永遠回帰
一言で言えば、永遠回帰とは「一切が現在あるのと少しも違わない形と順序のまま、無限の時間の流れのうちで、無限回繰り返されること」。 /icons/hr.icon
「永遠回帰」の初出
ニーチェの著作において、永遠回帰が初めて登場する場面を、まずは見ておこう。彼は、そこに「ツァラトゥストラの根本思想が示されている」(『この人を見よ』『ツァラトゥストラはこう語った』)と言う。 「最大の重し──もしある日あるいはある夜、おまえのこのうえない孤独のなかに悪魔が忍び込み、こう告げたとしたらどうか。「おまえが現に生きており、また生きてきたその生を、おまえはもう一度、いやさらに無限回にわたって、生きねばならぬ。そこには何ひとつとして新しいことはなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思いとあらゆるため息、おまえの生の言い尽くせぬ大小すべてのことが、おまえに回帰して来ねばならね。しかもすべてが同じ順序と脈格において(中略)」と。──おまえは身を投げ出し、歯ぎしりして、その悪魔を呪うのではないか。それとも、おまえは突如としてとてつもない瞬間を体験し、「あなたは神だ、私はかつて一度もこれほど神々しいことを聞いたことがない!」と答えるであろうか。もし生の回帰というその考えが、おまえを圧倒したとすれば、それは現在のおまえを変えてしまい、砕きつぶしてしまうかもしれない。何事につけても「おまえはもう一度、いやそれどころかさらに無限回、それを欲するか」という問いが最大の重しとなっておまえのうえにのしかかるだろう! そうはならずに、生の回帰というその究極的で永遠的な確証と確認のほかにはもう何もいらないと思うためには、おまえは自分自身とその生とをどれほどいとおしまねばならぬことであろうか。」(『悦ばしき知識』)
(cf. 『これがニーチェだ』p. 170)
『力への意志』(下)における「永遠回帰」の論証部分(?) 無限の時間のうちでは、あらゆる可能な結合関係がいつかは一度達成されていたはずである。それのみではない、それらは無限回達成されていたはずである。しかも、あらゆる結合関係とその直後の回帰とのあいだには、総じてなお可能なその他すべての結合関係が経過したに違いなく、これらの結合関係のいずれもが、同一系列のうちで生ずる諸結合関係の全継起を条件づけているのであるから、このことで絶対的に同一な諸系列の円環運動が証明されているはずである。すなわち、それは、すでに無限にしばしば反復された、また、無限にその戯れを戯れる円環運動としての世界にほかならない。
『生成の無垢』 1296~
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コメント欄
久住哲.iconこれの意義が全く分かっていない。2022/6/14
これは時間論、歴史観といっていいのだろうか
これを導入することでどういった思考・行為が促されるか