今日のスピノザ2
第五回〜第八回は『神学・政治論』について。吉田さんはこの著作を訳されているからか熱量を感じます… 2022.4.20
第五回 なぜ『神学・政治論』を書いたのか ースピノザの生涯4
スピノザは1670年に『神学・政治論』を匿名で出版します。しかも版元も刊行地も隠して。
しかし出版から4年後の1674年にオランダで禁書処分を受け、著者とほぼバレていたスピノザは生前は他の著作を出版できなくなりました。
この『神学・政治論』を書いた理由として、当時の時代背景の2つの状況が関係しています。
①当時のオランダ国内の宗教上の対立(カルヴァンルーツの改革派教会内の主流派と非主流派の対立)
②特定の宗教勢力の政治、社会体制への介入、癒着
吉田は「スピノザは、宗教の名を借りた思想統制や迫害が、いつ、どのような状況下でだれによって行われても不正であり、愚行であることを、時と場合に左右されない普遍的論拠から明らかにする必要に迫られています。そして彼は、このような普遍的論拠を、のちに『エチカ』で全面展開されることになる彼自身の形而上学的、存在論的人間理解に求めようとするのです。『神学・政治論』が「『エチカ』の哲学理論から出るべくして出たスピンアウト作品」だと申し上げたのはつまりそういう意味なのです。」と書いています。(Kindle 位置No.1687)
2022.4.21
第六回 なぜ「哲学する自由」が大切なのか ースピノザの思想2
『神学・政治論』でスピノザが発したメッセージを集約すると「哲学する自由」だそうです。
ここでそもそも哲学とは何かというのを丁寧に説明してくれています。
こういういろんな人の「哲学とは」を読むのは楽しい。(以前読んだ『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎)には、ノヴァーリスは哲学とは「郷愁」であるといい、ハイデガーは「哲学に関してどんなに広範囲のことを扱ったとしても、問うことによって私たち自身が感動させらるのでないならば、何事も理解はできない。結局はすべて誤解にとどまる」といったと書かれていました) この本においては哲学とは「何が本当で何が嘘なのか知ろうとすること」であり、哲学する自由とは「内容はなんであれ、とにかく自分が気になることを自分の頭で考える自由、自分が本当だと思えることに自分の足(頭)でたどり着こうとする自由のことです」(Kindle 位置No.1804)
スピノザはさらに、哲学する自由を「考えたいことを考える」だけでなく「考えたことを言う自由」だと語っています。
そして、なぜ哲学する自由を制限してはいけないかについて、『神学・政治論』の巻頭でこう説明します。
「本書は、哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてします、ということを示したさまざまな論考からできている」
2022.4.22
第七回 聖書はどんな本なのか ースピノザの思想3
今回は『神学・政治論』の神学パートです。
神学、つまり聖書を研究する宗教論なのですが、これが結構すごい。 スピノザによれば聖書は、万物の真理ではなく服従の道徳を説く書物で、預言とは自称預言者たちの思い込みであり、したがってこれを読んでも賢くはならないとのことです。(これは禁書になっちゃうのもわかる気がする)
スピノザは聖書を預言の書、律法の書、真理の書、この3つの側面から批判的な分析をしています。
まず預言とは神の言葉を預かって、それを周りに語ることです。
スピノザは預言者は単に思い込みの激しい人であり、そういう人たちがたくましい想像力を発揮して語ったてんでバラバラな内容を集めた書が預言の書であるといいます。
何か奇跡的なことが起きたとしても、それはただそう見えるだけのことで、
たとえば、大気中の光の屈折で起きる「幻日」を知らない人がそれを見て書き留めたら、「空に太陽が二つ出た。奇跡だ!」ということになるわけです。
律法にかんしては、法というのは、自然とそう決まっている決まりと、人がそう決めた決まりがあり、神の法とは本来前者を指すはずだとスピノザはいいます。しかしユダヤの法(たしか600以上あったはず)では圧倒的に後者が多い。それはなぜかというと、旧約聖書に出てくる法は古代イスラエル人を一つの集団として、つまりユダヤ教社会としてまとめ上げるために作った法だからです。そしてこれらの法を理詰めではなく、神の権威を借りることで人々に守らせました。「これこれしないと神がこんな酷い罰をくだしますよ」と。しかしまとめあげるべき古代国家はとっくの昔に滅びてしまっているのでもはやこの法は失効しているのと同じです。 さらに真理についてはスピノザは聖書は真理を語る書物ではないと繰り返し主張します。
聖書は、その時代の人たちが持っていた一般的な偏見をベースに書かれています。(たとえば天動説など)
だからそんな根拠を持たない知識はやっぱり想像力による思い込みにすぎず、そこに真理は存在しないと結論します。
しかしここからがなるほどと思ったのですが、スピノザはこれだけ言っておいて、それでも聖書は読む価値があるといいます。
預言者たちが想像力をたくましくしてそれぞれ語ったことは、内容はバラバラなのによく読むと道徳的なメッセージにおいては不思議と一致しているとスピノザは指摘します。
「他の点の主張はどんなに違っていても、「愛」と「正義」を説かない預言者はいません。こうした愛と正義の推奨こそ聖書の記述の核心部分をなすメッセージということになり、その限りでは、聖書という書物は本来的には「道徳の書」と言うことになります。しかもこうした道徳は社会を下支えするのに役立ちます。」(Kindle 位置No.2213)
「もし聖書に込められたメッセージが認知的な真理ではなく道徳的な命令に他ならないならば、話は大きく違ってくるでしょう。その場合ピエタス=敬虔の有無は、その人たちが何を(認知的な真理として)信じているかではなく、何を(道徳的な命令として)実践しているかに左右されることになるからです」(Kindle 位置No.2229)
2022.4.23
第八回 自由は国を滅ぼすか ースピノザの思想4
『神学・政治論』の後半は政治論パートです。
ホッブズ:生きるために必要なことであれば何をしてもよい自由
スピノザ:「自然の権利や決まりとは、わたしの理解では、個物それぞれに備わった自然の規則に他ならない。あらゆる個物は、こうした規則にしたがって特定の仕方で存在し活動するよう、自然と決められているのである」(第16章2節)
ホッブズの場合、自然状態(=人間が社会をつくる前の状態)が先にあって、そのうえで自然権を説明します。 しかしスピノザの自然権はそのような自然状態とは独立して論じられます。そしてこの自然と備わった規則=自然権をふまえないような社会規範というのはなんの効果もないといいます。
次にこれらの自然権から二人の社会契約説の比較をするとこちらもかなり違っています。 いつ何時どんな理由で因縁をつけられて殺されてしまうかわからない自然状態から自分の命を守るために、自然権を成員みんながせーので同時に譲渡しますという契約、これがホッブズの社会契約説です。この場合、どんなにひどい社会でも万人の万人による闘争である自然状態に戻ることと比べたらマシ、という理由から社会契約を破棄するというオプションはありません。
しかしスピノザの自然権は自然状態を前提としていないので、社会契約が結ばれ、かつそれが続行されるには、契約するインセンティブが働くような社会でなければなりません。
(ところで読んでないのでわからないけれどそもそもスピノザは社会契約論者を自称しているのかなあ。あとホッブズの社会契約論については上野修が『デカルト、ホッブズ、スピノザ 哲学する十七世紀 』でその矛盾を指摘していて面白かった。そして國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の註ではまた別の解釈を提示していてこちらもなるほどと思いました。) だから社会の成員への力づくの強制が常態化した暴力的な支配というのは長続きしないとスピノザは言います。
上の第六回のところで冒頭に書いたようにスピノザは「哲学する自由」を主張するわけですが、何が本当で何が間違いなのか考えずに生きることを強制すること、つまり思想や言論、表現の自由を奪うことは、人間に自然と備わった規則である自然権から考えると不可能であるといいます。だから暴力的な支配によって「哲学する自由」を奪うような社会は長続きしないといいます。
「社会の支配機構としての国家は「むしろ反対に、ひとびとの心と体がそのさまざまな機能を確実に発揮して、彼らが自由な理性を行使できるようになるために、そして憎しみや怒りや騙し合いのために争ったり、敵意をつのらせ合ったりしないためにある」とスピノザは主張し、そしてここから「だとすると、国というものは、実は自由のためにあるのである」という有名な結論を導き出します。」(第20章6節) Kindle位置No.2549