我思う、ゆえに我あり
「私は考える、ゆえに私はある」──近代以降のすべての哲学は、「考える主体」を導き出すこの言葉から始まった。これは、すべての人間が理性を有することを前提として、近代精神の確立を宣言するものである。かくして、本書『方法序説』は、世界でもっとも読まれている哲学古典の一つとなった。(『方法序説』、山田弘明訳 「内容紹介」より)
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出典
(本文)
ずっと前から気づいていたことだが、実生活においてはきわめて不確実だと分かっている意見でも、 あたかもそれが疑いえないものであるかのように、ときとしてそれに従わなければならないことがあるのは、前にも述べたとおりである。しかし当時の私は、 ただ真理の探求のみに専心したいと思っていたので、それと正反対のことをしなければならないと考えた。そして、ほんの少しの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げ捨て、かくしてそのあとにまったく疑いえない何かが、私の信念のなかに残りはしないかどうかを見なければならない、と考えた。そこで、われわれの感覚 はときとしてわれわれを欺くがゆえに、感覚がわれわれに想像させるようなものは現実には何も存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の最も単純なことがらに関してさえ推論を誤り、誤謬推理をする人たちがいるのであるから、私もまた他の人と同じく誤りうると判断して、これまで証明とみなしてきた推理のすべてを偽なるものとして投げ捨てた。そして最後に、われわれが目覚めているときに持つあらゆる思考と同じものが、眠っているときにもわれわれに現れるが、その場合、真である思考は何ひとつないということを考えて、私は、かつて私の精神のなかに入りこんでいたすべてのものは、 夢のなかの幻想とおなじくらい真ならざるものだと仮定しておこう、と決心した。しかしすぐあとで、このようにすべてを偽であると考えようとしている間も、そう考えているこの私は必然的に何ものかでなければならないことに気がついた。そして、「私は考える、ゆえに私はある」というこの真理はたいそう堅固で確実であって、懐疑論者のどんな法外な想定をもってしても揺るがしえないと認めたので、私はこの真理を私が求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け取ることができると判断した。(『方法序説』pp. 55-6、山田弘明訳 ) (訳注より)
原文は Je pense, donc je suis である。この命題は解釈者たちによってラテン語でCogito, ergo sum(コギト・エルゴ・スム)と表記され、デカルト哲学の標語とされてきた。だが、厳密に言えばデカルト自身がこのラテン語表記をしたことは一度もない。『省察』では、 Ego sum, ego existo(私はある、私は存在する。AT. Ⅶ. 25)となっていて、 ergo がなく ego や existo という語が付加されている。『原理』では ego cogito, ergo sum (私は考える、ゆえに私はある。 第一部七節)、『序説』のラテン語訳でも Ego cogito, ergo sum, sive existo (私は考える、ゆえに私はある、あるいは存在する。AT. VL. 558)となっている。『真理の探究』に一箇所だけ cogito, ergo sum (AT. X. 523)とあるが、 これは第三者による翻訳である。 こうした表記の相違を根拠として、 『序説』と『省察』とではコギト命題の意味が異なるとする解釈(アルキエやマリオン)が出てきている。(同上、pp. 234-5) /icons/hr.icon
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