今日のスピノザ5
第14回は『政治論(国家論)』、そして最終回の第15回はその後のスピノザです。 2022.5.6
第14回 彼は自説を変えたのか ースピノザの生涯6と思想9
吉田はスピノザは自説を変えていないといいます。自説というのは『神学・政治論』と『政治論』の内容のことです。 たしか上野修の本ではスピノザは思想を転換しているというようなことが書かれていたような…
ともかく『エチカ』を書き終えたスピノザは人生に残された時間を『政治論』に傾けます。 匿名で書いた『神学・政治論』は発禁処分となり、『エチカ』の出版も生きている間に実現しそうにない状況、しかも体調は日に日に悪くなる一方のスピノザはこの『政治論』も生きているうちに世に出ることはないだろうと考えたのか(実際そうなったわけですが)自分が『神学・政治論』の著者であることを隠そうともせず、さらには『エチカ』を引用しながら論を展開していきます。
吉田は『神学・政治論』の後半でベースになっていた社会契約説が『政治論』ではほとんど消失しており、その理由として社会契約説がホッブズからの借り物であるため元々座りの悪い考え方だったと言っています。 ホッブズの社会契約はみんなが自然権を行使すると「万人の万人に対する闘争」が生じるため、全員で同時に自然権を放棄して第三者に譲渡する契約を結ぼうというものでした。 しかしスピノザがいう自然権はホッブズとは違い、「人間(も含めた自然界の万物)がそれがいいとか悪いとか言われる以前にいつもすでにもち、それぞれの仕方ですでに行使してしまっている「自らの在り方に固執しようとする力」、つまり『エチカ』の用語でいうコナートゥスです」(Kindle 位置No.4138)
このようなスピノザの自然権はそもそも自然状態に先行して独立に規定されているため、社会契約からは切り離されています。
そして人間存在がコナトゥス、自然権の行使を前提としている以上、ホッブズがいうような社会契約によって自然状態から脱するまでもなく、ひとはすでに自然状態にはすでにいないことになり、ひとがすでに生きていて自然権を行使している以上、そこにはなんらかの社会的媒介があって、わたしたちはそこから出発せざるを得ない。 ありもしない自然状態の生き地獄(=万人の万人に対する闘争)を勝手に仮定して社会があることを有り難がっている場合じゃない。わたしたちが生きる世界に地獄をもたらすのは自然状態ではなく、社会の枠組みであり、その枠組みを暴力で維持しようとする政治体制なのだと吉田はいいます。
『政治論』は政治体制を君主制、貴族制、民主制に類型化し、政体の安定条件=暴力への依存を小さくしても無理なく存続する条件をこれら3つの政体ごとに考察します。 そこでは『神学・政治論』で展開した思想、「哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう」という思想が継承されています。
しかし両著作のあいだで”自由を尊重しない政体の「弱さ」”は共通の主張ですが、『神学・政治論』で主張された”自由を尊重する政体の「強さ」”は『政治論』ではそう力づよく言い切れなくなっています。
その理由を吉田は社会契約説の消失を根拠に説明します。『神学・政治論』においては社会契約説に即した論理を展開しており、その場合、スピノザも読者も契約当事者の目線に立つことになり、そうすると少なくとも契約を交わすのに必要最低限の合理的思考能力を前提し、いつもすでに行使している自然権=自由に対して契約者が自覚的であり、そのために自由が尊重される政体を積極的に支持するだろうという憶測に違和感を感じにくくなります。「しかしこうした契約当事者の目線は、『政治論』になると、社会契約説とともにどこかへ消えてしまいます。それに代わって強く浮かび上がってくるのが、感情のメカニズムにとことんからめ取られた人間の目線であり、したがってまた、自然権としての自由の大切さに対して必ずしも自覚的であるとは限らない人間の目線です。もし、社会が主にそういう人間たちから成り立っているとすると、そのような社会を下敷きにした国家体制は、単に自由を尊重するだけではその存続を保障されないことになるでしょう。(Kindle 位置No.4257)」
したがって自由の大切さを自覚すること、経済活動の浸透によって最低限の合理的思考を根付かせたり、公的教育機関で偏向した宗教教育をしないようにすることなどをスピノザは望んでいたようです。
第15回 「死んだ犬」よみがえる ーその後のスピノザ
ここではスピノザの思想がどのように受容されてきたかが述べられています。
スピノザの死後すぐ、友人たちの努力により著作集が編まれました。
しかし生前には書物が発禁処分になるなど、元々広く一般に読まれたり議論されていたわけではなく、またラテン語が読める人も減っていたため18世紀初頭の時点で世間ではスピノザの著作は入手困難になっていました。
そんなわけでスピノザの思想は例えばディドロの『百科全書』など誰かの書物で論じられるのを目にするものとして、しかも当時は引用元をはっきり提示しなくても問題視されなかったので、スピノザ的な議論が展開されていてもスピノザの名前はあがあらないという状況が生まれました。 ここでの「死んだ犬」論はおもしろかったです。ざっくりいうと狂犬病の厄介さから犬の死骸というものは、一見無害なのだが、うっかり出くわすと扱いに困る不穏なものであり、かといって具体的に何がどう危険なのかよくわからない不気味なもので、スピノザをこれに例えている人がいるというお話でした。この表現は旧約聖書でもみたことがあるのではるか昔からの共通感覚があるんだろうな… そんな18世紀からどのように今日までスピノザの思想が伝わってきたかが述べられてこの本はおしまいです。
この本を読んでいると、そこにこだわるかなという細かいところ、例えばスピノザの兄弟姉妹の年順やスピノザのお父さんの好みの女性のタイプなど本筋にあまり関係ないところに著者の個性を感じておもしろかったです。
『エチカ』以外の著作も読んでみたくなりました。
<了>