが持っていたものを、スピノザの著作だと気づいたニールス・ステンセンが取り上げて異端審問会に提出したものです。ステンセン自身の著作も邦訳がいくつかあるようでこの人のエピソードも面白かったです。 2022.4.26
第十回 神はわたしの何なのか、わたしは神の何なのか ースピノザの思想5
デカルトは「我思う、ゆえに我あり Cogito, ergo sum」でいうところの間違いなく確実なものとしての「考えるわたし」と外界とのつながりを、完全なものである神によって担保しようとします。 デカルトが語る神はその気になれば1+1が2にならない世界もつくることのできる神であり(永遠真理創造説)、世界は神の一瞬一瞬の創造の連続によって存在し続けています。(連続創造説) このようにデカルトの世界観は神の意志に依存したものです。
これに対してスピノザはデカルトのように「考えるわたし」と世界を切り離したり、世界の外的な原因として神を持ち出したりはしません。スピノザは「神はあらゆるものごとに内在する原因であり、それらを超越する原因ではない」(第一部定理18)といい、神と世界は「実体とその様態」の関係にあるといいます。どういうことでしょう。
「スピノザのこの考え方を徹底させていくと、世界を構成しているさまざまな個別的存在者は、生物も無生物もあなたもわたしもそのすべてが、神である実体の様態として存在していることになります。つまり「個々のものは神さまざまな属性の変容した姿、つまり様態にほかならない」(第一部定理25系)Kindle 位置No.3066
吉田は大学の構内を歩く猫は猫モードの神ですと書いていますが、世界は神の創造物なのではなく、あらゆるものが神の様態であり、そういう個物の集合である世界をエチカにおいては「無限様態modus infinitus」といいます。
またデカルトは精神的実体の本質的特性を「思惟cogitatio」、物理的実体の本質的特性を「延長extensio(空間的広がり)」としました。このデカルトの考えをスピノザは独特な形で継承していて、スピノザは様態を「神のさまざまな属性をある決まった仕方で表現している」もの(第一部定理25系)とします。ある個物が精神的・観念的な存在なら思考方面から見た神を、物理的存在なら延長方向からみた神をそれぞれ表現しているということです。
ここでいう表現とは表現したいから表現するとかしたくないから表現しないというようなものではなく、表現としての個物を生み出さない神はありえず、神なしにはその表現としての個物もありえない以上、スピノザの神と個物は表現を介して事実上、表裏一体の関係にあるといえます(ドゥルーズ)それはどちらがどちらのイニシアチブをとることもない、同時発生的で同根的な関係です。Kindle 位置No.3120
2022.4.27
第十一回 ひとはどういう生き物か ースピノザの思想6
自由意志の否定
第十回でみたようにスピノザは、神は実体であり、あらゆる個物はその様態だと考えました。
ここから、あるものが現に存在しているからには、それは神の表現としての必然的な存在だとします。
「ものごとは、それが生み出されたのとは別のどのような仕方でも順序でも、神から生み出されえなかった(第一部定理33)」
このようにスピノザは自由意志を否定します(決定論)
スピノザの決定論への批判として人間の行為に責任を問えなくなることがありますが、この他に興味深かったのは運命論についての著者の考えです。
自由意志がないなら過去から未来まで起こるすべてがあらかじめ決まってしまっているという運命論に対し、スピノザの「決定論」や「運命論」に関するテクストはほぼすべて完了形で書かれていると指摘します。
つまりすべてすでに起きてしまっていることを念頭においた主張なのではないかと吉田は言います。
そして、「神はあらかじめ確定された個物を一挙に品揃えして貯えているいわば無時間的な倉庫のようなものではない(…)あえて人間的な言い方をすると、何が可能であったのかは産出してみないと神にも分からない。逆ではないのである」という上野修の言葉を引きながら「産出が行われて、つまり過去のことになって初めて「何が可能であったのか」が判明するわけであり、産出以前に何が可能であるのかあらかじめ決まっているわけではない。」と言います。Kindle 位置No.3264
心身並行論
スピノザは精神と身体について、精神が身体を動かすこともなければ、身体が精神を動かすこともないと主張します。
スピノザは自由意志を認めないため、精神と身体は因果関係ではなく、並行関係にあると考えました。
「さまざまな観念の順序および結びつきは、さまざまなものの順序および結びつきと同じである(第二部定理7)」
これは「物理的物体の系列と精神的観念の系列は、実体という一つの同じものを別々の側面から表現しているからこそ、お互いに「同じidemである」と言われるのです。そしてお互いに「同じである」からこそ、両者の系列をまたいで因果関係ができることはありません。」Kindle 位置No.3329
コナトゥス
「あらゆるものは、それぞれできる限り、自らの存在に固執しようとする(第三部定理6)」
自らの存在に固執しようとするというのは、その人なりの自分のあり方にこだわろうとすることです。
机は机であり続けようとし、人間もぼんやりした人でもキリッと理性的な人でも皆それぞれのあり方にしたがって自分であること、自己同一性を維持しようとします。
この自分のあり方にこだわろうとする力をコナトゥスと言います。
2022.4.28
第十二回 ひとはどうして感情にとらわれるのか ースピノザの思想
スピノザは「自分のあり方にこだわろうとする力」であるコナトゥスを「そのものの現に働いている本質」と言い換えています。
つまり人間においては自分のあり方にこだわるのが本質だとすると、人間は外部から何かを強制されても、これが自分のあり方だと納得できなければそれを受け入れることができない生き物であり、納得するには、まずその何かを自分で考えてみることが欠かせないと吉田は書いています。そして逆に納得さえしてしまったら、傍からみてどんなに無理のあることでも平気でできてしまうのも人間であると言います。この辺読んでいて「暇と退屈の倫理学」の文庫版の表紙がスピノザなのを思い出しました。
さて、エチカの後半部分では感情を分析していきます。
スピノザは「喜び」「悲しみ」「欲望」を人間の「基本感情」としました。
自らのあり方に固執する力、コナトゥスは人間の場合には、いつもすでに「欲望」という感情に分節化しています。
そして欲望が叶えられたり叶えられなかったりする度合いでコナトゥスは増減します。この増減に伴う感情が「喜び」と
「悲しみ」で、これ以外の感情はこれら三つの基本感情が複雑に絡み合った変奏です。
複雑に絡み合うことで、ある感情が何に起因するのかもはや本人でさえ分からなくなるのは、連想と模倣のメカニズムによるのだそうです。
連想はつまり坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというやつです。
模倣は自分と自分以外の何かを感情で結びつけるメカニズムです。
「自分と似た何かが何らかの感情に触発されているのを思い浮かべるなら、わたしたちはそれによって、その何かに対して何の感情も抱いていなくても、その何かと同じ感情に触発される(第三部定理27)」
これを説明するのに吉田は猫をいじめる見知らぬおっさんやお地蔵さんを壊す見知らぬクソガキを例にあげます。
なんとなく猫/お地蔵さんとおっさん/クソガキだと、同類であるという共通項を持つ人間よりも、猫やお地蔵さんに共感や悲しみを感じるのは不思議。
このように「欲望」「喜び」「悲しみ」は連想と模倣に即して複雑に絡まり合って、さまざまなグラデーションを持つ感情をともなった思考回路を形成し、外界で触れるあらゆるものを内在のものとして組み込みます。
そして人はそれらをさまざまな感情で染め上げ自己増殖し、自らの生み出した感情に訳もわからず押し流され感情のままに行動する自動人形になると吉田は言います。スピノザはこのような感情に対する受け身の状態からどのようにすれば抜け出せて、人間として自由に生きていけるかということをエチカの後半で示そうとします。
スピノザは理性を人間に本来的に備わったものとしては考えていませんでした。
さらに訓練すればみんなが身につけることができるものとも思っていませんでした。
「理性が言うほど当てにできないことは百も承知で、それでも理性に突破口を求めるしかない。人間が置かれているこうした状況の、いわば逃げ場のなさを、希望も絶望も挟むことなく、ただひたすらにそういうものとして理解していた十七世紀人は、スピノザの他に恐らくいなかった」Kindle 位置No.3696