ニーチェメモ(イ)
書き込み自由チェ
このメモの目標
ツァラトゥストラ読書会の振り返りメモなども合わせて、何年後かでも、ニーチェの全体について話し合うときがきたら、それらを参照しながら話す。 ニーチェってノーモーションでギャグ言う人では
ニーチェおかしいこと言ってると「くそ真面目」に解釈すると間違える
終盤は本当におかしいのかもしれないが
なるほど。悲観的なのか楽天的なのか惑わせるようなことをたしかにぱっという。道徳の系譜を探ることで、楽しく扱えるようになるのではないか、とか。イタロー.icon ニーチェにおいては、著作中で多用されるメタファーを読み解いていくことが求められるのではないか。
byトルストイ
前から具体的な出典知りたく思ってるイタロー.icon
ちょっと調べたら英語の格言サイトでも「引用:不明」となっていた久住哲.icon
「宗教とは何ぞや」では、「半狂」という表現が使われているイタロー.icon
ツァラトゥストラ
ツァラトゥストラかく語りきの主人公
四十歳
ニーチェは釈迦やイエスを意識しているようだ
ニーチェの仏教に対する考えの変遷とは
ツァラトゥストラの文体がルターのドイツ語訳聖書をパロっている
ツァラトゥストラの滞在する町「まだら牛」の語源は釈迦関連 綱渡り芸人を弔おうとする→眠る→ひとつの真理を見る
超人
人間は乗り越えられるべきあるものである
ツァラトゥストラは超人を予言する
超すごい人ではなく、人を超えた存在
超人に関する密度の濃い言説が語られる
「超人は大地の意味である」
末人
超人とセットで出てくる
超人の反対は最後の人間である。私は最後の人間を超人と同時に創造したのだ。
最後の一人、ではなく人類のダメダメなパターンの最終形態
極悪人や、変質者などではなく、一般的な意味で道徳的に堕落しているわけでもない。俺やん、とか普通じゃん、という見方もできるかも知れない
ヌクモリティの飽和状態ではないか。
永劫回帰
ツァラトゥストラの序盤には出てこない
しかしここで反論として当然もちだされるべきなのが、『火の鳥』(手塚治虫)である。 肯定的弁証法と否定的弁証法を止揚することはできないだろうか? は?なにいってんだ?
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輪廻転生が、個のサイクルが別の存在に変化しつつ回る永遠の変化の摂理だとすれば、永劫回帰は全存在が一続きの直線的な流れであり、同時に一つのサイクルであるという摂理である。あらゆるものは変転するが、変転は再び繰り返す。つまり、同時にすでに無数に繰り返されている。
なぜ繰り返すのか。繰り返さないなら、二つの解決が導きだされる。
輪廻転生、最後の審判
輪廻転生において、同じ繰り返しはない。繰り返すことなく変化しつづける摂理だけが繰り返す。
最後の審判。
極めて強力なこれら二つのメカニズムは、しかしこれらのメカニズム自体を前提として生きることを要請する。
永劫回帰のビジョンは、これらを統合し、またメカニズムを相対化する。われわれは永劫回帰をメカニズムとしてではなく、ビジョンとして、原理ではなく、渇望として持ちえる。永劫回帰を前提とせず、かくあることを欲する。今そうあることを意志する。
輪廻転生のように来世に持ち越さない。最後の審判のように終末を待ち望まない。
目標を持たない世界観の中で、或る世界観に依らず、われわれが目標を持つ
どんな欲求が永劫回帰を掴んだか
従うモラル、与えてもらったモラル、例えばあなたは偶然に生まれてきたのです〜と諭されるような。自分の人生は偶然の連続であり、全ては偶然の産物である、という認識は、容易に運命決定論や運命についての相対主義に傾く。
あなたは人間です。私も同じ人間であります。なので仲良くしましょう、という理屈。
なぜ奴隷、の、道徳、なのか。少なくとも、単なる「常識」に対する「叛逆」ではない。そういう余裕のある話ではない。きれいごとが嫌いだから批判するのではない点で、人間を畜群と罵倒するニーチェは
従うためには、従わせるためには、固定したモラル≒道徳が要る。この道徳に、普遍の、絶対の、永遠の服從を誓うと、見返りに、
主人の顔は?
三段変化
ニーチェ主義者
ニーチェ主義者とはなんなのか。
誰もが若い頃に云々
手塚訳p92
評価によって価値が創造される
新しい価値を生み出す者は、古い価値を滅ぼす
ツァラトゥストラ 第一部を一読
濃い
2ヶ月かけるほどの密度はある、むしろ軽くでも足りないかもしれない、まだどうなるかわからないが
どういうふうに読むかを、読み返して読んでみることを欲す
ニーチェの各著書の結びつきは強い
気になった句を留めておいて再読すると思いがけない箇所で再見する
まむしのかみ傷の最後のくだりがわからない。
ニーチェの思想について、有益さや社会的意義の観点から評価して、単純に否定するとしたら、それはいまだニーチェの後ろにいる思考ではないか。ニーチェの視点の先を見ているといえるのか。
ぜんぜん読書会に反映するの忘れた。PCになったら参照できるように貯めておこう
ニーチェはドストエフスキーの『悪霊』を読んでいる。 キリーロフの思想 人神
何に関心を示すかによって、計られる
目標
ツァラトゥストラp23
人間みずからの目標、最高の希望の萌芽
目標→大地の意義→それを意欲すべき→それに向けて人類を教育すべき……という論筋があると思っている久住哲.icon 神が死んだのに、天国や地獄にかまける状態を、本来の位置に戻すイタロー.icon
しかし雷は、宗教の始原を感じさせる。
畏怖
遠くあるもの
近くにいると焼かれる
ルターの伝説
宇宙空間に暮らすとモラル、心の置き方が変わるらしい。火星に移住した人間のモラルはいかに変化するか。
没落して、超人に席を譲る人間。憐れみからではない。笑いながら去ってゆく。
怪人20面相みたいだ。
可能性
ムージルとの違い、あるいはムージルのニーチェ解釈、あるいはムージルの見たニーチェの横顔
諸力の停止、諸力の平衡は一つの考えうる事例である。しかしそうした事例は生じたことがなく、したがって可能性の数は現実性の数よりも大きいのだ。
一見、強調部だけを見ると、可能性は現実性よりたくさんあって、つまり未来には可能性が云々……といった話になりそうだ。
しかし、直前の文を見れば、この場合の可能性とは考えうるが実現していないということにすぎない。
諸力の停止、諸力の平衡が生じたなら、現在もまたその状態が保たれているはずだ、という前提。そうはなっていない、だから諸力の停止や平衡は現実から除外される。
対して、
p689,断章1325〜
『ムージル著作集第九巻』p20,p26
『ツァラトゥストラ』と『特性のない男』
ツァラトゥストラの続編草稿
蛇はそうだという
不可能
ツァラトゥストラは不可能なことは目指さない
死人に語ることも不可能……と気づいたか
超人は根底から賢くあるのか
賢さと誇りが飛翔するのか
背面世界論者
飛び越えようとする疲労感
肉体の軽侮者
紙のノートに書いたことをここに引き写すか、読書会で投げかけてみるか考えもの。
永劫回帰がなんなのか、という話について。読んで考えてみるのは面白そうだ。
どう伝記的なニーチェに近づいていくか。どうニーチェの哲学に近づいていくか。そして最後に、どうニーチェ自身に迫っていくか。
なぜニーチェを役に立つことに役立てようとするのか。単純な疑問。
血でもって書く
リソースをさく
精神は書く燃料
「読むことと書くこと」自体が読むことと書くことの可能性をかいま見せている
道徳の系譜の序論八では、反芻という表現をしている。
或る新しい仏教はありそうなことだ。最大の危険。
『生成の無垢』
なにがヨーロッパにニヒリズムをもたらしたのだろう。875