今日のスピノザ4
第12回、第13回は『エチカ』後半です。感情との付き合い方について! この辺読んでいて「暇と退屈の倫理学」の文庫版の表紙がスピノザなのを思い出しました。 2022.4.28
第十二回 ひとはどうして感情にとらわれるのか ースピノザの思想7
スピノザは「自分のあり方にこだわろうとする力」であるコナトゥスを「そのものの現に働いている本質」と言い換えています。 つまり人間においては自分のあり方にこだわるのが本質だとすると、人間は外部から何かを強制されても、これが自分のあり方だと納得できなければそれを受け入れることができない生き物であり、納得するには、まずその何かを自分で考えてみることが欠かせないと吉田は書いています。そして逆に納得さえしてしまったら、傍からみてどんなに無理のあることでも平気でできてしまうのも人間であると言います。
さて、エチカの後半部分では感情を分析していきます。
スピノザは「喜び」「悲しみ」「欲望」を人間の「基本感情」としました。
自らのあり方に固執する力、コナトゥスは人間の場合には、いつもすでに「欲望」という感情に分節化しています。
そして欲望が叶えられたり叶えられなかったりする度合いでコナトゥスは増減します。この増減に伴う感情が「喜び」と「悲しみ」で、これ以外の感情はこれら三つの基本感情が複雑に絡み合った変奏です。
複雑に絡み合うことで、ある感情が何に起因するのかもはや本人でさえ分からなくなるのは、連想と模倣のメカニズムによるのだそうです。
連想はいわゆる坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというやつです。
模倣は自分と自分以外の何かを感情で結びつけるメカニズムです。
「自分と似た何かが何らかの感情に触発されているのを思い浮かべるなら、わたしたちはそれによって、その何かに対して何の感情も抱いていなくても、その何かと同じ感情に触発される(第三部定理27)」
これを説明するのに吉田は猫をいじめる見知らぬおっさんやお地蔵さんを壊す見知らぬクソガキを例にあげます。
なんとなく猫/お地蔵さんとおっさん/クソガキだと、同類であるという共通項を持つ人間よりも、猫やお地蔵さんに共感や悲しみを感じるのは不思議。
このように「欲望」「喜び」「悲しみ」は連想と模倣に即して複雑に絡まり合って、さまざまなグラデーションを持つ感情をともなった思考回路を形成し、外界で触れるあらゆるものを内在のものとして組み込みます。
そして人はそれらをさまざまな感情で染め上げ自己増殖し、自らの生み出した感情に訳もわからず押し流され感情のままに行動する自動人形になると吉田は言います。スピノザはこのような感情に対する受け身の状態からどのようにすれば抜け出せて、人間として自由に生きていけるかということをエチカの後半で示そうとします。
スピノザは理性を人間に本来的に備わったものとしては考えていませんでした。
さらに訓練すればみんなが身につけることができるものとも思っていませんでした。
「理性が言うほど当てにできないことは百も承知で、それでも理性に突破口を求めるしかない。人間が置かれているこうした状況の、いわば逃げ場のなさを、希望も絶望も挟むことなく、ただひたすらにそういうものとして理解していた十七世紀人は、スピノザの他に恐らくいなかった」Kindle 位置No.3696
2022.4.29
第十三回 ひとは自由になれるのか ースピノザの思想8
感情に受け身の状態で、それに押し流されてしまうことにどう対処すればいいのか。
スピノザはその都度その都度自分を動かしている感情をちゃんと認識しようといいます。
感情は複雑に絡み合った複合的なネットワークを成していますからそれを少しずつ解きほぐしていかなければなりません。
「きちんと認識する」とは、『エチカ』の用語では「十全な観念ideaadaequataをもつ」という言い回しで表現されます。その反対、つまりきちんと認識していない状態では、ひとは「十全でない観念ideainadaequata」をもち、この十全でない観念に動かされています。十全でない観念を一つ一つ取り上げなおし、これを十全な観念へと組み換えていく。そしてこの作業を地道に繰り返していくことにより、それまで受け身の感情に流される一方だった人間のあり方が、感情を感情として持ち続けながらも自発的・能動的な方向に徐々に向けかえられていく。スピノザはそういう息の長い、しかし考えてみるとそれしかないような自分の感情との向き合い方を『エチカ』後半部で示そうとするのです。」 Kindle 位置No.3710
感情とは何かにたいする感情なので、この何かの「観念」があって成立するものです。
Aにたいする憎しみはAの観念がなければ起こりえません。
しかし観念の方は、感情を伴っていなくても成立します。
「その当人のうちに、その人が愛したり欲したりしている何かの観念がなければ、愛や欲望(中略)といった思考様態はありえない。これに対し、観念ならたとえ他の思考様態が何一つ伴っていなくても存在しうる(第二部公理3)」
憎しみの感情に押し流されないためにどうしたらよいか。
Aに対する憎しみが、A自体に原因があるのか、それともわたしの側の事情にすぎないのかきちんと区別できるようになることが大切であると吉田は言います。
袈裟が憎いのは袈裟が原因なのか。坊主を憎むわたしが、本来坊主に向けられていたはずの憎しみが無意識的、自動的に拡大していき、わたし自身でそれを区別できていないと拡大された憎しみを止めることはできません。
しかしわたしたちが自身の感情を省察し、十全な観念を持つ=きちんと認識することで自分の中のAの観念ががどのくらいAの実像を反映し、どのくらい自分の側の事情を反映しているのかを区別することができれば、感情に対してただ受け身に流されていたところから能動的にものごとに向き合えるようになります。
触発と共通概念
このようにひとは受け身の状態からスタートします。
わたしたちは生まれたときからつねに外界のさまざまなものに接触、触発しながら、それと同時にいつも自分の中にさまざまな考え(観念)を生じさせます。接触する周りの仕組みと自分自身の仕組みとが混じり合いながら観念というものはできてくるので、観念というものは最初は必然的に雑な、十全ではない観念です。
この十全でない観念を十全化するには、触発を受ける側であるわたしたちが従っている法則と、わたしたちを触発するものが従っている法則を熟知しなければなりません。このような法則についての知をスピノザは「共通概念notiones communes」と呼びました。 たとえば台風の発生の仕方、想定される被害にはあらゆる台風に共通する仕組みが存在します。
個々の台風は現象としては一回こっきりのものですが、その現象の中から一回限りでない側面から見ること、これが共通概念に照らして見るということであり、この見方を心がけることで台風だったりいろんな物事に能動的に対処できるようになります。
スピノザの言葉にすると「理性には本来的に、ものごとを何らかの永遠の相(観点)の下に置いてとらえるという性質が備わっている(第二部定理44系2)」ということです。
しかし、これは理性とは本質的に、受け身のあり方を事後的に能動的なあり方へと修正する事後処理の装置であり、受け身の状態をその発生に先んじて回避するようにはできていません。要するに、一発食らってからでないと作動しないのが理性なのです。 Kindle 位置No.3869
直感知
スピノザはエチカ第二部で「想像の知imaginatio」「理性の知ratio」「直感の知scientia intuitiva」という3つの知を提示します。「想像の知」は十全でない観念を含んだ知であり、これに対し残り二つは十全な観念のみで成り立った必然的に正しい知です。「理性の知」と「直感の知」は必然的に正しいのですが、だからといって「想像の知」が必然的に誤っているという訳ではなく、こちらは「誤りの原因」とされています。
「理性の知」は理性というものがわたしたちに生得的に備わっているものでなく、面倒なプロセスを積み重ねて初めて確立されるものだったのに対し、「直感の知」は理性的な吟味は一切飛び越えて、あらゆる事物は神の何らかの様態として、わたしたちの精神のうちに「直ちに」位置付けることができる知だと吉田は説明しています。
「ということは、いくら目の前の現実に対して受け身に回らざるをえないような場面でも、つまり理性による整理が(まだ)追いついていないような場面でも、同じ現実を直観の知の方向から眺め直す限り、そこには現実に対して決して流されっぱなしにならず、能動的に向き合う可能性が担保されているはずです。いくら理性のレベルで苦戦続きで、さばき切れない感情の波に押し流されがちな状況でも、流され切らないための足がかりになってくれるのが直観の知なのです」Kindle 位置No.3954
そして、
「ものごとを理性の知のレベルで首尾よく整理できれば、それはわたしたちの精神にとって一種の成功体験になります。この成功体験が積み重なれば積み重なるほど、わたしたちは現実に接触・触発されるありとあらゆるものごとを、いっそう無理なく「神のうちにあり、神を通して考えられる」ものとして理解できるようになっていくでしょう。ものごとを生じさせるメカニズム(共通概念)が具体的に解明されていればいるほど、(まだ)解明されていないものごとさえも神である実体の何らかの様態として、つまり原理的に解明可能なものとして「直観」することは容易になっていくからです。」 Kindle 位置No.3982
「理性的探究が足踏みすれば直観の知が支え、理性の知が成功を重ねれば直観の知を支える。スピノザが『エチカ』で最終的に示そうとした人間の自由libertashumanaとは、この互いに独立した二系列の知が精神を車の両輪のように支え合い、現実世界に対する可能な限り能動的な向き合い方と「精神の安らぎacquiescentiamentis(第五部定理二七ほか)」を確保する、どうやらそういう境地であったと考えられます。 位置No.3995
この文章を読んで、カントの普遍的な理性と比べてスピノザはより人間に寄り添っている感じがしました。 どちらも宇宙人っぽいトリッキーさはあるけれどだいぶ違う。