可能性は現実性よりも「多い」
可能性→現実性ではない
一般的には「可能なもの」に肉付けされて「現実のもの」が生まれると思われがちである
現実性→可能性である
可能性は現実性よりも「多い」
可能性および現実性はそのようにイメージされる
ここでの少ないとは:
可能性+αで現実性になるという発想
現実性を分析すると、可能性に含まれるすべての要素+可能性にはない個体性みたいなものがある!というような発想
いわば、可能性は幽霊みたいなもので、それに肉付けすると、現実性に転化すると思われている 竜の絵は、そこに目を描き入れるまでは竜の可能的存在だったが、目を入れることで(なにか)生命が宿り、現実の竜になる……といった発想
例えば、本の構想が心のどこかにあるとする。まず本の構想という可能性がある。そして、そこに肉付けをすると、現実の本になる。
コンセプトはすでに心の中に出来上がっていて、あとはそれを文章に起こすだけ!というような状況を想像する。
もちろん、構想(目次案)がまずあって、それに則って文章を実際に書いてゆくという作業はある。
しかしその場合でも、構想(可能的作品)+文字が現実作品であるとは思わないだろう。この場合の構想は、執筆の手引き(あるいは軛)となるこれまた別な現実的なもののひとつであるだろう。
実は、可能性の方が現実性よりも多い
現実性+αが可能性
現実に起こったことが過去へと遡及的に反映されて可能性といったものが想定されるようになる
ベルクソンは鏡像を例に出して説明する
実在の人間+鏡で鏡像ができる
鏡像に肉がついて実在の人物が出来上がるなんて誰も思わない