ニーチェと文学者たちの比較(イ)
私がストレンジやな〜と思って感心してる三島由紀夫とか埴谷雄高とかムージルとか、彼らはニーチェの息子といってもいいくらい超人志向だ。ただなんというか、どっしり感、本気度はさすが本家本元というか、ニーチェ様の志向具合は筋金入りな気がする。 三島は超人を目指すというより、能動的ニヒリズムで虚無の克服を狙ったんだろう(そうなのか?)。虚無の克服とは虚無の回避ではない、と思われる。私見にすぎぬが、ニーチェの無は、まったくの無というより、何がひそんでいるか判らない深淵としての無、なんじゃないか? あらゆる力の源泉としての扉。無に飛び込むことは自滅でなく創造的な冒険である、とくらァ痺れるねェ。三島が虚無の克服をしたのか虚無を回避したのにすぎないか判断するのは現代では無理。後世にまかせよう。 埴谷はかなり周到かつ執念深く虚体の創造、つまり人間による存在の超克を狙っているようだが、これってほぼ超人じゃないかーい。ただ、現実での不可能性を認識し、あくまでもフィクション内の革命に限定しているふうにもみえる彼のスタンス。そのぶん思想にエッジが効いてるが、仮象の論理でディテールを組み上げていく彼のプログラムは、肉体を欠いたドストエフスキーならぬ肉体を欠いたニーチェとでもいうようなスタイルだ。 ムージルは『特性のない男』を読むと分かる通り、ニーチェに浸かりつつ、ニーチェとガチで向き合った人間だ。もはや当てつけともいうような凝った対立構造を生み出し(ウルリヒ、アガーテ、モースブルッガー、クラリセ)、ニーチェという怪物と真っ向勝負している。一方で同時代の飽和状態に陥った文化文明精神肉体とも決別する(アルンハイム、ディオティーマなど。ただし彼らにも「可能性感覚」を見いだせはしないだろうか。)。いわば超人と末人の間を、まさに深淵を覗き、無に飛び込むような挑戦だ。私は、ムージルはその無から、ある水準以上の成果を引き出し得たのだと思う(その作業は主に第三部で行なわれていた)。小説が未完に終わり、彼自身が結論づけることができなくなったにしても。 総じて、本人ではなくて何かしら通じるものがある人間への感想になったが、比較することでニーチェのオリジナリティがより強く感じられた。彼は無から創造し無へ破壊し続けるものとして、超人を想定していた。それはたぶん固定された価値観ではないと思う。また彼は現実に超人のシュツライを意志した。彼はムージルよりも断然過激であり、誤解を受けやすい。
私は彼らの誰一人に対しても意見を異にする。